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四章 流転

 それから慌ただしく一週間が始まった。契約農場で品種改良した稲を育て始めたし、遺伝子組み換え大豆も本格的な種まきシーズンを前に完成が急がれていた。

 夜遅くまで仕事をして、家に帰るとグッタリして寝て、また朝になって出かける日々が三日間続いた。紀子と愛美には火曜日の夜にメールを送ったが、珍しく二人とも返事を送ってこなかった。

この前の土日に二人とも一気に俺との距離が縮まったと思ったのに、今夜は二人から一気に冷たくされたような気がした。やはり俺には二人の女性を同時に愛するなんて器用な真似はできないのかな、と思った。


 木曜日の午後九時前、俺は会社でコンビニ弁当を食べながらコンピューターに向かって仕事をしていた。この夜は本来スイングで紀子の歌を聴いているはずだったが、ネットで確認したら彼女のステージは中止されていたので俺は自分の仕事を片付けるべく残業していた。

 そんな時に愛美から携帯に電話があった。隣のデスクには西沢先輩がまだいたので、俺はオフィスから廊下に出て電話を取った。

「もしもし、いきなり電話なんて珍しいね。あ、この間は御馳走様でした」俺は愛美が電話をくれたことを喜びながらも、周囲に気遣って少し小声で答えた。

「ごめんなさい。少し急いでたものだから。……私さ、白血病になっちゃった」愛美は努めて押さえたように普通の声で言った。だが、俺は電話機を落としそうなくらい驚愕した。

「白血病? いつ?」

「火曜日の仕事中、階段を駆け上ったら貧血で倒れたの。すぐに意識は戻ったんだけど、皆が心配して近くの病院に連れて行かれたの。血液検査を受けたら、完璧な急性白血病ですと宣告されて、そのまま入院しているの」

「大丈夫なのか?」

「明日には日本でも有数の血液内科がある尾張大学病院に転院して、来週の月曜日から抗がん剤による化学療法が始まるの。もしもそれで状態が落ち着いて骨髄移植をすれば助かるかも」愛美は淡々と話した。

 廊下の隅に立って電話している俺の脇を、西沢先輩が手を上げて帰って行った。俺は先輩にひきつった顔でちょこんと頭だけ下げた。

「骨髄移植?」俺は電話機に囁きかけるように、愛美に問いなおした。

「そう。でもHLAという白血球型が一致する人からしか移植を受けられないの。近しい血縁と合致する可能性が高いんだけど、残念ながら私の両親、弟、伯父、叔母、五人いるいとこは全部だめだった」

「つまり、移植できる骨髄提供者の当てがないということだ。……骨髄バンクという組織があるって聞いた事があるけど?」

「それも探してもらったけど現在は該当者なしとの返答だった。仕方ないわね。確率的には数万人に一人くらいしか合致しないそうだから」

「……俺、探す」

「探すって、どこを?」

「とにかく探す!」

 電話を切ると俺は地下の超低温冷凍庫へ、前に愛美から提供を受けた凍結血液と、それから自分を含めた社員や今まで提供を受けて凍結保存してある人々の血液を取りに行った。

 百本あまりある凍結血液を二階の検査室に持ち込んで、自分で片っ端から遺伝子検査をしようと思った。確率は数万分の一であろうと、いても立ってもいられなかった。

まず愛美の凍結血液から白血球を取り出して、その中のDNAを二時間かけて増幅してHLA抗原のバンド・パターンを同定する。縦じまの帯のようなバンドが同定できたのは、もう夜の十二時を過ぎていた。

 それから自分の血液で試してみる。一時間後に出たバンド・パターンは、まったく一致しなかった。その後は手当たり次第、検査を繰り返した。一睡もせず、いや正確には一睡もできずに泣きそうな気分で作業を続けた。検査の合間に自分の仕事も片付けた。


「あんまり無理するなよ。差し入れを持って来た」次の日、金曜日の昼に西沢先輩が牛丼弁当を持って検査室に現れた。

「あ、ありがとうございます」俺は作業を続けながら言った。

「何をしてるんだ?」西沢さんが俺の作業を覗き込んだ。

「ある人と合致するHLA型の人を探しているんです」

「それは骨髄バンクの仕事だろ」

「わかっているんですが、今のところ該当者がいないので自分でも探そうとしているんです」

「…女のためか?」西沢さんが俺の目つきが必死だったのを眺めて少し呆れ顔で訊いた。

「そ、それは…」

「まあ、後悔のないよう頑張ってみろ」

 西沢さんは俺の肩をポンと叩くと立ち上がってニヤリと笑いながら部屋を出て行った。それからも俺は西沢さんのくれた牛丼弁当をかきこみながら黙々と検査を続けた。

 夜が無情に更けたが、土曜日の明け方に奇跡が起きた。愛美と見事に合致する人を発見することができた。俺は思わず「やったあ」と暗く静まり返った検査室で一人声を上げた。

 凍結血液のラベル番号から台帳を引っ張り出して該当者を調べた。絶対に漏れてはいけない個人情報なので、検体名はアナログな台帳にボールペンで記されていた。愛美と同じHLA型を持つ人の名の欄には「菱田紀子」と俺の字で書かれていた。俺は神の与えた偶然の悪戯に大きくため息をついて動けなくなった。


 骨髄移植は提供者も一日入院するくらいの体力的な負担をかける。骨髄採取は一種の手術だ。それにこの事を、どうやって紀子に言おう……。

 十分ほど俺は呆然としていたが、すぐに気を取り直して次の検体の検査に取りかかった。幸いにも週末で、俺は会社で一人になって月曜日の明け方まで作業に専念し全てを検査することができた。だがそれは空しい作業で、会社にあった検体の中で愛美に提供できるのは紀子だけだった。

 月曜日の朝になって出勤してきた西沢課長に、俺は「親戚が危篤なんです」と有給休暇を願い出ると、すぐに俺は愛美の入院している尾張大学病院へ向かった。とにかく一刻も早く、一人の該当者がいる事実を彼女の顔を見て伝えたかった。


「病室は、愛美さんの身体が弱っているため感染予防を目的に個室です。午後からは化学療法も始まりますので、室内ではマスクをして面会はできるだけ手短に願います」と四十歳くらいで小太りの看護師に言われて俺は愛美の病室に案内された。

 病室の前で俺はマスクをして、両手を消毒した。部屋に入ると愛美がベッドの上で蒼白な顔で横たわっていた。白い掛け布団が彼女の顔色の白さを一層きわ立たせていた。

「思ったより元気そうじゃないか」俺は彼女を元気づけようと虚勢を張った。

「ひろし、ごめんね。心配かけて」愛美は白い歯をのぞかせて小さく微笑んだ。

「何を言っているんだ。それより良い知らせがあるんだ」俺は手短にHLA型が愛美と合う人を会社で見つけた。該当者は愛美と同い年の女性だと話した。

「それはどういう人?」俺の話を聞き終わると、病床に横たわる愛美は俺を見て言った。

「…ただの知り合いだ」

「…時々、ひろしの携帯にメールを寄越す人?」

「いや、あれは…」洞察力の鋭い愛美の視線が、俺には痛かった。脇からは冷や汗が滲んだ。

「……私、いい」数秒間、天井を見上げて考えていた愛美が、ふと視線を自分の指に落とすと言った。

「いいって、どういう意味?」

「要らない、という意味」愛美がそう言って、俺と自分自身を言い聞かせるようにうなずいた。

「要らないって、どうして。骨髄移植をすれば助かるかもしれないのに」俺は愛美に思い直すよう哀願に近い気持ちで言った。

「骨髄移植にはドナーにもかなりの負担をかけるわ。そうまでして私が生きるのは神への冒とくのような気がするの」

「そんな…。前に愛美は、本来は死ぬべき人を助けようとする医学は神への冒とくじゃないと言ったじゃないか!」俺は思わず声を荒げた。

「もう何も言わないで。ごめんなさい」そう言うと愛美は白いかけ蒲団を目の高さまで上げて顔を隠した。もう帰って、と彼女の白い指が無言で言っていた。

「今日のところは帰るよ。俺は諦めないから」そう言って俺は立ち上がった。部屋を出る時に「ありがとう」と愛美が俺の背中に言った。振り返ると愛美は蒲団の中に顔を隠したまま泣いているようだった。俺は何も言えず病室を出た。


 それから俺は家へ久しぶりに帰ってベッドの上に横たわった。平日の昼間にゴロゴロするのは何年ぶりだろう。

 その間も俺は頭の中で何度も愛美のことを考えた。どう考えても白血病を克服するチャンスを生かすべきだ。でも……

 紀子にどう言って骨髄を提供してもらおうか?

「知り合いが白血病なので協力して欲しい」と言うと、俺と愛美がどういう知り合いなのか説明しなくてはいけない。単なる知り合いだったら何故そこまでしてあげなくてはいけないのかを整然と説明すべきだ。

 親戚の女性では嘘だし、いずれバレる。下手をするとすぐに露見する。でも…、まさか恋人だなんて本当の事を紀子には言えない。いや、言いたくない。

 いつの間にか俺は眠っていた。白昼夢の中で喪服のような黒い服を着た紀子が、スイングのステージに立って『やさしく歌って』を唄っていた。

「キリング・ミー・ソフトリー」彼女は唄いながら切れ長の目で、一番後ろの席に座って聴いている俺をにらんだ。「やさしく殺して」と紀子が俺に唄っているように聞こえ、俺は金縛りにあったように動けなくなった。なおも紀子は俺をにらみながら唄い近づいてきた。その厚めの唇には暗い紫色の口紅が塗られ、氷のように冷たい笑みを浮かべた紀子が俺に迫って唄を歌った。

 やがて歌い終わった紀子が、動けない俺の胸に飛び込んできた。彼女は凍るような冷たい指を俺にからませて俺を抱きしめた。

 しばらくして俺の胸にいた女が顔を上げると、その女性は愛美に入れ替わっていた。

「私をやさしく殺して」愛美はそう言うと俺の唇に自分の冷たい唇を押しつけてから寂しい目をして微笑むと、ヒラリと身を起して舞台脇の暗闇に去った。俺は動けずそのまま愛美を見送った。


 翌日は仕事を必死に片付けてから五時に退社して、愛美のいる病院に一目散に駆けつけた。大学病院の脇にある小さな公園の桜は、もう大半が散って葉桜になっていた。

 たどり着いた彼女の病室には『面会謝絶』の赤い札が下がっていた。俺は驚いて通りかかった看護師に事情を訊こうとしていると、

「山崎さんですか?」とスーツ姿の青年が俺の背中に声をかけた。

「はい」

「私は井上徹、愛美の弟です」振り返ると涼しげな目元の青年が俺に会釈した。

「あ、あの、はじめまして」愛美の弟との唐突な初対面に俺は少々面食らって、お辞儀をした。

「山崎さんには大変お世話になったと、姉から聞いています」彼は名刺を俺に出したので、俺も自分の名刺を返した。井上徹の名刺には帝都大学、消化器外科学医師という肩書が書かれていた。愛美の弟は東京の外科医だったんだ…

「姉は昨日、抗がん剤大量療法を受けたのですが、今は血球が極端に減って危ない状況です」愛美とそっくりな鼻をした徹は、冷静な表情で俺に告げた。

「危ないと言いますと?」

「悪性の白血病細胞が死滅するか、自分自身の身体が死ぬかという瀬戸際の状態です。対症療法で余命数か月を生きるか、助かるために一か八か抗がん剤の大量療法を受けるかと担当医から訊かれた時、姉は迷わず後者を選びました。姉らしい潔い選択でした」

「……うまくいく確率は?」

「五分五分です。ここを乗り切って骨髄移植に持ちこめると命は助かる。そうなればいいと祈っています」

「…いつ頃その見通しが立つのでしょう?」

「抗がん剤の半減期から考えると三日以内でしょう…。どちらにせよ、今の姉は意識もない状態なので会えません。東京から来た両親も宿泊先のホテルに帰しましたし、山崎さんもどうぞお引取り下さい」

「……」

「姉から貴方への手紙を預かりました」徹は白い封筒を俺に差し出した。俺は黙ってそれを受け取った。

「携帯の連絡先を教えて下さい。結果は必ずお知らせしますから」そう言った徹が俺の名刺を返してきたので、俺はその名刺の裏に自分の携帯番号を書いて彼に渡し直した。

「姉はいい病院に恵まれた。この病院で助からなければ日本中どこへ行っても助かりません。そしていい人にも巡り合えた。山崎さん、ありがとうございました」彼は俺に頭を下げた。俺も返礼した。徹の少し潤んだ眼が「もう帰ってくれ」と言っていたので病院を後にした。


 病院駐車場に停めた自分の車に乗り込んで室内灯を点けると、俺は徹から手渡された封書を開けた。中から愛美の整った字で書かれた青白い便箋が一枚出てきた。

「さっきはせっかく会いに来てくれたのに、ごめんなさい。

今まで本当にありがとう。浩が私のため寝ずに骨髄提供者を探してくれたのは、貴方の顔を見たらすぐにわかった。とても嬉しかったし、貴方みたいなやさしい人と付き合えて幸せだった。

私は今から抗がん剤治療を受けます。上手くいっても髪は抜けて醜い姿になってしまうから浩の前には出られないし、薬が効かなかったら死んでしまうのだから、これが最後の手紙です。

本当は私が死んだら、あの城内公園の桜の木の下に埋めて欲しい。毎年、狂ったように綺麗な花を咲かせて浩を見守っていたい。

でも私は浩の胸の中で病前のままの姿で生きていたい。だから勝手だけど、このままサヨナラと言わせて下さい。

時間がなくて乱筆乱文、ごめんなさい。本当にありがとう。さようなら。

大好きな浩へ」


 思わず俺の目から涙があふれ出た。俺は暗闇に一人で放り出された子供のように、夜が明けるまでその場で、ただ泣いていた。

 そして、夜が明けたら愛美がどんなに醜い姿になっても、どうか助かりますように、と心から祈った。髪くらい抜けたって、俺はお前を嫌いになったりしない。本気でそう思った。


 翌日は朝から必死に仕事をした。そうしていないと、気が狂ってしまう気がした。定時を過ぎても、ひたすら残業を続けた。これでもか、というくらい自虐的に仕事をしていた。

 夜の十一時、見知らぬ携帯番号から俺の携帯に電話があった。愛美の弟からでは?と胸騒ぎがして取ると、案の定、徹だった。

「姉が先ほど午後十時三十八分に亡くなりました。遺体は東京に連れてゆき葬儀を致します。本当にいろいろとありがとうございました」徹は外科医らしく落ち着いて淡々と俺に言った。

「あの…、一目だけでも彼女に会えませんか?」例え愛美が遺体であっても、もう一目だけ彼女を見たいと俺は思った。

「故人の遺志ですので御勘弁下さい。それでは」言うべき事だけ伝えると電話は切れた。

 隣のデスクで残業していた西沢先輩が、心配そうな視線を俺に送った。俺はそのまま何も言わずに帰宅して自室で一晩泣きつくした。あまりにも突然の別離だった。この世に神などいない気がした。


 ようやく涙も枯れた翌朝に、紀子から「ちょっとご無沙汰しちゃってごめんね。明日か明後日の夕方に会いたいけど都合はいかが?」というメールが入った。愛美を失った今、紀子の存在が地獄の中の天女に思えた。

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