3.1 チャイナタウンで昼食を(Layer:1 Main Story)
牧師の祈りの言葉が終わり、マイケルは聖書から目を上げた。
日の光を浴びて色とりどりのモザイク模様を描くステンドグラスの下で、牧師に姿を変えたパブの店主が神妙な顔で聖書を閉じる。
マイケルは、洗礼を受けてから一度も日曜礼拝を欠かしたことがなかった。このときだけは、素直に謙虚な気持ちになれる。神の前では、どんな人間もみな平等だ。そんな、個人の尊厳を肌で感じることで、目には見えない力をもらえるような気がしていた。
命の大切さも、教会で教えられたことだ。警察官という仕事柄、いずれは犯人を殺害するようなことになるかもしれないが、ありがたいことに、マイケルはこれまでに一人の命も奪わずにすんでいる。素直に、神に感謝したい、と思う。だが、しかし……。
昨夜の事件が、マイケルの脳裏によみがえる。
エミリーは、マイケルが知っているだけでも、もう二人の命を奪っている。彼女が言うように、それが人間ではないにしても、命を奪っていることに変わりはない。もし、エミリーがあんなことをやり続けているのだとしたら、その魂は永遠に救われず、神は彼女を地獄に落とすだろう。
気がつくと、マイケルは、またエミリーのことを考えていた。マイケルは、軽く頭を振ってから、賛美歌の斉唱に加わった。
教会を後にしたマイケルは、ナイツブリッジにあるハロッズでエミリーと落ち合った。
昨夜、あんな別れ方をしたが、今朝のエミリーはいつもと変わらない様子だった。朝からわがままな注文をしてきた彼女に、マイケルはなぜかほっとしたような気分になった。
めずらしく一人で外出したエミリーは、三階にあるカフェ・フローリアンで優雅にお茶を飲み、ミルフィーユをつついていた。豪勢なフリルをあしらった白いアンダードレスの上に、クリーム色の生地に花柄とリボン飾りを配したジャンパースカートを重ね、レースのハイソックスとクリーム色のシューズというエミリーの姿は、いつもに増して少女っぽい印象だった。
マイケルは、ふと、ソフィーのことを思い出す。
――あいつも、こんな服装が好きだったな。
ソフィーなら、お弁当を持って公園にピクニックに行こうよ、とせがむのだろうな。そういう飾り気のない時間のすごし方が、俺は好きなんだ。けれど、エミリーは……。
マイケルの予想どおり、エミリーは、中華街でランチを食べたい、と言い出した。彼女が言っているのは、たぶんソーホーにある中華街のことだろう。それを聞いて、マイケルはなぜだか少し落胆した。
レクタースクエアで地下鉄を降りて少し歩き、ジェラルドストリートに出る。そこが、お目当ての中華街だ。
中華街とはいっても、建物自体は普通のビルばかりだ。しかし、通りの入口に立つ楼門と、店に掲げられた色鮮やかな漢字の看板からは、東洋的な雰囲気が漂ってくる。
ロンドンでは、中華料理はなじみの味になっているから、今日もランチを求めて多くの人が通りを歩いていた。
マイケルは、雑踏を避けながらジェラルドストリートを通り抜ける。そして、ウォーダーストリートに出たところにある、金色のドラゴンの置物が目印のチェンチェンクーという店に入った。
シャンデリアが下がったロビーを抜けて食堂に入ると、天井からずらりと吊り下げられた小さな赤い提灯と、店の奥の壁に描かれた派手なドラゴンの絵が二人を出迎えてくれた。店は混んでいて、会話の声や食器の触れ合う音があふれていた。
二人で使うには広すぎる円卓に案内され、マイケルとエミリーは隣り合わせて座った。
マイケルが飲茶のランチをオーダーすると、ほどなく飾り気のない白磁のティーポットと、同じデザインの湯のみ茶碗が手際よくサーブされた。
エミリーは、当然のようにいっさい手を出さないから、マイケルはポットから湯のみ茶碗にお茶を注いだ。薄い褐色のお茶が湯のみ茶碗の中で揺れて、ほのかなジャスミンの香りが二人の間に漂った。
マイケルは、トロリーを押して通りかかった店員を呼び止め、載っていた点心をいくつか指差す。そのたびに、円卓の上には、湯気を上げる小型の蒸篭が並んでいく。海老が透けて見える小龍包や、蒸した餃子や焼売などの、無難なメニューを選んだマイケルに対して、エミリーはなにを思ったか、ウサギを象った小さな白い饅頭ばかり三つも注文した。
「かわいくて美味しいのよね、このお饅頭。ロンドンで、これを食べられるとは思わなかったわ」
そう言って、エミリーは一瞬だけ遠い目をした。
意外なことに、エミリーはマイケルよりも点心に詳しかった。次から次へと蒸篭を受取って、楽しそうに点心を食べるその姿は、普通の少女にそのものだ。昨夜、あの女を惨殺したあと、マイケルもその手にかけようとした少女と同じ人間だとは、とても思えない。
料理用のハサミで器用にヌードルをカットしては、一人前ずつ調理する店員の慣れた手つきを横目に見ながら、マイケルはさりげなく話を切り出した。
「なあ、エミリー。昨夜のこと、覚えてるか」
「もちろんよ。……って、なに変なこと思い出してるのよっ」
なぜだか、エミリーは急に怒りだして、当然のようにマイケルの足の甲を激痛が襲う。
――ああ、そうか。そっちか。
マイケルは、その理由に気がつくと同時に、薄明かりに浮かび上がったようなエミリーの肢体を思い出す。
「昨夜は、感心な人だと思ったのに。やっぱり、無神経なんだから」
無邪気に拗ねるエミリーを見ていると、マイケルはこのまま冗談ですませてしまおうかとも思う。しかし、このときは知りたいという気持ちのほうが勝った。
「なあ、おまえって、もしかして二重人格とか、そういう類の病気を患っているのか」
マイケルの問いかけに、エミリーは小首を傾げた。
「今のおまえと、戦っているときのおまえは、まるで別人みたいだった。おまえは、それを自分でわかっているのか」
そう言い足して、マイケルはエミリーの表情を窺いながら返答を待つ。わずかな変化も見逃さないように見つめるマイケルに向って、エミリーは、なぁんだそんなこと、と笑って見せた。
「別人みたい、じゃなくて、正真正銘の別人よ」
あまりに平然と、とんでもない答えを返してきたエミリーに、マイケルは唖然とする。
「昨夜、ピカデリー・サーカスで会ったのは、おまえだよな?」
「そうよ」
エミリーは、あたりまえじゃないの、とでも言わんばかりの顔で答えた。そしてマイケルの前にあった蒸篭を取ると、黄色い皮が目に鮮やかな焼売をひとつ、口に入れた。
どうにも、会話がかみ合っていなかった。マイケルは、もういちど同じ問いを繰り返す。
「だからさ、二重人格なのかって質問しているんだけど」
エミリーは、左手の人差し指を口元に当てて、ちいさく首を傾げた。
その仕草を、マイケルは何度か見たことがあった。そうだ、これはエミリーがなにかを考えたり思い出そうとしたりするときの癖だ。それと同時に、マイケルは違和感を覚える。
――なんだ、何かがおかしくないか。
マイケルが違和感の正体に思いを巡らせたとき、エミリーは何かを思い出したように、ああと口にした。
「そういえば、あの子のことは、まだ話してなかったわね。思い違いをしているようだから訂正しておくけど、わたしは二重人格ではないわ。二重人格は、単一の人格の断片が分離して表出している状態のことだけど、わたしとあの子は、もとから独立して存在する二つの意識体なの。そのどちらかが、優先的にこの身体を使っているのよ」
エミリーの答えは、まるで精神科医が下す診断のように難解だった。とはいえ、彼女の説明がおかしいということぐらいは、マイケルにもわかった。
「俺は医者じゃないからよくわからないけど、そもそも、ひとりの人間に二つの人格があることを、二重人格って言うんじゃないのか」
マイケルの指摘に、エミリーは軽く首を振る。パールホワイトのロングヘアが、少し遅れてさらりと揺れた。
「ちがうわ。もう、なんだってこう頭が悪いのかしらね、この人は。デリカシーも理解力もない人には、これ以上教えません。少なくとも、わたしは普通の女の子だわ。昨日も、そう言ったでしょう」
マイケルは、会話の絶望的なすれ違いに頭を抱える。自分は普通の女の子だとエミリーは言うが、だいたい普通の女の子が、平気で人を殺したりするのか……。
そこで、ようやくマイケルは思い至る。
異常なことがあたりまえのように続くと、それが普通であるように感じてしまうものだ。そんな基本的なことを、マイケルは忘れていた。普通の女の子なら、あんなことに耐えられるはずがない。その精神的な負担から自分を守るために、二つの人格を使い分けているのだとしたら、エミリーの心は相当に深く病んでいる可能性がある。
ナプキンで口元を拭ったエミリーは、右手で湯のみ茶碗を持ち、ぴんと指を伸ばした左手を湯のみ茶碗の底に添えた。
その所作には、相変わらず隙がない。指の形まで計算しているんだろうな、とマイケルは思う。そして、また違和感を覚える。指の形、だと?
マイケルは、あっと声を上げそうになる。
――突き指は、どうしたんだ。
「エミリー、左手をよく見せてくれ」
湯のみ茶碗を持ったままで、エミリーが険しい視線を投げてきた。
「なによ、わたしの手が、なにか変なの?」
エミリーは、自分の左手を広げて、表にしたり裏返したりしている。
マイケルも、改めてエミリーの左手を観察する。昨夜は痛々しく変形していた左手の人差し指と中指が、すっかり綺麗な形に戻っていた。内出血もしていたはずなのに、その痕跡もまったく見られない。関節が変形するくらい重傷の突き指が、たった一夜で綺麗に治ったりはしないはずだ。
「変じゃないから、変なんだよ」
「何を言っているの。あなたこそ、精神科に行ったほうがいいわよ」
「おまえ、突き指はどうしたんだよ。あんなに痛そうにしてたじゃないか。やっぱり、おまえ、昨日のエミリーとは別人なんじゃないのか」
「あんなもの、一晩で治るわよ」
そう言って、エミリーはお茶をくいっと飲み干す。
「この茉莉花茶、とてもいい香りがするわ。茶葉を買って帰ろうかしら」
素知らぬ顔でそんなことを言っているエミリーを、マイケルは問い詰める。
「話をそらすなよ。あんなの普通は一晩で治らないぞ。どういうことなんだ」
エミリーは、空になった湯のみ茶碗をマイケルの方に差し出す。そして、面倒くさそうに答えた。
「この身体は、特別な性能を持っているの。いろいろとね」
特別な性能といえば、ハノーヴァー公もそんなことを言っていたな。セントジェームスパークで暴漢を仕留めた剣には、特別な性能があると。
マイケルの持つ攻撃力がまったく通じない相手を、易々と斃すエミリーやハノーヴァー公の武器とは、いったいなんなのか。エミリーは、伝説級の得物だとか地上最強の武器だとか言っていたが、少なくともエミリーの武器は実態が掴めない。
湯のみ茶碗にお茶を注ぎながら、マイケルはその疑問を投げかける。
「あいつらを倒すときの、あれと関係があるのか」
そして、右手の指を伸ばして、エミリーの前で水平にひらひらと振って見せる。エミリーは、なにをしているの、と言わんばかりの目をマイケルに向けた。
「あの能力のこと?」
「ああ」
エミリーは、指でとんとんとテーブルを叩いてから湯のみ茶碗を手に取る。そして、お茶に口をつけたあと、すこし間をおいてから答えた。
「そうね、まともに話しても理解できないでしょうから、超能力だということにしておくわ」
「えっ」
「こちらが恥ずかしいから、あまり間抜けな顔をしないでくれるかしら。超能力だって言ったのよ」
もっと難しいことを言われるものと予想していたマイケルは、拍子抜けする。それに、スプーンを曲げる手品とは訳が違う。はいそうですかと、簡単に納得できるはずがない。
「信じてないでしょう」
「あたりまえだろ。何を言い出すかと思えば、超能力だの魔法だのと。俺は、小説や映画の話をしているんじゃないぞ」
「超能力と魔法を同列に論じるなんて、無知にもほどがあるわよ。しかたないわ、わかりやすく説明してあげる。いいこと、これを敵だと思ってね」
エミリーは、ウサギ饅頭をひとつ、籠からつまみだしてお皿に載せた。そして、ナイフを当てると、ストンと刃を落として饅頭を切断した。
「なぜ、お饅頭は切れたと思う?」
「ナイフを当てたからだろう」
「なぜ、ナイフを当てるとお饅頭が切れるの?」
「ナイフは、物を切る道具だ。だから、切れる」
エミリーは、ふっと息を吐くと、すこしゆっくりとした口調で続けた。
「なぜ、ナイフは物を切る道具たりえるの?」
そんなの常識じゃないかと言おうとして、マイケルは言葉に詰まる。ナイフで物が切れる、そんなこと、なぜかなどと思ったことはない。だから、今更なぜと問われても、その理屈を知らなかった。
「わたしは、ナイフが物を切る仕組みと、切れ味の良い刃物の作り方を理解しているわ。そして、理解していることは、実世界に実行力として発現させることができるの。『ローエングリン』は、特殊な粒子を集積させて高周波で振動する極薄の手刀を形成する知識よ。砂鉄から刀剣を作るプロセスを、一瞬で実現しているようなものだわ」
エミリーは、箸を器用に操ってウサギ饅頭を口に運んだ。切り口から黒い餡子が見える。昨夜の戦闘を思い出したマイケルは、食欲がなくなるのを感じた。デリカシーがないのはどっちだよと、マイケルは心の中だけで言い返した。
「もっともそれは、あの子にしか使えない力だけどね……」
どうやら、エミリーたちの武器は、使える者が限られているらしい。しかし、そんな説明では、とてもじゃないが凶器として証拠に上げることなどできそうにない。
見えない武器、とは恐れ入ったな。マイケルの困惑を他所に、エミリーは独り言のようにつぶやいた。
「それにしても、あいつら、どうして人を襲ったりしたのかしら。やはり、なにか裏があるわね……」
――そうだ。
マイケルは、頭に渦巻く混乱と疑問をとりあえず棚上げする。
「エミリー、十五年前と同じだって言っていたハノーヴァー公の言葉の意味、教えてくれないか」
エミリーは、湯飲み茶碗を持ったまま、ふうっとため息をついた。
「詳しいことは、わたしも知らないわ。ただ、十五年前に事件を起こしたヤツの解剖所見には、脳に化学的な損傷が認められたことが記録されているの。それは、ある薬物を使用したときの症状に酷似しているわ。だから、人為的なものだと考えられる」
「つまり、十五年前の『連続無差別殺人事件』には、殺人教唆をやった真犯人が別にいるということか。今回の『連続通り魔事件』も、同じだと?」
エミリーがゆっくりとうなずく。
「ええ。ただ、あなたたち流に言えば、証拠がないわ。今はまだ、わたしの勘でしかない。はずれてほしいとは思うけど、あいつらを使ってなにか企てている者がいるとしたら、放置はできないから」
そう言うエミリーの表情は、捜査本部に詰める刑事のように真剣そのものだ。それは、曲りなりにも組織の上に立つ人間としての使命感、あるいは彼女自身の義務感なのかもしれない。
だが、エミリーの思惑はどうあれ、もし連続通り魔殺人事件にも殺人教唆犯がいるとしたら、マイケルにとっても看過できるはずもない。その意味では、二人には共通の目的があるということになる。
――奇妙なことになったものだ。
マイケルは、あらためてエミリーを見る。まさかこの娘と共同戦線を張ることになるなどとは、つい三日前には思いもしなかったが。
「その顔つきを見ると、またちょっかいをかけてくるつもりね。もっとも、今回はあなたたちの領分になる可能性も……」
エミリーは、そこで不意に言葉を切った。その眉根がきゅっと寄り、細くなったオッドアイでマイケルの背後を睨みつけた。
振り返って見ると、そこにはブロンドのロングヘアの若い女性が立っていた。
ベージュのスーツを見事に着こなした彼女は、ピンヒールの踵でこつんこつんと床を鳴らせながらテーブルを回りこむと、無言でマイケルの正面の椅子に座った。テーブルクロスの端が揺れたところを見ると、おそらく足を組んだのだろう。
彼女は、椅子の背に身体を預け、胸の前で細い腕を組む。そして、ぱっちりと見開いたブルーの瞳に敵意のこもった眼差しを浮かべた。
「ふうん。……マイケルって、こういう子が好みだったんだ」
赤いルージュが艶やかなその唇から聞こえてきたのは、低くて落ち着いた、しかし刺々しい声だった。