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1.1 タイム・アフター・タイム(Layer:1 Main Story)

 

 深い闇があった。

 ねっとりとからみつく、重い空気が不快だった。

 そして、今が夜だと、俺は気づく。

「助けて……」

 闇の奥から、女の子の声が聞こえてきた。

 俺は、闇に向かって走る。

 早く行かなければ。彼女の元に、早く。

 気は急くのに、思い通りに足が動かない。

 足がもつれて、俺は無様に地面を転がる。

 石畳についた手がぬるりとした何かに触り、赤黒いモノが視界を包む。

 そこには……。


「うわあぁ」

 自身の叫び声で、マイケルは目覚めた。

 ひどい汗をかいていた。

 また、あの夢だ。あの未解決事件から、すでに十数年が過ぎているのに、今でもときどきこうして夢に見る。

 マイケルは、深呼吸を繰り返して心と身体を落ち着ける。

 のそのそと上体を起こし、部屋を見回した。

 書棚とライティングデスク、あとはテレビがあるだけの殺風景なワンルームに、カーテンの隙間から、やわらかな午後の光が差し込んでいた。

 ミネラルウォーターで喉を潤し、洗面台で派手に水しぶきをあげて顔を洗う。鏡の中から、しけた表情をした男が見つめ返していた。

「くそっ」

 今日は非番だが、部屋でじっとしていることなどできそうもない。髪を乱暴にかきむしったあと、マイケルは身支度を整えて部屋を出た。


 アパートの階段を降りたところで、携帯電話が鳴った。

「よう、マイケル。昨夜は世話になったな」

 同期で入署した、殺人重大犯罪捜査課の男だった。

「いや。それより、ヤツが『通り魔』だったのか?」

 電話口の声が、すっと低くなった。

「悪いが、ハズレだ。中東のテログループの鉄砲玉で、前科者リストにもばっちり載っていた。野郎、偽造パスポートを持ってやがって、出入国管理局に照会したら、昨日エルサレムからヒースローに着いたばかりだとさ。SPの真似事だなんて嫌がっていたが、完全におまえの領分だったな」

「テロリストか……」

 マイケルは落胆する。だが、それは予想の範囲内だった。

「貴族のお遊びに付き合ったり、銃を使ったり、インターネットで襲撃予告なんて、『通り魔殺人事件』とは手口が違いすぎるからな」

『連続通り魔殺人事件』。

 五月から続くその不可解な凶悪事件に、ロンドンは震撼していた。

 事件発生から一ヶ月半ほどで、被害者は十人に上っていた。犯行現場はロンドンの中心部に集中し、犯行時刻は夜間で、被害者は全員死亡している。被害者に共通点はなかったが、いずれもまったく抵抗した様子もなく殺害されていたことから、当初は手馴れた者の犯行だと目されていた。

 しかし、殺害方法が、ナイフによる刺殺、素手やロープによる絞殺、鈍器か素手による撲殺という荒っぽい方法だったことで、素人による強盗か強姦を目的にした遭遇犯罪であるという見方が有力になっていった。だが、被害者の所持品にはいっさい手がつけられていなかったし、性的被害を受けた形跡もなかったことで、殺害そのものが目的の犯行だと推測されていた。

 犯行場所や手口が一定しないことから、犯人像の特定も困難だった。単独犯なのか、複数犯なのか、単発なのか連係しているのか、犯人のきまぐれなのか、捜査を撹乱する目的があるのか、何一つはっきりしたものはなかった。犯人像を推定するためのプロファイリングも行われたが、犯人の特定に繋がるような有益な情報は得られなかった。

 三人目の被害者が出たところで、スコットランドヤードに捜査本部が設置され、数百人の捜査員が動員された。だというのに、まるで捜査活動をあざ笑うかのように、犯行は重ねられていった。銃器を使用した例がないことも、捜査を困難にしていた。

 事件の捜査は、完全に行き詰っていた。

「……言っとくが、この事件は、俺たち殺人重大犯罪捜査課の領分だ。情報は教えてやるが、テロ対策課のおまえは首は突っ込むなよ。下手すりゃ、懲戒を食らうぞ」

「ああ、わかっている」

 情報提供者に礼を告げて、マイケルは電話を切った。

 携帯電話をしまうかわりに、ジャケットの内ポケットからロンドンの地図を取り出す。地図の上に点々とつけられた十個の赤いマークは、連続通り魔殺人事件の犯行現場を示している。そのマークはいくつかずつのグループになっていて、それを囲むように円が描かれていた。リバプールストリート駅周辺、ウォータールー駅周辺、パディントン駅周辺、ユーストン駅周辺。四つの赤いサークルが浮かび上がっている。たんなる偶然なのか、なんらかの意図があるのか、それはわからない。だが、手がかりになりそうなものは、これしかないのだ。

 地図上には、同じ条件に該当するのに、マークがついていない場所が三箇所ある。

 ――ヴィクトリア駅、チャリングクロス駅それから……。

 最後に見つめたのは、今まさにマイケルが居る場所だった。

 ――キングスクロス・セントパンクロス駅……か。


 それから、二時間ほどが過ぎた。時刻はすでに午後十時近いが、夏のロンドンではまだ夜が始まったばかりだ。パトロールのためにずっと歩き続けた足は、棒のように疲れていた。

 マイケルは、キングスクロス駅の近くにある行きつけのパブに入った。

 狭い店内は空いていて、カウンターに並ぶ木製のスタンドチェアに二人の男が座っているだけだった。五つある木製の丸いテーブルには、それぞれに二脚の椅子と、メニューを挟んだペーパースタンドが、客待ち顔で待機していた。

 洋酒の瓶がずらりと並んだ棚を背にして、グラスを磨いていた店主が、人懐こそうな赤ら顔をほころばせる。

「やあ貴公子ナイト、今日も仕事かい?」

「いや、今日は非番(プライベート)だ。それから、俺は騎士(ナイト)じゃないぜ」

「オーケー、そうだったな」

 カウンターの一番奥の席に腰を掛け、ほっと一息つく。時折回ってくる扇風機の風が、心地よかった。

「エールを一杯頼む」

 店主がサーバーからジョッキに褐色の液体を注ぐ。その頭上にあるテレビ画面の中では、BBCの女性キャスターが無表情にニュース原稿を読み上げていた。

「明日の午前〇時から、新型無線ネットワークシステム『RAIN(レイン)』の実証実験が始まります。開発元のシトラス・システムズ・ラボラトリィ社では、今回の実証実験が成功すれば、遅くとも二年以内には実用化できると発表しており……」

 シトラス・システムズ・ラボラトリィ社という言葉が、おととい別れたばかりの恋人を思い出させた。『RAIN』システムの主任プログラマを務める美しくて聡明な女性で、半年続いた恋人だった。しかし、「連続通り魔殺人事件」が起き始めてから、マイケルの気持ちは彼女に向かわなくなった。それから別れ話までは、あっという間だった。

 目の前にゴトリと置かれたジョッキを手にとって、口をつける。ほろ苦い味が、口いっぱいに広がった。

 CMが流れたあと、再び画面に登場した女性キャスターは、あいかわらずの無表情で原稿を読み上げる。

「では、次のニュースです。連続通り魔殺人事件の犠牲者が、ついに十人になりました。警察の捜査は進展せず、市民には不安が広がっています。専門家からは、騒がれることに喜びを感じる愉快犯ではないか、という意見も出ており……」

 愉快犯という言葉が、マイケルの心の深い部分をざらりとなでる。

 ――なにが、愉快なものか。この事件の犯人は、絶対に俺が検挙してみせる。

 マイケルは、口をつけただけのジョッキを置いて席を立った。

「これから、夏至祭にでも行くのか?」

 店主の言葉で、マイケルは今日が夏至の日だったことに気づいた。どうりで、日が暮れるのが遅かったはずだ。

「いや……」

 マイケルの気のない返事に、店主が陽気な声で笑った。

「行って来いよ。今夜なら、妖精にだって会えるかもしれないぜ……」

 店主は、そこで言葉を切ると、急に神妙な顔つきになった。

「ああ、そうだったな。とても、そんな気分にはなれんか。じゃあ、今夜もボランティアってわけだな。主よ、この者にご加護を」

 昼は牧師で夜はパブの店主という変わった経歴のこの男は、マイケルが心を許している数少ない友人の一人だ。

「頼むぜ」という店主の声を背中に受けて、マイケルは店を出た。


 生暖かい夜風を受けながら、キングスクロス駅に向かって歩く。

 正面には、赤レンガの宮殿を思わせるセントパンクロス駅舎が、いくつもの尖塔を夜空に向かって突き上げている。右側に目を移すと、ダンボール箱に半円形のガラス窓をふたつ開けたようなキングスクロス駅舎が、地味な照明に照らされて地面に這いつくばっていた。

 駅前の角を右に曲がったところで、突然、男の叫び声が聞こえた。

 マイケルに緊張が走る。

 間を置かず、うおっ、という叫び声がまた聞こえた。灯りの消えた赤レンガのビルの狭間にある、細くて暗い路地の奥からだった。

 ――事件か?

 左わきのホルスターから、ブローニング・ハイパワーMk3拳銃を取り出す。

 飾り気のないグレイッシュシルバーの銃身が、街灯に鈍く光る。すでに時代遅れの拳銃だが、動作の確実性を追及するプロフェッショナルには、まだ愛用する者が多いという。金属を多用したずしりとした重量そのものが、マイケルに安心感を与えてくれる。

「行くぜ、相棒」

 弾倉(マガジン)の残弾を確認し、セーフティロックは掛けたままで撃鉄を起こす。初弾が装填されるカチリという音が、まるでなにかの始まりを告げる合図のように響いた。

 

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