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3.6 プルウ・ネイド(Layer:1 Main Story)

 朝の淡い光が、白い少女の顔に微妙な陰影を作っていた。

 整いすぎと言っていいほど絶妙な配置の顔立ちは、上等な芸術品のように何度見ても新しい感動を与えてくれる。そして、その一挙手一投足まで計算されたような所作は、そのままマナーの教科書になりそうだった。

 エミリーは、いつものように黙々と豪華な朝食をとっている。

 そういえば、こいつと出会ったころは、朝食の席でもよく喧嘩腰のやりとりをしたな、とマイケルは思い出す。一週間ほどの出来事なのに、長かったような、短かったような、不思議な感覚だ。

 クロワッサンを口に運んでいるエミリーに、マイケルは声をかける。

「エミリー、今夜、なにか予定はあるか?」

 ここのところ超過勤務続きだったこともあって、マイケルが受け取った給与明細には、いつにない高額が記載されていた。その使い道を考えていたとき、マイケルは今のうちにエミリーに借りを返しておこうと思いついた。エミリーと同行する店は高級店ばかりだが、マイケルの分の支払いもすべてエミリーがしている。任務に必要な経費だからスコットランドヤードから出るのだが、エミリーは、借りは作りたくないと言い張っていた。

 食べかけのクロワッサンを皿に置いて、エミリーが首をかしげる。

「とくにないわ」

「じゃあ、二人でディナーに行こう。今日は、俺がご馳走するよ」

 エミリーは、きょとんとした表情で、自分の顔を指差した。

「わたし?」

「ああ」

 今度は、唇に指をあてて首をかしげる。

「えっと、プライベートなお誘い?」

「そうだが」

 マイケルは、あきらかにとまどっている様子のエミリーを見て意外に思う。まさか、いままで食事に誘われたことがない、なんて言うんじゃないだろうな。

「なにを企んでいるの?」

 エミリーが、上目遣いで言った。

 図星を突かれたマイケルは、飲んでいたコーヒーを噴き出しそうになった。

「いや、二人で食事がしたいだけだ。他意はない」

 言ってから、マイケルは今のはまずかったなと反省する。女の子をデートに誘うときのセリフとしては、まちがいなく落第点だ。エミリーをデートに誘うつもりは微塵もないが、それでなくてもプライドの高いエミリーのことだから、わたしに魅力がないと言うのかなどと怒り出すかもしれない。

 案の定、エミリーはオッドアイを細めてマイケルをじっと見ている。

「そう言われると、ちょっとひっかかるけれど……」

 やはり下手を打ったか、と動揺しかけたとき、思いがけない言葉がエミリーの口から出た。

「わたしでいいの?」

 マイケルは、ほっとすると同時に疑問を抱く。エミリーの問いかけは、他に誘うべき相手がいるだろう、という意味にも、仲良く食事などしていていいのか、という意味にもとれる。いずれにせよ、エミリーの方から断るつもりはないようだ。ならば、そう気にすることもないだろう。

「俺は、おまえを誘いたいんだから、それでいいんだ。行くだろ」

「それなら、ご一緒させていただくわ。お誘いいただいて、ありがとうございます」

 エミリーは、なぜかすこし上気した顔で椅子から立ち上がると、マイケルに向ってお辞儀をした。それは完璧な作法にのっとったものだったが、はっとするほど優美な所作だった。そういえば、エミリーがマイケルに対してお辞儀をするのは、これが初めてだった。


 モザイクのようなガラスの天井を見上げると、雲ひとつない紫色の夕空が一面に広がっていた。目の前には、白いドーム屋根から何本もの黄色いマストを突き出したO2ドームが、海底の軟体動物のように地面にへばりついている。夕空を映した黒紫の川面には、点りはじめた建物の灯がゆらゆらと揺れていた。

「たまには、こういうのもいいわね」

 マイケルとエミリーは、ディナークルーズ船の舳先に近い席に、向かい合わせで座っていた。

 ゆっくりと移り変わる夕景を眺めながらの食事に、エミリーはしごくご満悦の様子だった。

 テーブルには、メインディッシュに選んだラズベリーソースのかかった鴨のソテーと、赤ワインのボトルが並んでいた。飾り気のない文字で「Côtes de Provence Rouge (AOC) Domaine Laurentville」と書かれたラベルの赤ワインは、エミリーがわざわざ持ち込んだものだ。

未成年にしか見えないエミリーだったが、フルボトルのワインをほとんど一人で空けても少し頬を染めている程度で、普段から飲みなれていることはすぐにわかった。マイケルは、そこにはあえて目を瞑ることにした。

 アップにしたパールホワイトの髪とノースリーブの黒いイブニングドレスが、照明の光を艶やかに返す。全身が白と黒のシンプルなコーディネートだが、ぱっちりと見開かれた青と赤のオッドアイが、ほんのりと色づいた白い顔の中で異彩を放っている。

 そのみなりは、乗り合わせた人々の注目の的だった。エミリーは、集まる視線を意に介していないようだったが、一緒にいるマイケルはまったくもって落ち着かない。

「なあ、エミリー。いくらなんでも、その格好はやりすぎだ。なんだかおまえ、浮いているぞ」

 そう言いながら、マイケルはエミリーが普段着だったとしても、周囲の視線を集めたにちがいないことに思い当たる。なんとも厄介なお姫様だ。

「あのね、ディナーに行くときは、このくらいにドレスアップするのがレディの常識なの。あなただって、いちおう貴族でしょ」

「まあ、そうなんだけど」

 マイケルは、そう答えて鴨肉のソテーを頬張る。ラズベリーソースの爽やかな酸味が、口に広がった。

 エミリーは、小さく切り刻んだ肉にソースをからめて口にした。

「ほんとうに、だめな人ね。恋人を誘うときは、ちゃんとしているのかしら」

 そう言って、エミリーはいたずらっぽく笑う。

「恋人?」

 マイケルには、エミリーの言っていることがわからない。

 エミリーは、音を立てずにナイフとフォークをお皿に置いた。そして、ワインをひとくち飲む。

「そうよ。昨日の人がそうかと思ったけど、名前が違っていたし、別れたって言っていたものね。……ソフィーっていうんでしょ、あなたの恋人」

 マイケルは、エミリーの言葉に呆気にとられる。

「いや、ソフィーは、そんなんじゃない。けど、どうしておまえがソフィーのことを知っているんだ?」

 エミリーは、はあっとひとつ、ため息をついた。

「あなた、気がついていないのなら最低よ。どさくさ紛れに、わたしのことソフィーって呼んだじゃないの。てっきり、恋人の名前だと思ったわよ」

 そういえばそんなこともあったな、とマイケルは納得する。それと同時に、あんな状況で俺が口走ったことを、よく聞いていたものだと感心する。

「ソフィーは俺の妹だよ。それに俺はいま、恋人募集中だ」

 マイケルは、強引に話題を変える。ソフィーのことを、これ以上詮索されたくなかった。

 エミリーは、ふぅんと唸ったあとに続けた。

「そういうことね。シスコンじゃあ、うまくいくわけないか。あなた、性格が悪いんだから、せめて高望みはしないことね」

 マイケルの思惑どおり、エミリーは新しい話題に食いついてきた。

 それにしても、性格が悪いとはなんという言い草だろう。マイケルは、おまえにだけは言われたくないね、と心の中で反論する。

「なんなら、おまえを俺の彼女にしてやってもいいぞ。かわいげも色気もないけど、それが身につくまで我慢してつきあってやるよ」

 マイケルは、酒の勢いも手伝ってエミリーに軽口をたたく。そして、たぶんエミリーは怒り出すだろうな、と思う。

 案の定、エミリーの顔に険しい表情が浮かんだ。それと同時に、マイケルの足の甲に激痛が走った。足の位置をいろいろ変えているのに、エミリーは確実にヒットさせる。恐ろしい特技だ。

「お断りよ。わたしを恋人にしようなんて、百年早いわ。あなたみたいに無礼で役立たずの上にダメ人間、おまけに性格も口も悪いときたら、もう救いようがないわね。わたしがしっかり躾してあげるから、せいぜいがんばりなさいね」

 エミリーの目が怒っていないのを見てとったマイケルは、おどけて、お手上げのジェスチャーをして見せた。

「おまえの好みに合うようになるなんて、百年たっても無理だよ。おまえが俺に合わせた方が、早いと思うぞ」

 はあっと、軽いため息がエミリーの口から漏れる。

「期待なんてしていなかったけれど、絶世の美少女をディナーに連れ出しておいて、もうちょっと気のきいた台詞はないのかしら。恋人どころか、男としても失格ね」

 はいはい、そうでしょうとも。こっちも、おまえなんて願い下げですから。

 マイケルは、そう思いながらワインを口にする。嫌味のないすっきりとした飲み口で、ワインに詳しくないマイケルでも美味いと思えるものだった。料理にも、この雰囲気にも、よく合っている。

「まあ、そういう飾り気のないところは、悪くないけど」

 めずらしく、エミリーがマイケルを褒める。

「堅苦しいのは、どうも苦手でね」

「そうだったわね、貴族嫌いの貴族さん。どうしてなの?」

 それは、マイケルの心の傷に触れる話題だった。あまり、他人に話したいことでもない……はずだった。

「つまらない話さ。食事どきの話題には、向かないかもな……」

 しかし、マイケルはそう答えていた。そして、自身でもその心境の変化に驚く。

 借りを返すために誘った席だから、無難に終わらせればいいとしか考えていなかったが、機嫌のいいエミリーにつられて、今までになく穏当な会話を重ねていた。そのせいだと自分に言い訳をしながら、マイケルは貴族嫌いになった理由を話すことにした。

「エミリー、俺の出自は知ってたよな」

「ええ」

 マイケルは、ワインをあおってから話し始めた。

「じつは、ヴォールス一門には、伯爵家と男爵家があるんだ。ことの発端は、今から二十数年前になる」

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