2.5 ラブ・コール(Layer:1 Main Story)
マイケルがオフィスに戻るのを待っていたように、特殊作戦部長から呼び出しがあった。
「キングスクロス事件に関する、エリザベート・フォン・フォアエスターライヒへの捜査活動は、現時刻をもって打ち切る」
突然の通告に、マイケルは一瞬、唖然とする。
「なぜ、そうなるんですか。ようやく糸口がつかめかけたのに、冗談じゃない」
マイケルは、思わずそう言い返していた。慌てて、失礼しました、と陳謝する。
「いや、いい。それより糸口とは、なんだ」
マイケルは、エミリーの訪問先が連続通り魔殺人事件の発生予測地点と一致すること、そしてサヴォイでの会話の内容を要約して報告した。
デスクに肘をついた左手に顎を乗せて、部長は目を閉じ、ひとつ嘆息した。
「やはり、そこに繋がるのか。かわいらしいだけのお嬢様ではなかろう、とは思っていたが……」
かわいらしいだけのお嬢様の方が、よほどましというものだ。マイケルは、部長が考えているだろうこととは違う意味で、そう思った。
部長は目を開くと、マイケルを見上げながら言葉を続けた。
「じつを言うと、私も気になっていたのでな、個人的なルートで外務省に探りを入れていたんだが、どうやらそれが裏目に出たようだ。この件をあまりつつきまわすなと、上層部へお達しがあったらしい。下手をすると、外交問題に発展するおそれがあるのだそうだ。先進国首脳会議の開催が、来週に迫っているだろう。このタイミングでごたごたが起きるのは、まずいからな。ともかく本件に関しては、今後、組織的な捜査は実施しない。オーストリア大使館からの警護要請も、取り下げられるそうだ」
「要するに、キングスクロス事件は闇に葬られるというわけですね」
マイケルの言葉に、部長は苦々しそうな表情でうなずく。
「部長は、それでいいんですか? 圧力をかけてくるのは、後ろめたいことがあるからですよ。エミリー……いえ、エリザベート・フォン・フォアエスターライヒは、まちがいなく一連の事件に関係しています。ロンドンの治安を守るわがスコットランドヤードが、ここまで虚仮にされて、黙って引き下がれと言うんですか。俺は、絶対に嫌です」
持って行き所のない悔しさが、マイケルの口調を荒くした。
対する部長は、腕を組んで背もたれに身体を預ける。
「おまえらしい言い分だな。なにか、口実でもあれば……。そういえば、ハノーヴァー公爵は、まだテロリストの標的になったままだろう?」
「襲撃犯を逮捕しましたので、テログループからの予告は未遂のままですが」
「エリザベート嬢の身元保証人は、そのハノーヴァー公爵だったな」
――そうか、その手があったか。
首都警察管内でテロの脅威にさらされている人間がいる場合、テロ対策課のマイケルは、独自の判断でその安全を守る義務と権限がある。
「問題は、お嬢様の承諾がとれるかどうかだが。そこは、お前次第だ。その気があるのなら、やれるところまでやってみろ。ただし、明白な物的証拠が挙がらない限り、我々のバックアップはないぞ。それと……」
部長は、そこでいったん言葉を切ると、マイケルの目を見据えて続けた。
「おまえの心情はどうあれ、私闘は許されない。そのことは忘れるなよ」
マイケルは、答えに詰る。
エミリーを追った先で通り魔殺人事件の犯人を見つけたとして、俺はどうするつもりなのか。それがもし、十五年前の事件の犯人でもあったら、司法の手に委ねられるのか。イギリスの刑法に、死刑はないのだ……。
――ばかな。復讐でもしようというのか、俺は。
「わかっています」
マイケルは、敬礼をして、部長のオフィスを退出した。
リノリウムの廊下を歩きながら、マイケルは頭を抱える。
またしても、エミリーを巡る政治力が働いた。背後には、おそらく相当な大物がいるのだろう。藪をつついて蛇が出てきてはたまらない、そういう思惑が上層部にあることは間違いない。それにしてもスコットランドヤードは、この件に関して弱腰が過ぎる。組織のバックアップなしで、いったい、どこまでやれるのか……。
マイケルは、オフィスには戻らず、休憩室に立ち寄った。
コーヒーサーバーから熱いブラックコーヒーを紙コップに注ぎ、プラスチック製のイームズチェアに腰を下ろす。
壁の掛け時計に目をやると、デジタルの液晶画面に二〇時〇〇分の表示が浮かんでいた。休憩室には他に人影もなく、エアコンから噴出す冷風が、天井近くまで伸びたパキラの葉をひらひらと揺らせていた。
コーヒーをひとくちすする。苦味が口に広がり、熱い液体が喉を潤す。
――エミリーに頼み込むしかないのか。この俺が……。
『なんて幼稚な人かしら』
『なんてことするのよっ』
ここ数日のことを思い出すだけで、マイケルの中に、言いようのない悔しさがこみ上げてくる。あいつとは、どうにもこうにも性が会わない。
『よりによって、こんなヤツに……』
――それは、こちらの台詞だ。
だが……。
マイケルは、コーヒーを一気に飲み干す。そして、紙コップとともに、怒りの感情を握りつぶした。くしゃっという音とともに、紙コップは丸い塊になった。
今ここで投げ出したら、エミリーを追うことも、事件の真相を暴くこともできなくなる。連続通り魔殺人事件に繋がる可能性が見えて来ているのに、後悔するようなことはしたくない。
そうと決まれば、時間との勝負だ。携帯電話を取り出し、エミリーに持たせている携帯電話を呼び出す。
ルルルルという、柔らかな呼び出し音がするごとに、緊張感が高まる。
そういえば、エミリーと電話で話すのは初めてだな、とマイケルは思う。まるで、女の子を初めてデートに誘うみたいだ……。そんなことをふと考えたマイケルは、自嘲の笑みに口元をゆがめた。
長いコールのあと、相手が電話に出た。
「……」
無言だった。
「エミリー、か?」
ため息が、受話口から聞こえた。エミリーだった。
「いま、ちょっといいか」
「なに?」
エミリーの受け答えは、素っ気なかった。まだ機嫌が悪いのなら明日にするか、と思いながら、いちおうマイケルは尋ねてみた。
「これから、会えないか。おまえのホテルに行くから」
「……」
エミリーが、絶句しているのがわかった。
「ダメか」
「いえ……いいわよ」
エミリーがあっさりと承諾したことに、マイケルは違和感を覚える。
「用件を聞かないんだな」
電話の向こうで、また、ため息が聞こえた。
「わたしに会いたいのでしょう。だったら、つべこべ言っていないで、さっさと来なさ……」
最後の言葉を言い終わらないうちに、エミリーは携帯電話を切ったらしい。受話口からは、ツーツーという音がしていた。
マイケルは、携帯電話をポケットにしまうと、紙コップの残骸をゴミ箱に向かって投げた。しかし、そのシュートはゴミ箱の縁に弾かれ、紙コップ製のボールは床に転がった。




