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0.1 妖精の森への序曲(Layer:1 Main Story)

 

 その日は、ロンドンの初夏にしては珍しく、蒸し暑かった。

 北緯五一度に位置するロンドンは、この季節だと、午後九時でも空はまだ明るい。

 公演が終わったばかりのロイヤル・オペラ・ハウスの表玄関は、たくさんの着飾った観客で賑わっていた。

 マイケル・ステューダーは、雑踏をにらんでいた視線を、ふと上げる。

 ライトアップされた六本のエンタシス様式の円柱が、藍色の空の下で白い輝きを放っているのが見えた。軒先に掲げられた真紅の旗には、女王陛下の紋章と「ROYAL OPERA HOUSE」の文字が白く染め抜かれている。

 視線を地上に戻すと、再び雑踏が視界に押し寄せてきた。

 ロイヤル・オペラ・ハウスのあるコヴェント・ガーデンは、ロンドンでも屈指の娯楽街だから、週末ともなると狭い通りは人と車でごったがえす。丸みを帯びた背の高い車体のロンドンタクシーが、ひっきりなしにやってきては乗客を乗降させ、混雑に拍車をかけていた。

 マイケルは、たむろする人々に鋭い視線を投げる。

 ロンドン首都警察――通称、スコットランドヤードに要人襲撃のテロ予告が入ったのは、今日の夕刻だった。特殊作戦部テロ対策課の警部補であるマイケルは、勤務を終える直前で上司につかまって、緊急で警護活動の司令任務についていた。

 耳元の無線インカムが、ザッと鳴る。

「『ルーク(直衛)』より『クイーン(司令)』へ。『キング(被警護者)』が移動を開始」

 ――始まったか。

 深呼吸をひとつして、マイケルはインカムに答える。

「ゲーム・スタート。『クイーン』より達する。『ポーン』『ビショップ』はムーブ(前進)、アドバンテージを確保。『ナイト』はアンブッシュ(隠密待機)。『ルーク』は『キング』をカバー。『クイーン』より前に出るなよ」

 マイケルの横を通り過ぎた二人のダークスーツの男が、正面玄関先に停車した黒いリムジンのドアを開ける。通行人たちは、迷惑そうに眉をひそめて道を譲った。

 マイケルのすこし後ろで、『ルーク』が『キング』を立ち止まらせる。

「どうしたのかね、こんなところで」

 上品だが威圧的なその男(『キング』)の言葉に、マイケルは苛立ちを覚える。襲撃されるおそれがあると知っていながら、『キング』はあえて危険にその身をさらすと言い張ったのだ。裏口を使うべきだというマイケルの説得にも、『公爵たるものが、敵に背を向けるなどありえない』と、いっさい応じなかった。

 ――公爵だから、なんだっていうんだ。周りの迷惑も考えろ。

 マイケルは口まで出かかったその言葉を飲み込み、瞬時に感情を冷却した。

「待ち伏せが想定されます。閣下の安全確保のためですので、ご理解を」

 説明する間も、マイケルの目は群集を観察し続ける。

 そして、人ごみの中にその男を見つけた。不自然なほどに、何度もこちらに視線を投げている。淡い色のポロシャツにチノパンを履いた地味ないでたちが、ここでは逆に目立っていた。

 群集に潜ませている『ナイト』に無線インカムで指示を出そうとした瞬間に、路上のポロシャツが動いた。その手で、小型の拳銃が黒く光る。

 マイケルは『キング』を『ルーク』の影に突き飛ばす。

 同時に、乾いた二発の銃声が響く。

 突然のことに、群集から悲鳴が上がる。

「キャスリング、ディフェンス!」

 マイケルの叫びに、盤上の駒たち(チェス・メン)が即応する。

『ルーク』は『キング』に覆いかぶさり、『ポーン』と『ビショップ』は「警察だ、伏せろ」と叫ぶ。

 マイケルは地面を蹴って駆け出す。あえて正面から攻めて、相手の注意をひきつけるのだ。

 再び響く、銃声と悲鳴。

 それにはかまわず、前傾姿勢で間合いを詰める。

 左へフェイント。ポロシャツの右腕を掴み、拳銃を叩き落とす。鳩尾にニーキックを一発。腕をひねりながらアスファルトに組み伏せ、ブローニング・ハイパワーMk3の銃口をそのこめかみに突きつける。ぐう、という唸り声が男の口から漏れた。

「チェック……」

 マイケルは顔を上げて、素早く周囲を観察する。

『キング』は立ち上がって、『ルーク』の隣でスラックスの汚れを払っている。群衆ににらみを効かせる『ポーン』と、犯人が落とした拳銃を確保した『ビショップ』が目に入った。あとは喚声と怒号を上げる人々だけで、敵らしい者の姿はない。けが人もいないようだ。

 マイケルは、ふっとひとつ息をついた。

「メイト!」


 待機していたスコットランドヤードの捜査課員に、要人襲撃の容疑者を引き渡したところで、『キング』がマイケルに声をかけてきた。

「ご苦労だったね」

 紺色のピンストライプのスーツには不似合いの、筋骨隆々とした手が差し出される。

「先ほどは失礼しました、ハノーヴァー公爵閣下」

 マイケルは、その手を握りかえした。

「いや。いい判断だったよ」

「いえ、発砲を許した時点で、我々にとっては敗北です」

「ほう、謙虚だね」

「恐縮です。ですが、状況を作り出した責任の一端は、閣下にもあります。多くの人が危険にさらされました。今後は、ご自重を願いたいものです」

 マイケルは、ハノーヴァー公を正面から見据えた。ウェーブのかかった長い金髪に縁取られた、引き締まった壮年男性の顔があった。すこし吊り上った太い眉の下で、アイスブルーの双眸にかすかな笑みが浮かぶ。

「これは驚いた。たいした度胸だ。俳優みたいな優男だが、人は見かけによらないものだな」

 マイケルは、金髪に碧眼の典型的な白人男性だ。すらりと背が高く、端麗な顔立ちから、学生の頃は映画俳優(ムービースター)というニックネームで呼ばれたこともあった。社会に出てからも、似たような呼ばれ方をあちこちでされる。不快ではないが、不本意ではあった。

「閣下、そろそろお時間です」

 値踏みをするような視線でマイケルを見るハノーヴァー公を、付き人の男が促した。

 うむ、とうなずいたハノーヴァー公は口の端を軽く上げた。

「マイケル・ステューダー警部補だったね。君のことは、覚えておこう」

 ハノーヴァー公がリムジンに乗り込むのを確認してから、マイケルはふとロイヤル・オペラ・ハウスを振り返る。玄関先の柱に張り出された、公演ポスターが目に入った。

「ミッドサマーナイト・ドリーム、か……」

 そうつぶやいてから、マイケルは無線インカムに宣言した。

「作戦終了。捜査課に現場を引き継ぎ、撤収する」

 

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