終章
俺と紀子は二日後の夕方、ターミナル駅で待ち合わせた。季節は桜も散って本格的な新緑の季節になった。約束通り五時半に着いた俺は、待ち合わせる時計台の前に立つ紀子を見つけた。手を振ったが彼女は気がつかない。
小走りに近寄って彼女の肩に手をかけると紀子はビックリしたように俺を見た。
「やだ、ひろし。驚かせないでよ」
「目が悪いんだね。さて、今日は八時半の電車で帰るんだったよね? そこで軽く食事でもしよう」少し早く帰りたいと書いてあった紀子のメール内容を確認するように俺は言って、駅前ビルの二階にあるイタリアン・レストランを指差した。彼女はニッコリと頷いて俺の後に従った。
レストランに入ると中は少し混んでいたが、俺たちは窓際の席に座れた。ここは足もとまでの大きなガラス窓に覆われて温室のような少し風変わりな設計で、俺は気に入っていた。眼下には忙しく駅を行き交う人たちが眺められ、空には気持ちの良い青空がまだ残っていた。
俺たちは前菜とパスタとサラダ、そして飲み物のついた日替わりコースを注文した。
「あ、ビールでも飲もうか」と俺が言うと、紀子は「うん」と微笑んだ。やがて来た生ビールで紀子と乾杯した。
「久しぶりだね。こうやって紀子と食事をするの」
「本当ね。ご無沙汰しちゃってごめんね」紀子はニッコリ微笑んだ。彼女の笑顔は澄んだ青空のように爽やかだった。愛美のいない今、紀子の笑顔にはとても癒された。
生ハムとテリーヌを中心とした前菜が出てくると、それを食べながら紀子は俺の顔を眺めながら
「ひろし、少し痩せたんじゃない?」と言った。
「ああ、健診で少し中性脂肪が高いと言われたので食事を少し減らしてるんだ」本当は愛美の死で食事が喉を通らなかったのだが、とっさに取りつくろった。
「へー、スタイルが良いのに脂肪が高いの?」
「ああ、母親もそうだから遺伝かな」
これは事実だ。紀子に会えて、久しぶりに食事が美味しいと感じた。空はいつしか夕焼けから藍色になり、店内の座席も半分くらいは埋まってきた。ターミナル駅に近いせいか、あるテーブルは仕事帰り風の若いカップル、その隣は若い女性四人が旅行帰りなのか、大きなバックを床に置いて楽しそうに喋りながら食事をしていた。
「実は私、来月からアメリカに行く事になったの」紀子がパスタに口をつけると言った。
「え…? 突然だね。どうして?」俺は予期せぬ彼女の言葉に驚いた。
「ロサンジェルス在住のベナードというミュージシャンから、一緒に仕事をしないかという打診が来たの。それで最近バタバタしていたの」
「それは凄いね」
「彼がこの冬に来日して私の唄を聴いたら、自分の作った曲に私のイメージがピッタリ合うと思ったんだって。それで、彼の作った未発表曲の中から私の好きな唄を選んでCDにしようというオファーがあったの。若干の不安はあるけど一度しかない人生だから賭けてみようと思う」
俺は少しの間、言いようのない寂しさを感じて絶句した。俺の本音と勝手が言えるなら、今この時期に紀子に去られたくない…
でもこれは彼女にとって千載一遇のチャンスなのだろう。門出を笑顔で送り出してやりたい。いや、そうしてやらねば男が廃る、大人の男ではない、と頭を切り替えた。
「そうか。それは、おめでとう」数秒後、俺は気を取り直して紀子に言った。
「ひろしのお陰よ。人間は社会で生きる以上、人に合わせることは必要だけど合わせてばかりでは自分が自分でなくなる。それよりも自分の思うように悔いのない人生を精一杯生きるべきだと私に思わせてくれた」
「ああ、俺はそう生きたいと思う」
「でも実際のところ、すぐに渡米しても経済的にやっていけない。だからあと半年ほどは日本で働いてお金を貯めようと思っていたの。だからひろしには何も言わなかった」
「そうか…」
「一昨日になって、ダメ元で応募したロサンジェルス市内の日系企業で社員として採用してもらえる事が思いがけず決まったの。それで、来月から急遽あちらへ行く事にした」
「それは重ね重ねおめでとう。…もう少し飲む?」
二人のジョッキは空になっていたので、俺は紀子に訊いた。
「そうね、赤ワインをグラスでもらいましょうか?」
「いいね、そうしよう」
店員が勧めた赤ワインをグラスでもらうと、空はすっかり暗くなり都会の夜景が輝き始めていた。俺たちが選んだパスタ、カルボナーラがサラダと共に出された。卵とベーコンがホワイト・ソースにからめられていて美味しそうだった。
紀子はそれから自分の身の上話を俺にした。子宮癌を患った母親は四十歳で亡くなり、尾張芸術大学を出た後、父親も五十三歳にして膵臓癌で亡くなった。
一人になっていろいろな店を転々と渡り歩いて歌い続け苦労して暮らしてきた。数年して、ようやく歌手として自立できそうになった矢先、世界的な不況が襲ってきて所属会社が倒産して再び店を回る歌手になった。
自分の寿命が両親のように短いのではと不安に怯えながら、でも夢は諦めず自分の歌い方を磨いてコツコツ実績を積み上げてきた。
彼女の話を聞いているうち、彼女がいろいろな障壁を乗り越えて一歩一歩前進し続けてきたんだ、と尊敬に似た感情を覚えた。その紀子が選んだ選択なら、きっと彼女は幸せになれる。彼女の話を聞いていくうちにそんな気持ちが強くなった俺は、紀子が話し終わると彼女のアメリカ行きを心から祝ってやれた。
「もう時間だね」デザートの後、エスプレッソを飲み終わると俺は腕時計を見て言った。
「そうね。じゃあ、私そろそろ行くわ」
「駅まで送って行くよ。今からだとJRの方が早い」
「え? そうなんだ。わたし全然知らなかった。まだまだ知らない事が多いわ」紀子はフフっと小さく笑った。
「いろいろな事を知らないうちに向こうへ行ってしまうんだね」
「本当にそうね。でもまだ十日もあるわ」
「もう手遅れだよ。少なくとも紀子の方向音痴を治すのには時間がなさすぎる」
「ハハハ、そうね」
レストランを出て歩くと、夜のターミナル駅にはまだ人が多かった。
「じゃあ、私はここで」
「ああ、気をつけて」
切符を買って改札を通る紀子を見送った。彼女は改札の向こうから俺を振り返ってニッコリと手を振ると、いつものように振り向かず前だけを見て歩いていった。紀子が階段を降りてホームへ消えていく前に、俺は踵を帰して家路についた。最後の最後まで彼女を見届ける自分の姿は、何処か未練がましいと思えたからだ。俺は紀子を振り切ろうとして足早に地下鉄の駅へ向かった。
その晩、紀子からメールが来た。
「いろいろお世話になって、ありがとう。今日は言いそびれたけど浩も頑張ってね。頑張っている浩の姿は格好いいよ。大好き」
それからの十日はあっという間に過ぎた。ある程度、予想していた事だが紀子とはもう会う時間はなかった。ビザの申請や海外への引越しの用意など海外移住を始める事は、そんなに簡単な事業ではないからだ。
だが、俺はその状況を不思議と静かに受け入れる事ができた。あまりにも衝撃的な事が短い期間に重なって、悟りが開けたように思えた。俺は大人の男になれたのだろうか?
そうこうしている間に彼女の旅立ちの日は刻一刻と迫り、瞬く間に紀子が発つ前夜になった。その夜、俺はどうしても抜けられない接待のため夜の街に駆り出されていた。十一時過ぎに、ようやく店から外に出ると彼女から俺の携帯にメールが送られてきていた。飲んでいた店が地下にあったのでメールを受信したのがかなり遅れてしまったようだった。
「お仕事お疲れ様。今この携帯を解約するためにお店に来ています。だから、この携帯は今から使えなくなります。でもパソコンのアドレスは当分そのままだから向こうでも使えます。たまにはメール下さい。
今まで本当にお世話になって、ありがとう。では」
ちょっと海外旅行に行ってきます、というような感じの軽い文章だった。でも実際には…
先日のイタリアン・レストランでのデートが紀子と会う最後かも、という予感はしていた。あの日の彼女の笑顔が、とても爽やかに輝いていて何処か彼女が達観していたように思えたからだ。あの時のテラス席で夕日を浴びた彼女の笑顔は、とてもすがすがしく美しかった。
紀子からのメールを読んだ俺は、とにかく明日、国際空港へ行こうと思った。何処の空港からどの便で発つのかはわからない。今からではもう紀子との連絡は取れない。でも、とにかく行ってみよう。一目だけでも紀子の姿を見られたら、それだけでいい。もう一度自分の目蓋の奥に彼女を焼きつけておきたかった。
帰宅して風呂に入ってからパソコンを立ち上げた。そしてインター・ネットでロス行きの便の時刻表を調べた。可能性のある便は十二時十五分から十八時まで、サンフランシスコ経由を含めると三便あった。
ハワイを経由する気だったら夜二十時の便がある。だけどこれから海外移住に向かおうとする奴が、いきなりハワイで遊んで行くはずはない。十八時までの便に賭けようと思った。
翌朝、出社するや否や俺は西沢先輩に「今日は外を回ってきます。二十時には帰社します。何かあったら携帯に連絡して下さい」と言った。
「…うん、気をつけて」西沢さんは何かを察したのか、したり顔でうなずいた。俺は脱兎のごとく会社を出て車で国際空港へ向かった。
車を飛ばして街中の喧騒を走り抜けて空港へ着くと午前十時だった。駐車場に車を入れると、俺は空港ビルに駆け込んだ。そして国際線の出発便カウンターをできるだけ広く見渡せるソファを見つけると、そこに座って次々とやって来る乗客に目を配った。紀子の姿はなかった。
十二時十五分発のロス直行便と十三時発のサンフランシスコを経由してロスへ向かう便の乗客が全て出国ゲートに消えても紀子を見つけることはできなかった。次は十八時発の直行便、それが今日の最終便だ。
俺は少し休憩しようと立ち上がってブラブラと空港ビルの中のスーパーへ立ち寄った。しばらく店内を歩き回った後、ジャム・パンとペットボトルの紅茶を買った。
店から外に出て、先ほどのソファに腰を下ろした。食欲は全くなかった。周囲は楽しそうにした観光客が行き交っていた。取りあえず紅茶のペットボトルの蓋を開けて一口飲んだ。ずっと気が張り詰めていたせいなのか、空調のせいなのか、乾いていた喉が潤った。
そこへ会社にいる西沢さんから携帯に電話が入った。
「M社の加藤君がお前に会いたいと、さっき来たんだけど明日にしてくれと言っておいた。明日の朝九時前に来るそうだけど、それでよかったな」
「まさか不良品ですかね?」
「いや、例の遺伝子組み換え大豆に資金提供したい。完成したら販売をウチの社で一手にお願いしたいけど、そういう事が可能かどうかお話を上司と一緒に訊きたいとのことだった」
「それは願ってもない話ですね」
「最近のお前は凄いヤツだよ、ハハ。じゃあ」
「あ、西沢さん…、明日の夜、一杯やりませんか?」
「ああ、いいよ……。何か積もる話もあるようだから聞いてやるよ」
「そんな…、先輩と祝杯を上げたいだけですよ」
「ハハ。じゃあ、また明日」西沢さんが意味深な笑い声を残して電話を切った。
俺は西沢さんに何もかも見透かされているような気がして額から少し汗が出た。でも今の電話で彼に少し元気をもらえた気もした。俺は再びベンチに腰を下ろすと、出発カウンターに来る人々に再び注意深く目をやった。
結局、十八時のロサンジェルス行き最終便の乗客がすべて出国ゲートに消えるまで、俺はまんじりともせず見張っていたが紀子の姿を見つけることは出来なかった。
やはりあの駅で会ったのが紀子との最後のデートだったか……。
少し暗くなり始めた空に最終便が飛び立っていくのをデッキから見送ると、俺は急に空腹を覚えた。そう言えば朝からほとんど飲まず食わずだったのを思い出した。手には昼間に買ったスーパーのビニール袋があった。
そうだ、これを車の中で食べよう。
取りあえず駐車場に戻ると車に乗り込み久しぶりにカーステレオをつけた。このところは時間がなくて音楽という物を全く聴いてなかったので本当に久しぶりだった。
CDのスイッチを入れると菱田紀子の『やさしく歌って』が流れた。曲を聴きながら昼に買ったジャム・パンを食べた。
「キリング・ミー・ソフトリー」と唄う紀子の声が、「私をやさしく口説いて」と切なく訴えるように聴こえた。「アメリカには行かず、俺の近くにいて欲しい」と紀子を求めた方がよかったのか?
いや、本当はそうしたかった。
しばらく聴いていると、今度は愛美が「私をやさしく殺して」と言っているように聴こえた。
本当に君は死んでしまった…
それにしても、二人とも遠くに行ってしまったな…
沖から押し寄せる波のように二人の女性がやってきて、引く波のように二人とも去って行った。
人生や世の中って海のように動いているのかもな…