3.4 リージェンツ・ローズガーデン(Layer:1 Main Story)
リージェンツ・パークに行きたいと言い出したエミリーを連れて、マイケルはベイカー・ストリートにやってきた。ここは、コナン・ドイルが書いた推理小説の主人公、シャーロック・ホームズが探偵事務所を構えていたとされる場所として有名だ。
地下鉄駅の出口には、ケープの付いたインバネスコートを羽織り、鹿討帽子をかぶってパイプを手に持ったホームズの銅像が、二人を出迎えるように立っていた。
界隈には、シャーロック・ホームズの博物館や、マダム・タッソー蝋人形館などの名所があって、しかもリージェンツ・パークにも近いので、駅の周辺は観光客で賑わっていた。
蝋人形館と博物館をざっと見物してから、アウターサークルの車道を横断してリージェンツ・パークに入る。途端に喧騒が遠くなった。
リージェンツ・パークは、かつてはイギリス王室の狩猟場であり、エリザベス一世やジェームス一世といった歴代の王が、各国の公使たちと狩を楽しんでいた場所だ。それを公園として整備したのは、今から約二百年前の摂政で、後に国王になったジョージ四世だった。面積一六六ヘクタールという広大な公園であり、見渡す限りの芝生と林が広がる風景は、都会の真ん中とは思えないような、のどかな雰囲気に包まれていた。
カモやガチョウがのんびりと泳ぐボーティング湖の畔を、マイケルとエミリーは、会話らしい会話も交わさず、二人並んでゆっくりと歩く。公園に流れるゆったりとした時間と、包み込むような穏やかな空気が、微妙に軋んでいた二人の気分を少しずつ変えてくれるような気がした。
きちんと四角く剪定された並木と植え込みの間を延びるアヴェニュー・ガーデンを散歩し、チェスターロードの手前で、ザ・ブロード・ウォークに移る。
リージェンツ・パークの東端を南北に貫く幅の広い並木道ザ・ブロード・ウォークには、休日の午後ということもあって、散歩を楽しむ人や両側に並んだ木製のベンチに座って談笑する人の姿が多かった。木立の向こうには、公園の整備と時を同じくして建設されたネオゴシック様式の巨大なテラスハウスが、大理石のギリシャ神殿のような堂々とした姿を見せている。
春にはピンクの桜並木になるチェスターロードを歩いて、インナーサークルの車道を渡ると、リージェンツ・パークの文字通り中心と言っていいクイーン・メアリー・ガーデンがある。ほぼ円形の園内には、さまざまな色のバラの花が咲き乱れ、辺りを包む空気には甘い香りが満ちていた。
エミリーは、オッドアイを細めて、うっとりした表情で花壇のあいだを歩いていく。
白くて長い髪が風に流れ、クリーム色の生地に花柄を散らしたジャンパースカートのウエストでは、大きなリボンがふわふわと揺れる。
まるで絵本の挿絵のような光景に、マイケルは見とれてしまう。ランチの席でのいざこざなど、遠い昔のような気がした。
やがて、風にのって教会の鐘の音が聞こえてきた。
マイケルは、今朝の礼拝のことを思い出して、エミリーに声をかけた。
「エミリー、今日のお祈りはどうしたんだ?」
エミリーは立ち止まり、人差し指を唇に当てて小首を傾げると、遊び人とつぶやいてマイケルを指差した。
「違う、日曜礼拝だよ、主日のミサ。エミリーの家は、カトリックだよな」
「ああ、そのこと……」
風で乱れて肩にかかった髪を背中に流してから、エミリーは首を左右に振る。パールホワイトの髪が、彼女の背後でふわりと広がる。
マイケルは、ふと、出会った夜のことを思い出した。そういえばあのとき、一瞬だが、エミリーの髪が、天使か妖精の羽に見えた。今では、とてもそんなふうには思えないが。
「公国の国教はカトリックだから、しかたなく行事には出ているわ。でも、プライベートでは、教会になんて行かないわ」
――やはり、そうか。
マイケルは、それで今朝のエミリーの言動が、ようやく腑に落ちた。
日曜日の朝だというのに、ハロッズに買い物に連れて行け、とエミリーはマイケルにせがんだ。マイケルが誘いを断るために、一人で行けないのかとからかったら、エミリーはむきになって、本当に一人でハロッズに買い物に出かけてしまった。そうまでして、日曜の午前中から遊び歩こうとするエミリーに、ずっと違和感を抱いていたのだ。
「ちょっと休もう。座れよ」
マイケルは、白バラのアーチの下に設えられた木製のベンチに、エミリーを誘った。
エミリーは、しばらく立ったままでマイケルを見下ろしていた。やがて、しようがないわね、という顔でバッグからハンカチを取り出すと、ベンチに敷いてその上に座った。
「気のきかない人ね。レディに屋外の椅子を勧めるなら、ハンカチくらい敷いて欲しいわ」
エミリーは文句を言ったが、それにはとりあわずに、マイケルは逆に問いかけた。
「教会に行かないって、どうして」
「行きたくないからよ」
当然でしょ、とでも言いたげに目を細めて、エミリーが答えた。
「なにか、事情でもあるのか」
「べつに……。仕事も忙しいしね」
エミリーは、知り合いにうっとおしい司祭がいるのだと不平を並べていたが、マイケルは、仕事という言葉でエミリーが会社を経営していることとともに、また昨夜の事件を思い出していた。
「あんなことをしているんだから、せめて神に祈って、罪の許しを請うべきだと思うが」
そして、今朝の日曜礼拝で、エミリーの罪が許されるよう神に祈ったことを話した。
「余計なお世話よ。……と言いたいところだけど、いちおう、お礼は言っておくわ」
「忙しいだけで他に事情がないんだったら、教会に行くべきだよ。俺の知り合いが、牧師をやっているんだ。プロテスタントになるけど、それでよければ今からでも教会を開けてもらえるぞ」
マイケルはもちろん聖職者ではないが、神の教えに従うものとしては、当然のことをしているつもりだった。だから、エミリーが発したその言葉の意味を、完全に聞き間違えてしまった。
「神を、信じているの?」
「何だって?」
エミリーが、ため息をつく。
「頭の回転が鈍いわよ。人の話は、しっかりと聞きなさい。神を信じているかどうかを、尋ねたのよ」
「もちろん、俺は、神を信じている。神は、いつも俺の心の中におられるからな」
エミリーは、マイケルから視線を外すと、ポプラの梢を見上げた。その視線の先には、夏の空が、青くそしてどこまでも遠く広がっていた。
「……つまらないことを言うのね。そんな答えなんて、聞きたくなかったわ」
マイケルは、小ばかにしたようなエミリーの言葉に怒りを覚える。
「じゃあ、おまえはどうなんだよ」
そう言ってから、マイケルはその語気の荒さに気づいた。このぶんじゃ、また喧嘩になりそうだ。俺とエミリーとの相性は、よほど悪いのだろうな……。
エミリーは、いつもの通り臆する様子もなく、すました顔をマイケルに向けた。
「わたしは、神なんて信用していないし、あんなものに自分の言動を左右されるのはごめんだわ。あなたは、心の中にいる神を信仰していると言うけれど、それはつまり、自分の心のあり方を信仰しているということでしょう。それが、どれほどの矛盾と欺瞞に満ちたものかということを、考えたことはないの?」
――何を言うんだ、こいつは……。
エミリーが言っていることは、人が神を信仰する行為そのものの否定だった。
熱心なクリスチャンであるマイケルも、全知全能の創造主がいるなどと、本気で信じているわけではない。自分の心にいる神が、自身が作り上げた良心のというものでしかないことも、理解はしている。だが、弱い心を自身から切り離し、絶対的な神という存在に置き換えることで、悪の道に踏み込みそうになる自分を、どうにか正しい道に縛り付けておけることも事実なのだ。
「神の存在はともかく、他人の心の中にあるものまで否定するなんて、どういうつもりだ」
気色ばんだマイケルに、エミリーはやわらかな微笑を返した。
「ちょっと、言い過ぎたみたいね。気を悪くしたのなら、謝るわ。それにわたしは、神の存在を否定するつもりはないの。創世記の内容は、書かれた当時の知識レベルの低さに起因する誤解や宗教的な脚色は多いものの、おおむね事実だわ。ただ、わたしにとって神は、信仰の対象として何かを求める存在ではないし、ましてや、わたしがやっていることについて許しを請うなんて、思いもつかないことだから」
その表情とはうらはらに、その言葉からは、誰も寄せ付けない壁のようなものを感じた。なぜだかマイケルは、そんなエミリーを見るのが悲しかった。
「どうして、そんなことを言うんだ。神の存在を否定しないのなら、素直に罪を告白して許しを請えばいいじゃないか。たとえ、どんなに深い罪でも、イエス様は背負ってくださるし、神はお許しくださるよ。罪を犯さない人間なんて、いないんだからさ。そうすれば、きっと心も安らぐはずだ」
エミリーの表情から、みるみるうちに笑みが消えた。そして、その青い瞳と赤い瞳が、揃って一瞬だけ揺らめいたように見えた。
「そうね。たしかに、人はあまねく罪を犯す存在だわ。でもそれは、アダムとイブが禁断の知恵の実を食べたからじゃない。ヒトは、創造されたときからすでに、罪を犯すべき存在だったのよ。だってヒトは……」
マイケルは、その先にエミリーが続けようとしている言葉がわかってしまった。そして、エミリーが言おうとしていることを、考えてはいけないと思った。それは、クリスチャンにとって、許されることではなかった。
「エミリー、もういい」
マイケルは、エミリーの言葉を遮った。しかし、エミリーはさらりと言い放った。
「ヒトは、神が自身の似姿として造ったんだもの」
「なんてことを……」
返す言葉も見つけられないマイケルの隣で、エミリーも黙ったまま、アンダードレスの裾のレースを指で玩んでいた。エミリーの人形のような白くて華奢な指先で、薔薇の花と小さな十字架の刺繍がくしゃりと潰れた。




