3.2 ステファニー・ストライクス(Layer:1 Main Story)
マイケルは、現状を把握することはできたが、事態を掌握することはできなかった。
「ステファニー、どうして……」
呆然と闖入者の名を呼んだマイケルの言葉に、エミリーが一瞬、意外そうに目を見張った。
彼女――ステファニーは、白い喉を見せ付けるようにあごを上げて、傲然とした視線でエミリーを見下ろした。
「なに、この子。まだ子供じゃないの。やっぱり、マイケルってシスターコンプレックスだったのね」
エミリーは、なんの感情もこもっていないかのような、オッドアイの青い瞳をステファニーに向けた。
ステファニーは、その視線を弾き返すように口を開いた。
「こんな人形みたいな子の方が、あたしより魅力があるって言うのね。急な別れ話だったから、おかしいなって思ったのよ。まさか、こんな子のせいだったなんて」
言い訳をする必要もないのだが、勘違いで恋の鞘当などされてはたまらない。かといって、任務のことを話すわけにもいかない。マイケルの言葉は、結果として、とても冷酷な内容にならざるを得なかった。
「この女性とは、そういう関係じゃない。それに君には、もう関係のないことだろう」
「じゃあ、どういう関係なのよ。休日のお昼に一緒に食事をするのが、まさか護衛だなんて言うつもりじゃないでしょうね」
ステファニーのあてこすりが、実は正鵠を射てしまったわけで、マイケルとしては苦笑するしかない。
エミリーはというと、すでにステファニーには興味をなくしたようで、すました顔で蒸篭からつまみあげた小龍包を口に入れた。おそらく、このまま無視を決め込むつもりなのだろう。
こんなところでいきなり口論など始められてはかなわないが、完全に無視するというエミリーの態度も、かえって相手の感情を刺激するものだ。マイケルの思ったとおり、ステファニーは怒りの矛先をエミリーに向けた。
「なんて嫌な子かしら。そうやって、あたしをバカにしてるのね。かわいらしい顔して、ほんとは性格悪いんじゃないの」
見事としか言いようのない、ステファニーの看破だった。マイケルは内心、ステファニーを褒めてやりたい気分だった。
それはそうとして、マイケルはそろそろ、エミリーの反応が気になりだしていた。今のところ、冷静に対応しているようだが、それもいつまで持つかわからない。まさか、ここで暴力に訴えたりはしないと思うが、万が一ということもある。
やはり、場所を変えたほうがいいだろう。そう判断したマイケルは、エミリーに目を向ける。
マイケルの心労を他所に、エミリーは、ふかふかの白い饅頭を両手で持って、その端にかぶりついていた。
――こいつ、いつまで食べてるんだ。大食いにも、ほどがあるぞ。
マイケルは、咳払いをひとつすると、ステファニーにも聞こえるように、あらたまった言葉遣いでエミリーに話しかけた。
「ミス・フォアエスターライヒ。申し訳ありませんが、そろそろ、お食事を切り上げていただけますか。場所を変えたいと思いますので」
エミリーは、恨めしそうな目を一瞬だけマイケルに向けたあと、ふるふると首を横に振った。
「嫌よ。……それに、どうしてそんなふうに、わたしのことを呼ぶの? 約束したじゃない、わたしを呼ぶときは、エミリー、でしょ」
マイケルを上目遣いで見ながら、エミリーは茉莉花のような微笑みを浮かべた。その手に持った饅頭が、まだほのかに湯気を立てていた。
――このタイミングで、その台詞に、その態度かよっ。
思わず出そうになった舌打ちを、マイケルはなんとか堪えた。
エミリーに、この状況が読めていないはずがなかった。むしろ、状況を完全に読み切ったうえで、あえてやったに違いない。マイケルは、エミリーがこういう娘だと知っていながら、その仕返しを予測できなかった自分に腹が立った。
ステファニーの顔に、ひきつったような笑みが浮かぶ。しかし、その目は少しも笑っていなかった。
「あらあら、見せつけてくれちゃって。これでもまだ、言い逃れするの?」
マイケルは、観念した。こうなったらもう、正直に話すしか打つ手がない。
「ステファニー、じつは……」
説明しようとしたマイケルの言葉を、エミリーが右手で制した。
なんのつもりかとエミリーの顔を見たマイケルは、オッドアイの青い方の瞳が、いつもになく冷酷な色を浮かべていることに気づく。相当に、怒っているようだ。
だが、エミリーが発した言葉は、意外にも冷静なものだった。
「この子、あなたの恋人だったのね。でも、今はもう、お付き合いはしていない。そういうことでいいのね」
「ああ、そうだ」
マイケルが即答すると、ステファニーの表情に残っていた作り笑いすら消えた。しかし、エミリーはそんなことにはおかまいなく、小さくうなづくと静かに告げた。
「そう、それなら今日は見逃してあげる。それと、この子、言いたいことがあるみたいだから、言わせてあげなさい。それは、あなたへの愛情の裏返しよ。わたしはともかく、あなたには聞く義務があるのじゃなくて?」
その言葉に、マイケルとステファニーは揃って唖然とした。
一見、穏やかな大人の対応のようだが、それは自分の優位を誇示し、相手を完全に見下した言葉だった。この状況でそんなことを言ったら、ステファニーの怒りを煽るだけだ。
案の定、ステファニーは、現職の警察官の前ではどうかという脅迫まがいの言葉を吐いた。
「なんて生意気な子なの。そんな態度をとるなら、あたし、なにをするかわからないわよ。そのきれいな顔を、二目と見られないようにしてあげようかしら」
眉間にしわを寄せてにらみつけるステファニーの表情には、鬼気迫るものがあった。しかし、エミリーは顔色ひとつ変えずに、醒めた目でマイケルを見た。
――徹底的に無視か。
だが、それはエミリーをよく知っているマイケルだからこそわかることで、初対面のステファニーには、戸惑ってマイケルに助けを求めているように見えたのだろう。
「なあに、あたしが怖くて、なにも言い返せないの? 助けてくださいって、彼にお願いすればいいじゃない。どうやってマイケルの気を引いたのか、あたしにも見せてよ。どうせ、かわいいふりをして、甘えてみせるくらいしかできないんでしょう。あなたみたいな小娘に、マイケルの相手ができるわけないわ。大人の関係がどういうものか、知りもしないくせに」
エミリーは、涼しい顔でステファニーの悪態を聞き流す。ステファニーが、苛立ちをあらわにして続けた。
「ねえ、なんとか言いなさいよ」
――無理だ。エミリーは、歯牙にもかけるまい。
マイケルは、これ以上、ステファニーに恥をかかせるのは忍びなかった。
「ステファニー、もう気が済んだだろう。そのくらいでやめておけ」
仲裁役きどりのマイケルの言葉は、ステファニーの怒りの火に油を注ぐだけだった。
「マイケルは黙ってて。あたしは、この子に言ってるのよ。子供のくせに、他人の恋人を奪い取るなんて、躾をした親の顔が見たいわ。あたしのマイケルを返してよ。……まだ、知らん顔するの? そこまであたしをバカにして、なにが楽しいのよ。あんたなんか、地獄に落ちればいいのよっ」
一方的に感情をぶつけるステファニーの声は、途中から震え出して、最後には涙声になっていた。
ステファニーが興奮して取り乱すのと反比例するように、エミリーの表情は醒めていった。そして、ステファニーが言葉を切ったところで、エミリーがふっとため息を落とした。
「勝手に誤解して、雑言を吐くだけなんて。合理的でもなければ、心にも響かないわ。もうすこし、気の利いたことでも言うのかと思ったのに期待はずれね。所詮は出来損ないってことか……」
ステファニーは、返す言葉も見つけられないのか、怒りに燃える目でエミリーをにらみつけていた。その視線を正面から受け止めて、エミリーは言葉を続けた。
「お話するのは不愉快なのだけれど、ひとつだけ忠告してあげる。わたしの前に姿を見せるのは、これっきりにしなさい。いいわね、二度目の忠告はないわよ」
まるで子供を諭すようなエミリーの言葉は、ステファニーの心を砕いたようだった。
「なっ、なによこの子。もう、たくさんだわっ」
そうわめいたステファニーは、がたりと椅子を鳴らして席を立つと、出口に向ってつかつかと歩き出した。後ろ姿を見送るマイケルは、後を追うこともできなかった。
「ごちそうさまでした。出かけましょう」
エミリーは何事もなかったようにそう言うと、ナプキンをくしゃっと丸めてテーブルに置く。いましがた修羅場があったばかりなのに、あまりにも平然としているエミリーにマイケルは軽い怒りを覚える。
「いくらなんでも、あれはやりすぎだぞ。おまえ、ずいぶん意地が悪いんだな……」
マイケルはそう批難したが、エミリーはさらりと受け流した。
「あんな小物、まともに相手をする価値もないわ。それに、これはあなたたちの問題でしょう。今のところ、わたしには関係ないみたいだから」
ひどい言われようだったが、考えてみれば、エミリーの言う通りだった。勘違いで一方的に絡んできたステファニーや、事態を早期に収拾しなかったマイケルに、エミリーが意趣返しをしたとしても責められないだろう。だが、そのやり口は、仕返しというレベルを超えていたように思う。なにか、悪意のようなものの存在すら感じられた。
マイケルが漠然と感じたことは、そのあとのエミリーのつぶやきで確証に変わった。
「でも、もしわたしの忠告を守らなかったら……。そのときは、この手で始末してやるわ」
その声のあまりの冷たさに驚いたマイケルは、あわててステファニーの弁護に回った。
「エミリー、不愉快な思いをさせて悪かった。ステファニーも、ほんとうは優しい女性なんだ。俺と別れたばかりで、気が立っていたんだと思う。おまえも言ってたじゃないか、愛情の裏返しだって。だから、わかってやってくれないか」
マイケルの言葉にきょとんとした顔を見せたあと、エミリーはため息をついた。
「あなた、わかってないのね。……ともかく、あの子と別れたのは正解だわ。恋人にする相手は、もっとしっかり選ぶことね」
なんだろう、エミリーの機嫌は、悪くなさそうだ。それにしても、相変わらずマイケルの神経を逆なでするようなことばかり言う。マイケルは、口には出さずに思った。
――確かにそうだな。少なくとも、おまえみたいなやつだけは選ばないようにするよ……。