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2.6 アンタッチャブル(Layer:1 Main Story)


 ドーチェスター・ホテルに出向いたマイケルは、フロントでエミリーに取次ぎを頼み、そのままロビーで待つことにした。

 やがて、ゆったりした黒いワンピース姿のエミリーが、エレベーターから下りてくるのが見えた。長い髪を小さく括ってアップにしたそのスタイルからは、昼間のロリータファッションに身を包んだ姿より、ずいぶん大人びた印象を受けた。

 呼びかけようとしたマイケルは、エミリーがだれかと手を繋いでいることに気づいて思いとどまった。

 エミリーに続いてエレベーターから姿を見せたその相手は、セント・セシリア校の制服に身を包んだ、綺麗な顔立ちをした黒髪の少女だった。

 二人は、カサブランカのフラワースタンドの前で立ち止まり、言葉を交わす。やがて、エミリーが胸の前で小さく手を振った。『じゃあね』とでも、言っているのだろう。だが、黒髪の少女は、せつなさそうにエミリーを見つめたあと首を振ると、ふわりとエミリーに抱きついて唇を重ねた。

 唇を離した少女を、こんどはエミリーが抱きしめた。少女は、甘えたようにエミリーの胸に顔を埋める。

 少女の艶やかな黒髪を撫でつけながら、エミリーはマイケルに視線を投げてきた。オッドアイがきゅっと細くなって、目尻に笑みが浮かぶ。

 ――気づいていたのか。

 マイケルの心臓が、どくんと波を打つ。それは、衝撃的な光景だったが、一方で妙に納得もしてしまう。エミリーの通っている学校は女子校だし、彼女がかもし出す雰囲気からすれば、十分にありうることだ。

 やがて、身体を離した二人は、今度こそ笑顔で手を振って別れた。

 マイケルは、黒髪の少女がドアの外に消えたことを確認してからエミリーに近づくと、まず非礼を詫びた。

「こんな時間に呼び出して、すまない。それに、ぶしつけなことをしてしまったな。……邪魔だったのなら、断ってくれてよかったのに」

「いいのよ、あの子は……。それより、なにか飲む? この時間なら、バーの方がいいわね」

 エミリーは、笑顔で答えた。嫌味のひとつも言われるかと覚悟していたマイケルには、意外な展開だった。

「いや、まだ仕事が残っているんだ。やめとくよ」

 そもそもそんなことができる状況ではないはずなのに、マイケルは仕事を理由にして、エミリーの誘いを断っていた。これではまるで、オフなら一緒に酒を飲んでもいいと言わんばかりではないか。

「あら、残念ね。それじゃ、お茶にしましょう」

 本気なのかどうかわからないが、エミリーもそんなことを言っている。おまえ未成年だろう、と口に出かかった言葉を、マイケルはかろうじて飲み込んだ。


 ラウンジ「ザ・プロムナード」は、淡い間接照明の光の中にあった。

 客の姿は少なく、ショパンのノクターンを奏でるピアノの音が低く流れていた。

 エミリーは、サーブされた紅茶を一口飲むと、音も立てずにカップをソーサーに置いた。カップの縁にわずかに残った淡いピンク色のルージュを、エミリーはさりげなく指先でなぞり、その指をナプキンの端で拭った。

「ところで、ご用はなにかしら」

 すました顔の中で青と真紅の瞳が、マイケルの思惑を見透かすように見開かれている。

「エミリー、大事な話があるんだ」

「大事な話って、なあに?」

 そう問いかけるエミリーの唇はうっすらと色づいて、艶っぽく見える。ロビーでのシーンが、マイケルの脳裏をよぎる。

「I want your……」

 マイケルは、そこで言葉に詰まる。どうしたことか、説明の言葉がまったく思い浮かばない。

 ふと、エミリーと目が合う。大きく見開かれたまぶたの下で、オッドアイが照明を写してきらきらと光っていた。よく見ると綺麗な瞳だな、マイケルがよそ事を考えた直後、その目が恥ずかしそうに伏せられた。

「ちょっと、待ってよ。そんなことを急に言われても、わたし、どうしたらいいの? わたしたち、まだ出会ったばかりじゃない。それならそれで、心の準備も必要なのよ……」

 うつむいたエミリーの頬は薔薇色に染まり、黒いワンピースの肩にあるリボンが微かに震えていた。そこには、いつもの生意気なエミリーはいなかった。年齢相応の少女が、恥ずかしそうに頬を染めてうつむいている。エミリーのそんな姿に、マイケルの胸は不覚にも高鳴った。

 だが、それと同時に、疑問符が浮かぶ。

 ――何がどうなっているんだ?

 俺は、警護の延長を申し入れに来たんだぞ。こんな時刻になってから、携帯電話で呼び出してっていうのは問題かもしれないが、それだってきちんとエミリーの了承は得たわけだし。そもそも、まだ肝心なことは何も話していないじゃないか……。

そこまで考えたとき、ようやくマイケルは気が付いた。そうだ、肝心なことをまだ話していない(・・・・・・・・)。それに、なにやら微妙なところで言葉を切ったような気がする。そして、マイケルはいちばん重要なことにあらためて思い当たった。それは、マイケルとエミリーが、年ごろの男女だということだった。

しまった、と思ったときにはすでに遅かった。

「いや、その、ご、誤解しないでくれ。俺は……」

 しどろもどろの言い訳が、事態をより深刻化させた。

「誤解って、そんな……。ひどいわ、レディにあんなことを言わせておいて。わたしに、恥をかかせるのね」

 掌で顔を覆ったエミリーの言葉尻が、震えている。

 ――まさか、泣いているのか。

 マイケルは、完全にうろたえた。

「おっ、俺は、そんなつもりで呼び出したんじゃ……いや、おまえに魅力がないとか、そういうことじゃなくてだな」

 マイケルは、もう、自分でもなにを言っているのか、わからなくなっていた。ラウンジで談笑している他の客や、ボーイの視線が、自分に突き刺さってくるように感じた。冷や汗が、背中を流れ落ちる。

「なあ、エミリー……」

 もう、言い訳の言葉さえ思い浮かばなかった。

 やがて、うつむいたままのエミリーから、くすくすという含み笑いが漏れ出した。そして、顔を上げると、小憎らしいほどの微笑みをマイケルに投げてよこした。

「なあんてね。どう? ドキドキしたでしょう」

 マイケルは、ようやくエミリーの芝居に気がついた。

 ――やられた。

 緊張が解けて、脱力感だけが残る。マイケルは、椅子の背にもたれかかった。

「お昼の仕返しよ。わたしのことをなんとも思っていないなんて、よくもまあ言ってくれたものだわ」

 エミリーが、勝ち誇ったように続ける。

 不思議なことに、腹はたたなかった。ここまで見事にやられると、逆に気持ちが良かった。それに、さっきのエミリーは、それが演技だったとしても、初々しい可愛らしさが溢れていた。うろたえながらも、心が動いたことも事実だった。マイケルは、騙されはしたが、ちょっと得をしたかなと思った。

「そういえばそうだったな、謝るよ」

 マイケルは、素直に詫びた。

「ずいぶん素直なのね。あなたって、意外といい人なのかしら。わたしも、調子に乗ってちょっと悪戯がすぎたみたいね。お詫びするわ」

 エミリーの方も、屈託なくマイケルに詫びた。

 その笑顔を見ながら、マイケルは思った。こいつは、そんなに悪い娘じゃないのかもしれないな。そして、マイケルは、いままでよりすこしだけエミリーを近くに感じたような気がした。


「ところでエミリー、頼み事があるんだが……」

 落ち着いたところで、マイケルは本題を切り出す。雰囲気が良い今なら、大丈夫だろうという読みがあった。

「オーストリア大使館から出ていた警護要請が、取り下げられるらしい。だが、こちらが得た情報によると、おまえにテロリストの危害が及ぶおそれがあるんだ。スコットランドヤードの規則で、おまえの身辺警護を継続しないといけない。その許可をもらいたいんだ」

「お断りよ」

 笑顔のまま、即答で拒否された。

 すこしくらい考える間があるだろうと予想していたマイケルは、返す言葉が用意できていなかった。黙りこんだマイケルに、エミリーは二の句を継いだ。

「と言いたいところだけど、状況が変わったわ。あと七日間だけ、わたしの傍にいなさい。その間は、護衛でもなんでも好きにするといいわ」

 あまりに意外な展開に、マイケルは再び言葉を失う。エミリーの申し出は、マイケルにとって願ったり叶ったりだが、いったいどういう風の吹き回しだろうか。もしかしたら、さっきのシーンも、演技とかじゃないのかもしれない……。

「つまらない妄想をしているのなら、やめておきなさい。あなたが、わたしの体液を直接摂取した濃厚接触者だからよ……」

 かえって妄想をかき立てられそうなことを、エミリーは真顔で喋る。女の子のくせに、恥ずかしいとか、そういう感情はないのかよ、とマイケルは思う。

「生化学的防護処置もしないで、わたしにあんなことをするなんて。本来なら、最高度安全等級バイオセーフティ・レベルフォーの隔離施設に放り込んでやりたいところよ。それを、七日間の監視措置だけで済ませてあげるんだから、感謝しなさい」

 まさしくつまらない妄想など吹き飛ぶような、深刻な話だった。マイケルは、うわついていた気持ちが急に醒めていくのを感じた。

「今の話、どういう意味だ」

「言葉通りの意味よ。あなたの足りない頭でも、理解くらいはできるでしょう。心配しなくても、何事もなければ来週には開放してあげるわ。これに懲りたら、わたしに気安く触れないことね」

 エミリーの物言いは、仕返しや嫌がらせにしては、ちょっと度が過ぎている。だがマイケルをにらみつけた青い瞳は、ぞっとするほど冷ややかだ。怒りに任せた言葉ではない。

「俺に触られたくない、というのは分るが、そこまで言うほどのことなのか。まさか、重大な病原菌の保有者(キャリア)とかじゃないだろうな」

 真剣に聞き返したマイケルに、エミリーは口元に笑いを浮かべて返した。

「さあ、どうかしら。いずれにせよ、あなたが他の人とどんな接触をしようと、問題も興味もないわ。あなた自身になにも起きなければ、それでいいの」

 その言葉を信じるなら、伝染病などの類ではないようだ。マイケルは一安心するとともに、監視措置というエミリーの現実離れした言葉にいささか鼻白む。

「俺を監視下に置くなんて、できると思ってるのか」

「わたしたちには、できるわ」

 平然と言い放つエミリーに、マイケルはジャケットの左胸の辺りを右手の親指で指し示しながら答える。

「俺は、これでも現職の警察官だ。しかも対テロリストの格闘訓練を積んでいるし、特別な許可を得て銃も持ち歩いている。力づくで、なんてことは通じないぞ」

 若干の凄みも効かせたつもりだったが、エミリーは知らん顔して紅茶に口をつけた。

「口で言ってもわからないのね」

 エミリーが、彼女にしては珍しく、乱暴な手つきでカップをソーサーに戻した。褐色の水面が波立って、ガチャンという音がラウンジに響く。

 それが合図だったかのように、ラウンジに漂っていた穏やかな空気が一瞬で凍りついた。

 事実、それは合図だったのだろう。スーツ姿のビジネスマン、タキシードの紳士にイブニングドレスを着飾った淑女、ちょっとカジュアルな装いの少女たちのグループ。十人ほどの客は、あいかわらず談笑しているように見えたが、そこかしこから放たれる殺気が、マイケルに押し寄せてきた。

 気がつくと、マイケルの着ているジャケットのあちこちに、赤い光点が浮かんでいた。そこに照準をつけていることを示す、レーザーサイトのマークだ。

 ――しまった……。どこから狙われている?

 ふと視線が合った男の手に握られた小さな漆黒の拳銃に、マイケルは見覚えがあった。秘匿携行用拳銃コンシールド・キャリー、シグザウエルP290だ。

 状況から判断して、それが偽物(フェイク)でないことはほぼ間違いないだろう。シグザウエルP290は、徹底的な小型化によって秘匿性を追及した設計であり、マイケルのブローニング・ハイパワーMk3とは違った意味で、その道のプロフェッショナルが使用する地味な拳銃だ。こけおどしに使うのなら、もっと派手で目立つものにするだろう。

「これで、わかったかしら。あなたは、わたしに触れることもできない(アンタッチャブル)けれど、わたしたちの手は、容易くあなたに届く(タッチャブル)のよ」

 異様な雰囲気のなかで、エミリーだけが薄い笑いを浮かべてティーカップを傾けていた。

 マイケルは、エミリーの芝居に乗せられて、うわついた気分になっていた自分に激しい後悔と憤りを覚えていた。自分の甘さと驕りが油断になり、こんな状況に追い込まれる原因になったのだ。だが、だからこそ胸の奥に湧き上がってくる闘志もあった。

「こんなことで……」

 マイケルは、エミリーのオッドアイを見据え、自分に言い聞かせるように言葉を発した。

「俺を止められると思うなよ」

 エミリーの顔から、すっと微笑みが消えた。流れるように優美な所作で席を立ち、座ったままのマイケルに向けて軽く会釈をする。そして、氷のような青い瞳でマイケルを見下ろしたまま、抑揚のない声で告げた。

「じゃあ、また明日」

 マイケルは、ああと小声で答えた。

 ――七日間で、じゅうぶんだ。

 おまえたちの正体と企みは、俺が暴いてやる。もし、連続通り魔殺人の関係者だったら、必ず法廷に引きずり出して、裁きを受けさせて見せる。

 後ろも見ずにラウンジを出て行くエミリーの白い髪と黒いワンピースを、マイケルはいつまでもにらみつけていた。

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