3.3 プリティ・ウーマン(Layer:2 Side Story)
どうして、あんなことになったのだろう。
激しい後悔が、ステファニーを苛んでいた。
日曜出勤のランチタイムに、研究所から程近い中華街に出かけた。飲茶のランチは相変わらず美味しかったし、当面の課題に対する同僚たちとの意見交換も有意義なものだった。自分にとって、今の仕事は、恋愛よりも打ち込む価値のあるものだった。だから、先日の恋人との離別など、ささいなことなのだと思えるようになっていた。
しかし、食事を終えて席を立ったときに、それを目撃してしまったのだ。
パールホワイトのロングヘアをなびかせたオッドアイのその少女は、場違いにも思えるようなひらひらした服装だったが、非の打ち所もないほどの美形だった。まるで、オルゴールを仕込んだアンティークドールのように優雅な存在だった。
それでも、彼女の連れの男を見なかったら、せいぜい研究所の同僚たちとの話題程度にしかならなかっただろう。
白い髪の美少女の隣に座って、仲よさそうに彼女のカップにお茶を注ぐ金髪碧眼の青年に、ステファニーの胸がきゅっと締めつけられ、息が苦しくなった。微笑みながら会話する二人の姿は、まるで恋愛映画のワンシーンのように美しかった。
二人に対する嫉妬も、もちろんあった。だが、負けを認めてしまいつつある自身が、どうしようもなく悔しかった。
そして、気がついたときには、二人の前に座って詰っていたのだった。
そのあとのことは、まるで演劇かドラマでも見ているような感覚しかなかった。傷ついて血を流しているはずの心の痛みも、麻酔でも打たれたかのようになにも感じなかった。
ステファニーは、逃げるようにチャイナタウンを抜け出すと、レスタースクエアの木陰にあるベンチにうずくまるように座りこんだ。
往来の雑踏が、遠くに聞こえる。台座に片肘を突いたシェイクスピアの彫像が、どんな悲劇があったのだと言わんばかりの気難しい顔で、ステファニーを見下ろしていた。
流れ出した涙を見られないように、ステファニーは顔を伏せる。
こんなに天気のいい休日の午後だというのに、どうしてあたしはこんなところで泣いているのだろう。
そう思うことすら、惨めだった。
そのとき、彼女の頭上から、声が降ってきた。
「一人なら、俺と遊ばないか」
見上げると、着古したコットンのシャツに不似合いな黒いジーンズを履いた若い男が、口の左側だけを上げた下品な笑みを浮かべて立っていた。
今この状態で、通りすがりの男に声をかけられるのは、さすがに堪えた。
ステファニーは、もう一度うつむいた。その拍子に、涙の雫がスーツのスカートにぽたりと落ちる。
「なんだ、泣いているのか。俺でよければ、話し相手になるぜ」
男の声が、耳に障る。
「ほうっておいて」
かろうじてそう告げたステファニーの言葉は、ほとんどその男の耳に届いていないようだった。
「せっかくの日曜日なんだからさ、楽しいことしようぜ」
なおも言い寄る男に、ステファニーの抱いていた行く当てのない悔しさが、怒りに変わる。どうしてあたしが、あんたなんかと……。
黙っていてよ、そう言おうとしたときだった。
「おい、君。レディに対して、随分と失礼だな」
まるで子供を叱る教師のような、貫禄のある男の声がした。
「なんだよ、あんた。関係ないんだろ、すっこんでろよ」
凄みを効かした若い男の声を、その数倍は迫力のある声が退けた。
「なんと無礼な物言いか。余が機嫌を損ねないうちに、立ち去ることだ。だが、気をつけたまえ。余は、礼儀知らずの者に対して、気の長いほうではないぞ」
その古めかしい言葉遣いと圧倒的な気配に、ステファニーは思わず顔を上げた。
声の主は、三十台後半といった年ごろの紳士で、ラフながらも仕立てのよいシャツとスラックスを身に着けていた。背が高くて精悍な身体にぴったりとフィットしているその服は、おそらくオーダーメイドだろう。ウェーブのかかった短めの金髪に、彫りの深いエキゾチックな顔立ち。まるで、美術館の彫像のように端正な顔で、琥珀色と銀色の異色虹彩が圧倒的な存在感を示していた。
「なに、カッコつけて……」
食って掛かろうとする若い男を、紳士のオッドアイがひと睨みする。それだけで、相手の若い男は、脱力したようにその場に崩れ落ちて動かなくなった。
「無様なことよ。まあよい、いずれ相応の働きで、余への無礼を償ってもらおうぞ」
紳士は、芝生の上で昼寝でもしているかのようにのびている若い男に一瞥をくれたあと、ステファニーに艶然と微笑みかけた。
「かわいい娘よ、涙を拭きなさい」
さきほどまでとは打って変わった、優しい声がステファニーの耳をくすぐった。
「あなたは?」
「ただの通りすがりだ。だが……」
ステファニーの問いに、そう返した紳士は、彼女の隣に座った。
「おまえのように美しい娘は、泣き顔も絵になるが、やはり笑っているほうがよい。そう思ったのでな」
その話し声には、妙に心を落ち着かせる響きがあった。初対面だというのに、なぜか信用できる人物のように思えた。
「助けてくれて、ありがとう。なにかお礼がしたいけど」
そんな言葉が、ステファニーの口をついて出ていた。
「気にすることはない。余には、望んで手に入れられないものなどないのだ。だが、そなたのせっかくの好意を、むげにするのも野暮というものだな……」
紳士の声を聞いているうちに、ステファニーは、その瞳に心を奪われていた。気がついたときには、目をそらせなくなっていた。
そういえば、今日、同じような瞳をした人に会わなかったかしら。ステファニーは、微熱に浮かされたような頭で、思い出そうとする。
しかし、紳士の声がそれを邪魔する。
「久方ぶりにロンドンに来てみたら、すっかり様変わりしておってな。旧知の者も少なく、いささか暇を持て余しておったのだ。これからリージェンツ・パークを散歩でもしようかと思うのだが、そなたも一緒に歩かぬか。気晴らしになろうぞ」
身体にしみこむような声と、心の襞まで見透かすような眼差しが、ステファニーの意識を刈り取っていく。
「そうね。ありがとう……」
口が、勝手に言葉を発する。あたしは、なにを言っているのだろう。さっきまで、あんなに悔しくて悲しくて、泣いていたというのに。
「あたしでよければ」
ステファニーの身体が、痺れたような微熱を発する。
「ならば、余の元に来るがよい。そなたが望むなら、この世の快楽のすべてを与えよう」
紳士が囁くように告げた言葉は、いきなり切り出されたら間違いなく拒絶するものだった。わずかに残った意識が、だめだとブレーキをかける。だというのに、ステファニーは艶然とした微笑を紳士に向け、瞳を伏せてうなずいていた。
紳士が、そっとステファニーを抱き寄せる。
「そうだ、それでよい。……われらが娘よ、そなたはもう、余のものだ」
そんな言葉を、聞いたような気がした。だが、それを最後に、ステファニーの意識は完全に失われた。




