2.4 バッキンガム・パレス(Layer:1 Main Story)
「お兄ちゃん」
少し鼻にかかった声が、恥ずかしそうに俺を呼んだ。
声の方に向くと、広い花畑が見えた。
遠くには、緑の木立と飴色の石造りの家並みが見える。
せせらぎの音が、心地よく耳に響いた。
「ソフィー?」
声の主を探す。
「ここだよ、お兄ちゃん」
花畑から、小さな金髪の頭がちょこんとのぞいた。
「ねえ、こっちに来て」
花畑をかきわけて、彼女の近くに行く。
「今日は、お兄ちゃんのお誕生日だね。はい、プレゼント」
彼女は、小さな両手で花冠を差し出す。
「ありがとう、ソフィー」
その花冠を受け取って、自分の頭に載せる。
「来週は、ソフィーの誕生日だな。なにか、欲しいものはあるか」
「うんとね、指輪が欲しい」
「指輪?」
「うん。大きくなったら、大好きな人から貰うんだよって、パパが言ってた」
そして、くりくりとしたブラウンの目を細めて笑った。
「俺でいいのか」
「うん。だって、ソフィー、お兄ちゃん大好きだもん」
その頭を、くしゃくしゃとなでてやる。
気持ちがいいのか、ソフィーは満面の笑顔になる。
だが、次の瞬間、闇が辺りを閉ざした。
そして、その声が聞こえてきた。
「助けて……」
それは、闇の底からささやきかけられているような声だった。
「助けて、お兄ちゃん」
「ソフィー」
俺は、彼女の名前を叫びながら駆け寄る。
しかし、俺の足はもつれ、石畳に倒れこんだ。
そして、俺は息を飲む。
一面の、血溜まり。
その上に、ソフィーは浮かんでいた。
金髪とドレスを、赤黒く染めて。
「ソフィー、しっかりしろ」
俺は、彼女を助け起こす。
ソフィーは、はあっ、はあっと荒い呼吸を繰り返す。
「ぐっ……痛いよ、お兄ちゃん」
必死に訴える小さな口からも、一筋の血が流れ出す。
その血にむせたのか、ソフィーは、ごほっと咳をした。
「ソフィー、しゃべるな。すぐ病院に連れて行ってやるからな」
俺は、励ましながら周囲を見る。
だが、そこには深い闇があるだけで、助けてくれそうな人影もない。
「お兄ちゃん、寒いよ」
腕の中の小さな身体から、熱が失われていく。
俺は、着ていた上着を脱いで、ソフィーの身体にかけた。
ブラウンの瞳が、しだいに光を失っていく。
「ソフィー」
俺の呼びかけに、彼女はこくりとうなずいた。
ソフィーの手が、震えながら何かを求めてさまよう。
その手を取ろうとして伸ばした俺の手は、しかし空を掴んだ。
小さな白い手は、すでに地面に落ちていた。
「……ソフィー?」
呼びかけに、答えはなかった。
「ソフィーっ!」
思わず叫んだ自分の声で、マイケルは目覚める。
目覚まし時計にセットした起床時刻より、十分ほど早かった。
ここ数日というもの、目覚めはいつも悪い。眠れば、決まってあの事件の夢を見る。
『連続無差別殺人事件』。
それは、今から十五年前、マイケルがプライマリースクールに通っていたころに、ロンドンを震撼させた一連の殺人事件だ。男女合わせて八人が犠牲になり、相当な捜査が行われたにも関わらず、まだ犯人は逮捕されていない。
その直後に、キングスクロス地下鉄火災事故やロンドン証券取引所爆破事件という大事件が立て続けに起きたことで、世間の耳目はそちらに向いてしまったが、マイケルをはじめとした遺族にとっては、忘れられない事件である。
あのとき、俺はまだ無力な子供だった。
マイケルは、自分の手を見る。スコットランドヤードの訓練とキックボクシングのジムで鍛えた手首は引き締まり、腕には逞しい筋肉が盛り上がっている。
そうだ、今の俺は違う。自分の大切な人を守り、犯罪者をのさばらせないための力を、俺は手に入れたはずだ。そして、エミリーを追えば、かならず事件に繋がる。今は、それを信じて進もう。
エミリーの警護は、彼女が滞在しているドーチェスター・ホテルで、朝食を一緒にとるところから始まる。
宮殿ような大理石の円柱に囲まれ、高級な家具と緑の植栽に彩られたロビーを抜けて、ラウンジ「ザ・プロムナード」に入る。燕尾服姿の給仕長とは、すでに顔なじみになっているので、いつものとおり非常口に一番近い席に案内される。周囲を見回して異変がないことを確認したあと、給仕長にチップを渡す。異常が起きれば、真っ先にマイケルのもとに知らせが届くようにするための手配だ。
コーヒーとパンにフルーツが少々というコンチネンタルブレックファーストと、肉料理や玉子料理とサラダにスープまでがセットになったアメリカンブレックファーストをオーダーしてから、エミリーを待つ。マイケルが席についた五分後、午前七時三〇分きっかりにエミリーが現れた。
おはようございます、とエミリーが会釈をする。おはよう、とマイケルが挨拶を返す。
それを見計らったかのように、注文しておいた朝食がサーブされる。白いテーブルクロスが眩い円卓の上に、マイケルの前にはコンチネンタルブレックファーストがさらりと置かれ、エミリーの前には彩りも豊かな料理や飲み物がずらりと並ぶ。これも、いつものことだ。
エミリーは、年頃の女の子とは思えないほどよく食べる。この朝食もそうだが、毎日欠かさないアフタヌーンティーのコースも、男のマイケルでもじゅうぶん満足する量の食事が提供されるのだが、エミリーは残さずそれを食べてしまうのだ。身長は一八〇センチのマイケルの肩にも届かず、触れば折れそうに華奢な身体の、どこにそれだけの食べ物が収まるのか。それは、下手な事件よりも深い謎だった。
こくこくと喉を鳴らしてオレンジジュースを飲み干したエミリーは、グラスをトンとテーブルに置いた。たいてい、このあとに軽い口喧嘩をしてから、エミリーを学校に送り届けるというのが日課になっている。しかし、この日は違っていた。
「食事が終わったら、そのままバッキンガム宮殿に案内して」
学校はどうするんだ、と言いかけたマイケルは、エミリーがセント・セシリア校の制服を着ていないことに気づく。
今朝のエミリーは、縦にフリルが入ったバルーン袖の白いブラウスと、淡いピンク色のジャンパースカートという、見事なツートンカラーだった。三段の大きなフリルがあしらわれた膝丈のスカートは、レースのパニエでたっぷりと膨らんでいて、裾のレース飾りがテーブルの上に少し見えている。ジャンパースカートの肩紐から前身頃にかけては、これでもかというほどリボンが飾り立てられていた。白いレースのタイツの足元では、ピンク色のエナメルのストラップシューズが、淡い照明を反射して光っていた。
なんとも少女趣味な服装だが、これはもうエミリーのトレードマークのようなもので、いまさらどうこう言うこともない。
そんなことより、昨日の一件だ。
「エミリー、昨日のことだが」
「なに?」
「おまえが店を出てから……」
そこまで言いかけて、マイケルは口を閉ざす。俺は、エミリーに何を聞こうとしていたんだろう。昨日、ホテル・サヴォイのラウンジで、エミリーのアフタヌーンティーに付き合った。喧嘩別れをして、それから……。
どうしたのだったか?
そうだ、俺は、スコットランドヤードに戻って部長に報告ついでに文句を言って、それから帰宅したんだ。もちろん、日課にしているキングスクロス駅周辺のパトロールはやった。たしか、それだけのはずだ。
「いや、なんでもない」
すでに朝食を終えていたエミリーは、行きましょう、とだけ告げて席を立った。
バッキンガム宮殿は、英国人にとっては敬愛する女王陛下の居城であるが、同時にロンドンでも屈指の観光地である。外国人の観光客が観光バスで次々にやってきて、名物の衛兵の交代式を眺め、写真を撮っては去っていく。そういう場所だった。
宮殿前の広場からは、アドミラルティ・アーチやトラファルガー・スクエアに続く一直線のザ・マルが見渡せ、その右手にはセントジェームスパークが、左手にはグリーンパークが、豊かな緑の広がりを見せている。
バッキンガム宮殿は、シンプルなネオクラシック様式の建築で、正面からはアーチ型の窓がずらりと並んだ石造三階建ての間口しか見えないが、奥行きは相当にあって総面積は三万平方メートルちかくになる。円柱を配した正面玄関の屋上には、ユニオンジャック旗が翻っていた。
黒山の人だかりの中に紛れて、マイケルとエミリーは柵内の衛兵たちに目を向ける。エミリーの美麗だが異様な容姿と奇抜な身なりを目にした観光客たちは、例外なくすこし距離をおいてくれる。なかには、不躾にもカメラのレンズを向ける東洋人の観光客もいたが、エミリーはまったく気にしていなかった。
やがて、ブラスバンドの演奏が始まり、整列した衛兵たちが一糸も乱れぬ行進を始める。赤い制服に身を包み、黒い毛皮の長帽子を目深にかぶった衛兵たちは、銃剣を捧げながら誇らしげな表情で引継ぎの儀礼を済ませていく。 集まった観客たちは、気軽な服装で、スナック菓子をつまんだりペットボトルの飲み物を口にしたりしながら、柵ごしにその様子を眺める。
儀礼を済ませた一隊が、バッキンガム宮殿の正門から退出してザ・マルの方向に消えていくと、正門のフェンス扉が閉じられて、交代式の終了を知らせた。それと同時に、潮が引くように観光客の姿も減っていった。
普通の観光客なら、もうここには用事はない。しかし、エミリーはきっと違うはずだ。
マイケルの読み通り、エミリーは衛兵交代式の様子を眺めたあと、噴水の縁に腰掛けると、文庫本を広げて読みはじめた。ピンクと白でコーディネートされた彼女の背後で、噴水が白い水しぶきを上げる。
本が読みたいのなら、なにもこんなところに来る必要はない。ホテルからも、そんなに離れていないのだ。
マイケルは、無駄に時間をつぶしているように見えて、なにかをしているはずのエミリーを、それとなく観察する。やがて、頁をめくるエミリーの手が止まった。本を開いたままで、自分の左手の指を見つめている。
近寄って見ると、彼女の白い人差し指の先に、赤い血が小さく盛り上がっていた。
「どうしたんだ?」
マイケルが聞くと、エミリーは指を見つめたままで答えた。
「頁の端で、切っちゃったみたい」
病院に行くか、というマイケルの問いかけに、エミリーは小さく首を振る。
「いいわ。すこし痛むだけだから」
「とにかく、ちょっと見せてみろ」
マイケルは、ごく自然にエミリーの手をつかむと、その人差し指の血を口で吸った。わずかに錆くさくて、しょっぱい味がする。指から口を離すと、指先にすこしだけ血がにじんで止まった。
それは、マイケルに幼い日のことを思い出させた。そういえば、ソフィーにもよくこうしてやったな。薔薇の棘が刺さって、血がにじんだソフィーの指を吸ってやったのはいつのことだったか。昨夜見た夢の頃だったような気がする。あいつ、最初は泣きそうな顔だったのに、俺がこうすると嬉しそうにしてたよな……。
マイケルの甘い追憶は、パシンという音と、頬の痛みで突然に破られた。
現実に戻ったマイケルの目の前には、愛らしいソフィーではなく、顔を真っ赤にしたエミリーがいた。
状況から判断すると、マイケルはエミリーにしたたかに頬を打たれたようだ。
「なんてことするのよっ」
エミリーは、小さな身体を震わせながら、烈火のごとく怒っていた。いままでも何度も口げんかをしてきたが、これほど感情的になったエミリーを見たのは初めてだった。
なぜ、という疑問と、しまった、という後悔が同時に訪れた。目の前の相手は、こういうやつだったのだ。ソフィーの素直さとは、比べ物にならない。
「おまえ、女のくせに、いきなり手を出すなよ。俺は、親切でしてやったんだ。まあ、たしかになれなれしかったのかもしれないけど、これくらいでそんなに怒るなよ」
マイケルは、任務や目的を忘れて、ついそんなことを言ってしまった。そして、後悔する。どうして俺は、エミリーのすることを上手く受け流せないのか。
「なにが、これくらいのこと、よ。あなた、自分がなにをしたのか、わかっているの?」
ものすごい剣幕で、エミリーはマイケルを非難する。
あれくらいのことで、ここまで怒るとは、ほんとうに可愛げのないやつだ。マイケルは、心の中でそう思いながらも、謝罪の言葉を口にするだけの冷静さを取り戻していた。
「悪かったな。子供の頃、妹にああしてやったら喜んでくれたんだ。だから、つい、な。べつに、おまえをどうこうしようとか思っているわけじゃないぞ」
エミリーは、今まで見た中でも最高に不機嫌そうにマイケルをにらみかえす。
「ああっ、もう。よりによって、こんなヤツに。……これからは、わたしに触れるときは、許可を得てからにしなさい」
そう言い捨てて、エミリーは、また本に目を落とした。そして、目を伏せたままで、深いため息を落とした。
「……しばらく、向こうに行っていて」
挿絵のイラストは、つるけいこさんが描いて下さったものです。素敵なイラスト、ありがとうございました。(無断転載禁止)




