2.10 ピカデリー・サーカス(Layer:1 Main Story)
週末のピカデリー・サーカスには、人があふれていた。
青空に翼を広げ、まばゆいばかりの裸体を惜しげもなく晒したエロスの像が、その足元で待ち合わせをする人々を艶やかな目で見下ろしている。
乗降口から乗客を吐き出した赤い二階建てバスが、生暖かい褐色の排気ガスを残して走り去ると、道路の向かい側のビルに掲げられた巨大な看板が目に飛び込んできた。夜になると鮮やかなネオンサインに彩られる大看板は、ピカデリー・サーカスの名物ではあるが、その莫大な広告料を負担できる日本の電機メーカーによって占領されていた。
昨夜は、いろんなことが立て続けに起きたが、今朝になると、マイケルもエミリーもなにもなかったかのように朝食を共にした。午前中だけ登校したエミリーは、午後からはピカデリー・サーカスにやってきた。ピカデリー・サーカスは、トラファルガー・スクエアを挟んで、チャリングクロス駅の目と鼻の先にある。言うまでもなく、連続通り魔殺人事件の発生予測地に入っている。
エロスの像の前から、ピカデリーストリートを西へ。エミリーは、のんびりとした足取りで舗道を歩く。足を踏み出すたびに、彼女の履いている革のストラップシューズが、コツンコツンという硬質な音を響かせる。
今日のエミリーは、レース飾りをふんだんにあしらった白いブラウスと、パニエでたっぷりと膨らんだ黒いジャンパースカートという、白と黒のシンプルな装いだった。ブラウスの袖とレースのニーソックスを彩る薄いピンク色のリボンが、華やかなアクセントになっていた。ジャンパースカートの胸元と腰の両側にある大きな白いリボンが、彼女の歩みに合わせてふわふわと揺れている。
こうして見ると、ウィンドウショッピングを楽しんでいる普通の女の子にしか見えない。その外見と中身の不一致ぶりに、マイケルは慣れることができそうもないと思った。
一軒のブランドショップの前で、エミリーがふと足を止めた。
近づいてみると、エミリーは目を輝かせて、ショーウィンドウのネックレスやイアリングを見ていた。なんのことはない、アクセサリーに気を引かれただけだったようだ。
それにしても、エミリーもこういうものに興味があるのだな、とマイケルは思う。こいつなら、店の品物を買い占めるくらいのことはしそうだ。そんなことを考えながら彼女の白いロングヘアを見ていると、突然振り向いたエミリーと目が合った。
「なによ、その顔は。こいつ、意外だなって表情ね」
エミリーのオッドアイが、いたずらっぽく笑う。まるで屈託のないその笑顔に戸惑ったマイケルは、少しぶっきらぼうな口調で答えた。
「ああ、ものすごく意外だよ」
「まあ、失礼ね。わたしだって、普通の女の子だわ。それにしても、ほんとうに気のきかない人ね。こういうときは、なにかプレゼントしようか、くらいのことは言う……もの……よ」
エミリーは、なぜか最後の方を口ごもりながら、文句を言った。
マイケルは、おまえにプレゼントをねだられる筋合いはないし、子供のくせにアクセサリーなんて生意気だ、と言い返してやろうかと思う。しかし、あらためて見ると、あんなに金づかいが荒いのに、エミリーはアクセサリーの類をまったく身に着けていない。
「……意外だな」
思ったことが、無意識に口に出てしまっていた。
「何回も言わないでよ」
エミリーの頬がふくらむと同時に、マイケルは足の甲に激痛を感じた。見ると、エミリーのストラップシューズの踵が靴に食い込んでいた。
「痛いだろ」
マイケルは、エミリーをにらみつける。しかし、彼女はそしらぬ顔で、あさっての方角を見ている。その表情は、不機嫌そうにむくれたままだった。
「おまえなあ……」
エミリーに文句を言いかけたとき、マイケルは、今まで感じたことのないプレッシャーのようなものを感じて、続きの言葉を飲み込んだ。心と体が、ざらついた壁に押し付けられたような感覚だった。
マイケルは、そのプレッシャーの正体を探ろうと周囲を見回す。しかし、それが発せられている方向を掴む前に、プレッシャーは霧消してしまった。
「どうしたの」
様子を窺うようなエミリーの声に、マイケルは首を横に振った。
「いや、なんでもない」
自分でもよくわからない出来事をうまく説明する自信はないし、あまりこちらの状況を知られたくもない。マイケルは、ごまかすつもりだった。
だが、エミリーは、ふふっと含み笑いをした。
「隠さなくていいわ。なにか感じたのでしょう」
「おまえにも、わかるのか」
つられてそう答えてから、マイケルは後悔する。また、口車に乗せられたか。
「どういう感じだった?」
エミリーの青い瞳が、好奇心を全開にしてマイケルを見ている。しかも事情を知っていそうな口ぶりだ。それなら、エミリーの話に乗った方が得策だろう。
「口では、上手く説明できないんだが。圧迫感のようなものを感じた」
エミリーは、ひとしきりマイケルの顔を見つめたあと、お茶にしましょうと言って通りの向かい側に建つフォートナム・メイソンの赤い建物を指差した。
英国王室御用達の高級食料品がずらりと並んだ店舗を通り抜け、五階にある『セント・ジェームズレストラン』に入る。創業三百年を誇る老舗デパートのティールームだが、クリーム色のシンプルな内装を蛍光灯の間接照明が照らす店内は、高級ホテルのような堅苦しさはなく、カジュアルな格好の客でほぼ満席だった。
白いテーブルクロスがかかった丸テーブルの席に向かい合って座り、いつものようなアフタヌーンティータイムが始まった。エミリーは、ティースタンドからタルトをひとつつまんで絵皿に載せると、まるで世間話をするように告げた。
「やはり、わたしの体液を摂取した影響が出ているみたいね。あなたがさっき感じたのは、あいつらが放つ波動よ」
「波動?」
「普通の人間の感覚系では、あれは察知できないわ……」
エミリーは、そこで咳払いをすると、声を落とした。
「今夜は、ピカデリー・サーカスで戦闘になりそうね」
「戦闘だって?」
マイケルは、剣呑なその言葉を思わず復唱していた。
「どういうことだ」
エミリーは、マイケルの追随を許さないスピードでタルトを片付けると、今度はスコーンを絵皿に移しはじめた。
「わたしたちは、あいつらの波動を読み取ることができるの。今ごろは、組織の者がトレースを開始しているわ。そして、始末しやすそうな場所におびき出して、これよ……」
エミリーは、右手を水平に一振りして見せた。
最後のスコーンに手を伸ばしかけていたマイケルは、反射的に身を引く。オッドアイが三日月のように笑って、そのスコーンはエミリーの手に落ちた。
――冗談じゃない。こいつ、なんてことを……。
「ちょっと待てよ」
マイケルは、思わず声を上げた。
スコーンを掴んだままで、エミリーの手が静止する。
「私闘なら、黙認できないぞ」
エミリーは小声で、そっちか、とつぶやいたあとで、青い瞳をマイケルに向けた。
「作戦行動よ」
それなら私闘よりタチが悪いじゃないか、とマイケルは思う。
「それに、あなたに承認してもらう必要はないわ。もともと、わたしたちには、あいつらを始末する権限があるのだから」
スコーンを口にして喋れなくなったエミリーに、マイケルは反論する。
「おまえたちやあいつらが何者なのか、はっきりしたことがわからない以上、いや、はっきりしたとしても、このロンドンで勝手な真似は許さない。とにかく、スコットランドヤードに出動を要請する」
そう言って携帯電話を取り出したマイケルを、あわててスコーンを飲み込んだエミリーがとどめた。
「うぐっ。……どういう名目で出動させるつもりか知らないけど、あなたたちでは、あれは倒せないわ」
戦闘が前提になっているエミリーの言葉は、マイケルたち警察官の存在意義を真っ向から否定するものだった。
「いいか、よく聞けよ。犯罪捜査や犯人検束は俺たちの仕事だ。おまえたちみたいな……」
語気を荒げるマイケルを、冷静なエミリーの声がたしなめた。
「説明してあげるから、落ち着いて。……お茶が、まずくなるわ」
紅茶をひとくち飲んだあと、エミリーは言葉を続けた。
「ローゼンクロイツ騎士団という組織があるの。わたしもアーサーも、その組織に属しているわ。表向きは、慈善事業をしている公益法人だけど、ああいう者たちを処理する仕事もやっているの。そして、わたしたちは、そのための特別な能力と装備、それから権限を持っているわ」
それは、一週間前のマイケルだったら、端から信じないような胡散臭い話だった。だが、ここ数日の出来事は、そんな話にさえ妙な現実味を与えていた。
「あいつらは、いったい何なんだ」
マイケルの問いかけを無視するかのように、エミリーの視線がティースタンドのサンドイッチの上を彷徨う。しかし、蕾のようなピンクの唇は、さらりと言葉を紡いだ。
「人間のように見えて、人間ではないものよ。あいつらを放置すれば、人間と交わりを持ち、やがて人間を破滅させることになるわ。あの死体を調べなかったの? キングスクロスで始末したヤツ、いったんはあなたたちが持っていったのでしょう」
「あれは、鑑識に持ち込む前に、MI5に接収されたんだ」
エミリーの言葉につられるように、マイケルは秘密情報を口にしてしまった。部長から口止めされていたことを思い出し、ひやひやしながらエミリーの様子を見る。しかし、彼女が関心を示したのは、マイケルの心配ごととは別の部分だった。
「ふうん、間に合ったんだ。さすが本部ね、手際がいいわ」
その言葉にマイケルは、ほっとすると同時に、底知れぬ闇を垣間見たような気がした。エミリーの気軽な話し方に騙されて、それが意味する事実の重大さを見落とすところだった。
それにしても、エミリーはどうして、今になって秘密を開示するのだろう。情報を独占しているという点で、エミリーたちの方が圧倒的に有利な立場だ。わざわざ嘘をついてまで、こんな話を俺に聞かせる理由はない。
これは、なにか裏がある。そう直感したマイケルは、おおげさにため息をついて見せた。
「なあ、嘘はもっと上手につけよ。話があまりに胡散臭いぞ。仮に事実だとして、こんな衆人環視の中で、しかも無関係の人間に、そんなことをべらべら喋っていいのか」
エミリーは、エッグサンドイッチを掴んだ手の甲で口元を隠すと、くすくすと笑い出した。




