2.11 ラウンド・アバウト(Layer:1 Main Story)
「嫌だ。あなた、今のお話を信じたの?」
やはり、嘘だったのか。危うく騙されるところだったが、その手にはひっかからないぞと、マイケルは思う。すこしは、おまえのやり方にも慣れてきたからな。
マイケルは不満を込めた視線をエミリーに向けたが、当の本人はくすくすと笑い続ける。
「ね、普通はそう思うでしょう。だからこうしてお話しても、問題ないのよ。それに、あなたはもう無関係の人間ではないわ。中途半端に、いろいろと見知ってしまったから。ならば、情報を遮断して騒ぎ立てられるよりは、すべてを教えた方が御しやすい。組織はそう判断したの。もし、あなたが御しきれなくなったときには……」
エミリーは、サンドイッチを絵皿に置いて、細い指先でカップの柄をつまみ、紅茶をひとくち飲む。その所作は、とてもエレガントだった。
「その若さで、殉職者リストに載ることになるわ」
マイケルは、改めてエミリーの笑顔に注目する。そして、その青い瞳が少しも笑っていないことに気がついた。えも言われぬ息苦しさが、マイケルを襲う。
「まさかここの客たちも、みんなおまえらの手先だとか言うんじゃないだろうな」
エミリーは、知らん顔でサンドイッチを手にとった。
不躾だと思ったが、マイケルは周囲の客たちを見回す。週末のデートを楽しんでいるカップルや、観光客らしいグループの客ばかりで、昨夜と同じ人物は見当たらなかった。だが、実態はどうだか分ったものではない。マイケルは、声を潜めた。
「不法行為を見逃せというのか」
エミリーは、白い髪を揺らせて首を横に振り、マイケルの言葉を否定した。
「超法規的と言ってほしいわね。組織は、各国政府や国連とも連携しているのよ」
「それなら、なぜこそこそと裏で動いているんだ。堂々と、俺たち警察や、でなければ軍隊でも……」
動かせばいいじゃないか、そう言おうとしたマイケルは、キングスクロス事件の遺体がどこに持ち去られたかを思い出して、その口を閉ざさざるをえなくなった。そう、事の最初から、すでに答えは出ていたではないか。
エッグサンドイッチを一口かじったエミリーは、美味しそうに口を動かしてから、コクンと飲み込んだ。
「そういうことよ。わたしたちがオフェンスで、彼らがディフェンス。あなたたちでは対応できない相手である以上、これがいちばん合理的なフォーメーションだわ」
マイケルは頭の中で、イメージを構成する。
ローゼンクロイツとかいう組織と軍とが結託して、人知れず怪しげな者たちを始末している。その実働部隊がエミリーであり、ハノーヴァー公というわけだ。いや、あちこちに顔の効くハノーヴァー公は、おそらく事の首謀者だろう。エミリーは「超法規的」とか言っているが、アウトローなスキームであることに変わりはない。
「俺は、おまえたちがやっていることは犯罪だと思っている。ある意味、確信犯だ。どう繕おうと、それは変わらないぞ」
犯罪というマイケルの言葉に、エミリーは青い瞳を一瞬だけ曇らせた。
「あなたがどう思おうと勝手だけど、わたしを非難することは許さないわ。これは、わたしにとって大切なことなの」
「それを言うなら、連続通り魔事件の犯人逮捕は、俺にとって大切なことだ」
「テロ対策課、だったかしら。その部署のあなたが、どうして刑事の真似事なんかしているの」
マイケルの心の奥に、小さな火がついた。
「その質問は、そのまま返してやるよ。貴族のお嬢様のおまえが、どうして暗殺まがいのことに手を染めてるんだ。そんなことしなくても、なんの苦労もなくのうのうと暮らしていけるだろうに」
その声音には、発したマイケルですら驚くほど冷たい響きがあった。
エミリーは、軽く目を伏せて、長い髪の先を指で弄りはじめた。絹糸のような髪が、彼女の指の間をさらりと流れて落ちる。
「ずいぶん棘のある言い方をするのね。人には、その地位や立場に応じてなすべきことがあるのよ。あなたもそうなのでしょう。それとも、わたしが貴族だから、そんなに嫌っているの?」
その言葉は、マイケルには意外だった。
たしかにマイケルは、事情があって貴族を嫌っていた。それを理由にしてエミリーの警護を断わろうとしたくらいだ。だから、任務だと割り切ってはいても、言葉や態度のはしはしにそれが出てしまうのだ。だが、傍若無人の典型ともいえるエミリーが、それを気にしているとは考えてもみなかった。
「どうして、そう思ったんだ」
「なんとなく、ということにしておくわ」
マイケルは、すこし迷ったあと、答えてやることに決めた。貴族階級の特権意識が服を着て歩いているようなエミリーに対して、あてつけのひとつも言ってやりたかったこともあった。
「正直に言うと、貴族はあまり好きな連中じゃない。時代錯誤というか、気位だけが高いやつばかりだからな。だいたい、他人の労働の成果を受取って生きているくせに、それがわかっていないんじゃないのか。俺は、自分の力で生きていきたいと思っている。だから、そういうやつらを見ると、無性に腹が立つんだ。俺から見たら、おまえはその典型だよ」
マイケルの言葉が終わるのを、エミリーは黙って待っていた。そして、瞼を閉じると、軽いため息を落とした。
「そう、残念だわ」
しょげたようなエミリーの様子に、マイケルの心がちくりと痛む。
これは、お門違いだ。そもそも、あれは、エミリーには関係もなければ責任もないことじゃないか。さすがにちょっと、言いすぎたかもしれない……。
だが、ふたたび見開かれたエミリーの青い瞳には、あからさまな侮蔑の色が浮かんでいた。
「それが、家名を捨ててまで、スコットランドヤードに入った理由だなんて。見損なったわ……ヴォールス男爵さん」
「なっ……」
マイケルは、心底から驚いた。
ヴォールス男爵・マイケル・ステューダー。
エミリーの言うとおり、それは、スコットランドヤードに入ったときに捨てた名だった。
当時、すでに貴族というものを心底嫌っていたマイケルは、自身が貴族の出自ということで特別な待遇を受けたくなかった。だから、マイケルが貴族の出身であることは、ごく少数の者しか知らないはずだった。パブリックスクール時代の友人を除けば、スコットランドヤードの特殊作戦部長と人事担当者、それから行きつけのパブの店主くらいのものだろう。
「なぜ、おまえが、それを知っているんだ」
「身近に置く人のこと調べるのも、レディのたしなみのひとつだわ。だいいち、この程度のことで驚いているようでは、わたしの護衛なんて勤まらないわよ」
エミリーのもの言いが、ひどく癪にさわった。
「他人が隠していることを、こそこそと調べるのは感心しないな」
マイケルは、子供を諭すようにそう言った。声色を低くして、若干の脅しも含めたつもりだった。
しかし、エミリーはおかまいなしに言い返してきた。
「あなた、警察官のくせに、よくそんなことを言えるわね。自分が、他人の隠しておきたいことに土足で踏み込むのは良くて、他人が自分のことを調べるのは駄目だなんて、笑わせないでほしいわ」
「それが、俺の仕事だ。公共の秩序維持のためには、必要なことだ」
「その程度の見識しか持っていないくせに、公権力を振りかざすのは止めてもらいたいわ。はた迷惑もいいところよ」
エミリーが、語気も荒く食って掛かってきた。マイケルの方も、怒りが我慢の限界を超えていた。
「えらそうなことばかり言って、おまえに何がわかるっていうんだ。犯罪まがいのことばかりやっているヤツに、あれこれ言われたくはないね」
「じゃあ聞くけど、あなたはこの件について何を知っているの? なにも知らないくせに、自分だけの小さな価値観で、ものごとを決め付けないでほしいわ」
上からものを言うようなその言葉に、マイケルは完全に自制心を失った。
「いちいち人を見下すなよ。おまえだって、俺がどんな気持ちでこの事件を追っているかなんて、知りもしないだろう。一方的に価値観を押し付けているのは、おまえたちの方じゃないか。それも、違法としか言えないようなことをだ」
こうなると、売り言葉に買い言葉だった。周囲の視線を感じても、それは火に油をそそぐ要因にしかならない。エミリーも、負けていなかった。
「あなたみたいに、表面に現れた瑣末なことにばかりとらわれていたら、大局を見誤るわよ。わたしたちが何をしているのか、正しく理解した上での意見なら、聞いてあげなくもないわ」
エミリーは、じつに的確にマイケルの癇に障る言葉を選んだうえで、見事な正論を口にした。
反論を考えるより先に、マイケルの口が言葉を吐き出す。
「おまえたちのことを理解する必要なんて、これっぽっちもないね。犯罪は悪だ。俺は、かならずおまえたちを断罪してやる」
エミリーの頬が赤く染まって、怒りに燃えるオッドアイがマイケルをにらみつけた。
「なんて、わからずやなの。今日は、ひとりで帰ります。また、明日ね」
そう告げると、エミリーは席を立ってマイケルに背を向けた。
マイケルは、その背中に向かって問いかける。
「夜に、また来るつもりか?」
「そうよ。でも、あなたは来なくていいわ」
エミリーは、振り向いてそう言い放つと、正直に答えた自分自身に驚いたように、慌ててマイケルに背を向けた。彼女の黒いスカートがふわりと広がり、白いレースのパニエがひらりと舞った。




