二章 ざわめき
「これ、美味しい」約束どおり土曜の夜に俺の部屋に来た愛美は、俺が作ったカレーライスを一口食べて笑顔で言った。
先ほどまで仕事だった彼女は、白っぽいスーツの上着を脱いでいた。少し胸元の開いたブラウスの襟元からは何ともいえない色気が漂っていた。
「口にあってよかった」俺も笑顔でそう言った。
「隠し味に何かを使っているわね」愛美がカレーを食べながら俺に訊いた。
「さあ、何でしょう?」俺がとぼけると愛美はもう一口カレーライスを口に入れて、よく味わうように咀嚼して飲み込んだ。
「わかんない」愛美が降参という表情で言った。
「そうだね。そのうちに教えるよ」
「やだ、いじわるだなぁ」愛美はそう言うとまたカレーを食べた。いつもは外食だが、たまにはこういうのもいいなと思った。
「そのうちに私も何か作るね」愛美は言った。
「ああ、楽しみにしてるよ」
「ひろしの作った無農薬大豆を使って料理ができるといいな」
「無農薬? ああ、例の遺伝子組み換え大豆のことか。愛美は本当にいいと思ってる?」
「ええ、貴方が作ったのだったら例えどうなっても構わない」愛美は恐ろしい事をサラッと軽く言ってのけた。俺の研究している大豆はハエの遺伝子を組み込んで害虫を寄せ付けない作物を目指している。それは確かに画期的な大豆だが、何か大きな問題が起きる可能性も否定できない。
「大切な愛美にそんな事をさせない」
「世に出す時は安全性を充分に確認してからでしょ? 喜んで食べさせてもらうわ」そう言って微笑む愛美を、俺は愛おしく思った。
俺は立ち上がって台所に食後のコーヒーを淹れに行った。豆を引いてコーヒー・メーカーをセットしていると、俺のズボンのポケットに入っていた携帯にメールが着信した。今頃誰だろう?と携帯を見ると菱田さんからのメールだった。
「この間はありがとうございました。実は私の両親は二人とも六十歳前に癌で亡くなっています。遺伝子を調べれば私も将来、癌になるかわかるのでしょうか? もしわかるなら検査を受けてみたいです。変な相談でごめんなさい。お時間のある時に返信して下されば嬉しいです。では」
しばし携帯の画面を見ていると、テーブルを片付けていた愛美が声をかけてきた。
「どうしたの?」
「いや、知り合いが癌の遺伝子診断を受けたいって言ってきた。何でも両親が癌で早死にしているから心配だって」
「うちの研究所でもできるわよ」
「そうなんだ」
「但しわかるのは、今のところ遺伝性がはっきりしている癌だけね。多くの癌は先天的な素因に後天的な要因が積み重なって複雑に起こるから遺伝子検査には限界があるわ」
「もちろんそうだね。愛美はそれを研究しているんだものね。…そうだ、癌遺伝子についての最新情報があれば、うちでもできる」
「そうね。…じゃあ明日にでもまとまった最新情報が載っている文献を教えるわ」
「ああ、そうしてくれるとありがたい」
コーヒーが入ったので二人でテーブルを囲んで飲んだ。豆は繁華街の専門店で買ってきたモカ・ブレンドで、さっき挽いたばかりの豆で淹れたコーヒーからは芳醇な香りがした。
「うん、これも美味しい」愛美は微笑んだ。
「良かった。これは俺の好きな豆なんだ」モカのコクが俺は好きだった。
「ところで癌を調べたい知り合いって誰?」愛美が不意をつくように俺に質問した。先ほど着たメールの相手が女性だと勘づいて妬いてくれるなら逆に大いに脈ありというところだが、人がホッとしたところを詰問してくるなんて女ってしたたかというか怖いなと思った。
「アハハ、一応個人情報ってことで勘弁してくれ。別に隠すわけじゃないけど少し名の通った人なんだ」後ろめたい気持ちではなく、真面目に答えた。
「へー、ひろしには結構すごい知り合いがいるのね」愛美は俺のメール相手が政治家か著名人かと思ったのか、感心したようにうなずいた。俺は彼女の勘違いをそのままにしておいて、菱田さんの結果が何の異常もなかったら追々話そう。でも万一、菱田さんが将来癌になる遺伝子を持っていたら永久に俺の胸に留めておこうと思った。
良い雰囲気のうちに夜が更けた。このまま愛美を抱きしめて押し倒してしまいたいと俺は頭の片隅で思ったが我慢した。まだ愛美が俺をどの程度想ってくれているのか自信がなかったし、若い時とは違って最近の俺は行動が慎重になってきていた。もう情熱や本能だけで突っ走る事もできない年齢になったと思った。そして今夜は更にもう一つ、菱田さんからのメールも俺の情念にブレーキをかけた気がした。
「遅くなったから車で送るよ」紳士的に俺が言うと、愛美は微笑んで「お願い」と立ち上がった。
アパートの隣にある駐車場に停めてあった俺の愛車、黒のトヨタ・オーリスに二人で乗り込んだ。しばらく車を走らせると、「あれ、この道は違うよ」と助手席に座る愛美が言った。
「いや、この先に景色の良い道があるんだ。そちらを回って帰ろうと思ってね」
「へー」
少し上り坂を上がると小高い丘に公園があって、そこからは下に広がる夜の街が展望できた。
「きれい」愛美が言った。
「だろ。普段は気づかないけど意外に近くに綺麗な所ってあるものなんだ」俺は路肩に車を停めて言った。
「そうね」そう答える愛美の手を俺は握ってみた。彼女も俺の手を握り返して微笑んだ。
「近くに綺麗な人もいる」俺はそう言って、今度は思い切って彼女を抱き寄せた。彼女は少し肩をすくめるようにしたが、やがて俺に身を寄せた。俺の肩の前には愛美の頭があった。そのまましばらく夜景を見ていた。
彼女の唇を奪いたい、と思ったが今夜はやめておこうと思った。
「そろそろ送るよ」と車は発進させると愛美をマンションに送り届けた。彼女が住んでいるのは都心の大通り沿いにあるワンルーム・マンションだった。
「今夜は御馳走様でした」車を降りる時、愛美は笑顔でそう言った。片道三車線の道路には車が行きかっていた。
「お粗末様でした」俺は運転席に腰かけたまま言った。
「今度は私が何か作るね」
「ああ、楽しみにしてるよ」
「本当にありがとう。おやすみなさい」
「おやすみ」愛美が降車して扉を閉めると、俺は少し格好つけて車を勢いよく発進させた。バックミラーに映る愛美が小さくなって間もなく夜の闇に消えた。
家に帰ると十二時を回っていたが、俺は菱田さんに返事を打った。
「メールをありがとうございます。感激です。
さて、ご質問の件は当方で出来る限り手を尽くして検査致します。準備に少しお時間を下さい。用意が整い次第、またお知らせします。身体には気をつけて、あまり無理をしないで下さいね。取り急ぎお返事まで。では、おやすみなさい」
彼女は俺とは別世界に住む歌手。返事はないだろうと思って俺は風呂場でシャワーを浴びて、出るとテレビの前のソファに腰かけた。さっきまで愛美がいた雰囲気を大切にしたくて、今夜は何も片付けずにこのまま寝ようと思った。
ふと俺の携帯が光っている事に気づいた。愛美からメールかな?と思って手に取ると、菱田さんから返信が着ていた。予想以上に早い返信に俺は少しワクワクしながらメールを読んだ。
「お忙しいのにお返事をありがとうございます。自分の将来がわかってしまうようで少し怖いのですが、思い切って検査を受けてみようと思います。ご連絡をお待ちしています。山崎さんこそ、御身体に気をつけてお仕事を頑張って下さい。おやすみなさい」発信時刻を見たら、俺が彼女にメールを送ってから十分後だった。俺のメールを見て、すぐに返事をくれたんだ。
「ありがとう。ゆっくり休んで、また素晴らしい歌声を聴かせて下さい。また会えるのを楽しみにしています。おやすみなさい」俺はすぐに返信を打った。
窓の外を見ると空には満月が見えた。この空の下で菱田さんは悩みながら生きているのだろうか?
そう思うとちょっと切なく、早く検査をして安心させてあげたいと思った。
翌週の月曜日はいきなり会議で遅くなった。午後十時過ぎに会社の近くの居酒屋で、さっきまで一緒に仕事をしていた西沢課長と食事をしつつビールを飲んだ。今夜は少し暖かくなったが、明日は一雨くるらしい。
「二人以上の女と同時に付き合う時には、絶対に話が被らないようにしろ。それができないようならするな」西沢先輩は古めかしいが、庶民的な店内でビールを飲みながら言った。
彼は遺伝子操作や診断のプロで理学博士の肩書も持つ切れ者である一方、秘かにジゴロを自称するモテ男だ。俺より四歳年上で妻子もいるが、他にもいろいろと異性関係もある発展家だった。
しかし彼は仕事もできるし、他にいくら女がいても家庭には持ち込まず家族に一切迷惑をかけていない。これは男の甲斐性だと、一向に悪びれる気配はなかった。それに彼は、そんな武勇伝を自慢してふれ回るようなバカな男でもない。出身大学が同じ俺だけに心を許しているのか、折に触れていろいろな話を時には教育的に時に自嘲的に俺に喋った。
俺は愛美と付き合っているが、菱田紀子とも会うことになりそうだったので、ちょうどタイミングの良い話を西沢さんが始めたと思って膝を乗り出した。
「話が被らないようにって、どういう事ですか?」俺が訊くと、西沢さんはおっという顔をして俺を見た。
「お前、二人の女と付き合ってるのか?」西沢さんが悪戯っ子のような眼をして笑った。
「いや、例えばの話です。もしもそういう御身分になれたら、どうするのか? 先輩の実体験に基づいたお話を後学の為に聞いておきたいだけです」
「ふーん。……じゃあ訊くが、お前は悲しくもないのに涙が流せるか?」西沢さんが意外な質問を俺に浴びせた。
「悲しくもないのに泣くんですか…。そんな芸当はできないでしょうね」
「だったら、二人以上の女と同時に深い仲になるのはやめておけ」そう言うと西沢さんは目の前にある韓国風牛スジの煮物を口に入れた。
「先輩は悲しくもないのに泣けるんですか?」俺も牛スジをつまみながら尋ねた。口の中に入れた牛肉がでピリッと辛かった。
「ああ、泣ける。君が好きだ。だけど俺には妻子があるから、これ以上はどうにもならない。本当に好きなのは君だが、俺はマイホームの借金を返済しつつ生活していかなくちゃいけない。と言って泣いて別れてもらう」
「うーん、凄い技ですね。自由に涙を流せるなんて、先輩は役者になれそうですね」
「ハハハ、…でも覚えておけ。女こそ涙を武器にしてくる」西沢さんはそう言って笑うと、生ビールの入ったジョッキをグイと空け改めて話を続けた。
「それに女は子宮で考えると言うけど、確かに理論的に説明できない直感や洞察力がある。だから俺は目の前の相手を常に全力で愛するし畏敬の念も忘れない。その尊敬する女たちの武器の一つである涙を、ほんのたまに逆利用させてもらっているだけだ」西沢さんが話し終わってニヤリと笑うと、彼の携帯がブルブルと震えた。彼は携帯を開いてボタンをガチャガチャ押した。どうやらメールが着たようだ。
「女からですか?」俺は半分あてずっぽで西沢さんに言った。
「ああ。最近知り合ったコなんだけど、相談があると言ってきた。これはいけるな…」西沢さんは素早い動きで返信を打ち始めた。
「いける?」俺が訊くと、
「ああ、女が男に相談したいって言うのは貴方を信頼してます。会いたいですという意味だ。信頼がなければ愛は得られない。でも逆に言うと信頼されれば愛は得やすい。このまま押せば必ずいける」西沢さんが確信するように断言しながら、素早く打ったメールを返信すると俺に微笑んだ。
ふと菱田さんが俺に相談したいと言ってきたメールを思い出した。今の西沢さんの言葉通りなら、俺が押せば菱田さんを落とせるということ?
いやいや、そんな事は西沢さんだから出来る芸当なんだ。第一、俺と菱田さんはまだそんな仲じゃないし、彼女は俺にとって雲の上の女性だ。
「今夜はずっとお前と飲んでいた」西沢さんが急に真顔になって俺に言った。
「え? ああ、後から誰に訊かれてもそういう事にしておきますから、どうぞ女と会って来て下さい」俺は彼の言わんとすることがわかって苦笑した。
「お前も随分ものわかりが良くなったじゃないか。じゃあ、そういう事で宜しく。…ああ、ここは俺が払っておくよ」西沢先輩が伝票を鷲づかみにして立ち上がった。
「俺の話が長引いて朝まで飲んでいたことにしておきます。どうぞ、ごゆっくり」俺は数回会ったことのある西沢さんの奥さんの顔を思い浮かべて言った。彼女は眼鼻の通った美人で愛想も良く、西沢さんはこの女性の何が不足なんだろうと思った。
「ハハハ、じゃあまた明日」西沢さんは高笑いを残して慌ただしく夜の街へ颯爽と去って行った。
西沢さんは仕事もできるし何事においても活動的な人だ。昔から英雄は色を好むと言うけれど、英雄になれるだけの活動力のある人だから、なせる技なんだろうなと思った。そして概して世の中は、女も金も持てる者には何故か集まる気がした。
皿を片づけに来た若い女店員に「梅酒のロック」と注文して、俺は愛美と菱田さんにメールを打った。愛美には今日の昼、約束どおり癌遺伝子の最新文献をメールで送ってくれたお礼と、今度会える予定のお伺いの文章を考えながら打って送信した。
その後、菱田さんには癌の遺伝子検査の目途が立ったので具体的な検査日程を尋ねる内容の文章を打って送信した。二通のメールを、西沢さんの言ったように『話が被らない』ように注意して書いた。
メールを送り終わってからデザート代わりに頼んだ梅酒のロックを飲みほして店を出た。外は春の雨が小ぶりに降っていたが寒くはなかった。
帰宅途中の地下鉄の座席に座って電車に揺られた。コトコトと規則的な揺れは、酔った身体に眠気を誘った。五つ目の駅に着くと愛美から返信が着た。
あなたの役に立てて嬉しい。明後日の夕食を街で一緒にできない?という内容だった。俺は膝の上の鞄からシステム手帳を取り出して日程を確認した。
九時過ぎなら会えると返信した。駅で降りて自分のアパートに徒歩で向かった。駅から家までは十分ほど歩く。
自分の部屋に帰り着くと、鞄をソファに投げ出してスーツとネクタイ、シャツを脱いで風呂に湯を張った。少し酔っていたが帰り道で冷えた身体を温めたかった。
久しぶりにゆっくり風呂に入って出たら携帯が光っていた。画面を確認すると菱田さんから返信が着ていた。
『ありがとう。勝手を言わせてもらえるなら、明後日の夜に時間が取れます。その後は仕事で東京に行って土曜日の夜遅くに帰ってきますから、日曜は昼までなら大丈夫です。検査は平日がいいですか? 山崎さんの御都合を聞かせて下さい。お手数をかけてすみませんが、宜しくお願い致します』
「明後日か…」ついさっき、愛美と会う約束をした日だったので、俺は思わずつぶやいた。どうしたものか…
『明後日の夜だと、残念ながらかなり遅い時刻にしか会えません。明日か明後日の昼間でもいいですよ。検査は血液を十ccほど頂くだけですので、それ程お時間は取らせません。一週間ほどで結果が出ると思います。また返事を下さい。出来る限り菱田さんの都合に合わせます』
二人の女性の都合が被らないように、よく注意しながら文章を考えてメールを打って菱田さんに返信した。数分後、知らない携帯番号から電話がかかってきた。出てみると菱田さんだった。
「夜遅くにすみません。この間、山崎さんが携帯電話の番号まで私に下さったので悪いかなと思ったけど、お電話さし上げました。よろしかったかしら?」菱田さんは恐縮したように、でも切羽詰まったような声で切りだした。
「全然かまいません。むしろ嬉しいくらいです」これは俺の本心だった。
「ありがとう。あなたからのメールを見て、早い方がいいと思って。お言葉に甘えて明日の午前中はどうでしょう?」
「場所にもよりますが、朝九時に会社でミーティングがあるので、その前か昼前の十一時過ぎなら時間が空けられます」
「そう…、十一時過ぎに繁華街近くでもいいかしら?」
「いいですよ。何処で採血しましょうか?」
「そうね……、スイングがいいかなあ。あそこなら昼間はお客さんもいないし」
「いいですね。では午前十一時にスイングで」
「はい、宜しくお願いします。本当にありがとう」
「いえ、菱田さんに会えるのを楽しみにしています。俺は喜んでやっていますから気にしないで下さい」
「そう言ってもらえると少し気が楽になったわ。長々すみません。ではおやすみなさい」
「おやすみなさい」電話を切ると俺はウキウキした気分になった。明日は会社に行って採血キットを持ってスイングに行こう。そうしたらまた菱田さんに会える。しかも個人的にだ。
早く寝ようとベッドに入ったが興奮しているせいか寝つけなかった。菱田紀子のCDを聴こうかと思ったが、ますます興奮しそうな気がしてFMをつけた。
渋いジャズが流れていた。学生時代によく聴いたブルーノート・ジャズだった。思わず部屋にあったウイスキーを出して久々にストレートであおってみた。菱田紀子と愛美の予定がバッティングしそうな危機は無事に乗り切れたし、明日は菱田さん、明後日は愛美に会える。そんな幸福感に酔いながらグラスを重ねるうちに、いつの間にかFMからはヘレン・メリルの『恋に落ちた時』が流れた。
「私が恋に落ちたら、永遠に貴方を愛すわ」菱田紀子が俺に切なく唄ってくれているような気がして胸がキュンとした。
翌日は春の日差しに包まれた。俺は約束通り会社でのミーティングを済ませると、採血キットを入れた鞄を持って慌ただしく繁華街の片隅にある『スイング』へ車で出かけた。道は年度末のせいか混雑していたが、近くのコイン駐車場に車を停めてスイングには十一時十分前に着けた。
昼間に『スイング』を見るのは初めてだった。いつもとは違った気分で入口の扉を開けると、ガランとした店内のテーブル席に菱田紀子がジーンズ姿で腰かけて本を読んでいた。俺を見ると彼女は微笑んで立ち上がり「今日はすみません」と丁寧にお辞儀をした。胸元の開いたシャツから銀色のペンダントが光り、その奥には形のよい胸が垣間見えた。
「早速、採血させて下さい」俺はそう言うとテーブルの上にゴムの駆血帯と注射器を出した。
「何だか緊張します」そう言って菱田さんがシャツの袖をめくって右腕をテーブルに出した。
「次の此処でのステージはいつですか?」俺は彼女をリラックスさせようと話題をそらしながら、駆血帯を彼女の腕に巻きつけた。初めて触れた彼女の腕は柔らかくスベスベして心地良かった。
「来週の木曜です。あ、針を刺す時、言って下さいね」菱田さんは目を自分の腕からそらした。
「刺します」俺はそう言って針を彼女の静脈に刺した。暗赤色の静脈血が注射器の中に勢いよく吸いこまれ、俺はほっとした。もし失敗したら、また彼女に針を刺し直さなければならない。そういう事態が避けられたので単純にほっとした。
採血が終わって駆血帯を外して酒精綿で採血跡を圧迫した。
「一週間以内に結果が出ます」俺は努めて事務的に菱田さんに言った。こういう事は感情を入れずに話した方がいいと思った。
「ありがとう。…検査代はいくらお支払いすればいいかしら?」
「いりません。ただ、お願いがあります」
「何?」
「もしも検査で血液が余ったら凍結保存して、今後の俺の研究に使わせてもらえませんか? 具体的に今すぐ何かに使うわけではありませんが、将来女性の血液を使う研究に少しでも多くの資料が要るんです。個人情報は絶対に特定されないような研究にしか使いません」
「いいわ、山崎さんを信じてる」そう言って菱田紀子は微笑んだ。俺を信じてる…
『信頼がなければ愛は得られない。信頼されれば愛は得やすい』西沢先輩の言った言葉が俺の頭によみがえった。
「来週の木曜には菱田さんの歌を聴きに此処に来ます。で、その後、あの…、また食事に行きませんか?」俺はかなり勇気を振り絞って言ってみた。胸はドキドキと激しく鼓動した。
「いいわよ。その時には私の結果が出てるわね」意外にあっさりと菱田さんが承諾してくれた。
「結果が悪いかもと心配するより、良いと信じて明るく前向きに過ごしましょう。クヨクヨしても楽しくしても結果は同じですから、クヨクヨ過ごすのは損です」俺は彼女に言った。
「そうね、貴方の言うとおりね。よし、じゃあ木曜には祝杯を上げましょう」菱田さんが笑った。
「そうですよ。じゃあ、俺はこれで。これを出来るだけ早く検査に出したいので」
「宜しくお願いします」立ち去る俺の背中に、菱田さんは深々と頭を下げた。
次の日の夜、繁華街のレストランで九時に俺は愛美を待った。何だか最近は仕事も何もかも張り切ってできる。女を愛するっていいものだと思った。明日から菱田さんは東京だなと彼女の楚々として端正な顔と長い黒髪を思い浮かべながら、取りあえず頼んだビールをチビチビ飲んでいると十分程して愛美が現れた。
「ごめんね。待った?」グレーのスーツを着た愛美が慌ただしく俺の前に腰かけた。偶然だが、この日は俺もグレーのスーツを着ていた。
「いや、今ビールを飲み始めたばかりだよ。この間は文献をありがとう」
「ううん、ちょうど先月の専門誌に特集があったからタイミングが良かったわ」そう愛美が言ったところで店員がやって来た。俺は愛美にビールと本日のコースを二人前、注文した。
昨日、菱田さんの血液は馴染みの検査会社に愛美からもらった文献と一緒に「この血液からこの文献に載っている癌原因遺伝子を洗い出して下さい」と注文を付けて渡してきた。
「それにしてもカップルが多いわね」愛美は店内を見回すと、出されたビールを飲んで微笑んだ。
「そう言えばそうだね」
「窓際のカップルなんて並んで座ってイチャイチャしてる。よくやるなー」そう言って愛美は笑った。俺もそちらの方を見ると確かに身体を密着させて仲良くパスタを食べている若いカップルがいた。
「若いからね。愛美は、ああいうのがうらやましいの?」俺は訊いた。
「うん、ちょっぴりね。でもそういう人ができても私は照れくさくてできないね、きっと」
「そうだね。俺も照れくさいよ」
「イタリアの男だったら照れずにやるかもね」
「そうかも。あ、でもイタリア男はマザコンが多いって聞いた事がある」
「へー、そうなんだ」愛美が出てきた前菜のサラダを食べながら口をつぼめて感心したように俺を見た。
「俺の大学院に来ていたオーストラリア女子留学生なんだけどね、交際していたイタリア男に、世の中で一番好きな食べ物は?と聞いたら平気で、ママの作ったパスタって答えた。ショックだったと言っていた」俺は若かりし大学院時代を思い出して話した。
「アハハ、確かにショックかもね。……私はひろしが作ってくれたカレーライスが好き。美味しかった」
「ありがとう。作った甲斐があったよ」
「隠し味に何を使ったのか教えてよ」
「そんな事をよく覚えていたね」
「あれからずっと気になっていたの」そう言って愛美は大きな眼を輝かせた。俺は彼女の瞳に吸いこまれそうな気がした。いや、正確には吸いこまれたいと思った。少し前かがみになった彼女の白いブラウスの胸元から胸の谷間がチラリと見えて色っぽかった。
「実は赤味噌。尾張生まれの俺は赤味噌が好物なんだ」俺の母親がカレーに入れていたのを真似たのだが、ついさっきイタリア男のマザコン話をしたばかりだったので詳しい説明はしなかった。
「そうなんだ。ちょっと思いつかない隠し味ね」東京出身の愛美には考えもつかないスパイスだったのだろう。彼女はとても感心したように俺を見た。俺が考案した料理法だと愛美が誤解しているようだったので、何だか照れくさかった。
料理はパスタ、子牛のスカロッピーニと次々に出された。俺たちは赤ワインをグラスで注文した。
「ここの料理、いけるわね。でも肉料理にかなりガーリックを入れてるみたい。明日臭うかも」愛美が自分の口に手を当てて笑った。最近の彼女はよく笑う。彼女の笑顔を見ていると、俺も楽しくなれる。
「あ、俺、無臭にんにくエキスを持ってる。飲んでおこうよ」俺はシンプルな黒のビジネス・バッグに入れてあったプラスチックの小瓶を出した。
「ガーリックを食べて、にんにくエキスを飲むの?」愛美が怪訝な顔をした。
「ああ、無臭ニンニクには大抵スコルヂニンと言う成分が入っていて特有の臭いを消しているんだ。発見したのは確か日本人だよ。これを摂るとニンニクの臭いがある程度消える」そう言って俺は小瓶から無臭にんにくエキスの錠剤を二粒出して、一つは自分で飲み、もう一つは愛美に手渡した。
「へー、毒には毒をもって制す。ニンニクにはニンニクをもって制すのね。さすがひろしは農学博士ね」愛美も錠剤を口に含んで水で飲んだ。
「でもニンニクで精力がつきすぎて眠れなくなったらどうしよう」愛美がそう言ってまた笑った。
「朝まで語りあかそう」酔っていたせいか俺は大胆な事を澄まして言ってみた。
「うーん、夜明けのコーヒーをひろしと飲むのも悪くないわね」愛美も酔っているのかサラッと答えた。俺は愛美をベッドの上で抱き合う姿を想像してしまったが、「でも明日も早朝から仕事だから、またの機会にね」と愛美が言ったので、ベッドの妄想は頭の中から消した。
食後にはドルチェと紅茶を頼んだ。
「ひろしはコーヒーが好きなのに紅茶でいいの?」出てきたドルチェはティラミスに生クリームが乗り、脇にはイチゴが彩りを添えていた。一緒に紅茶も出てきた。
「本当はエスプレッソを飲みたいところだけど、今から眠れなくなると嫌だから紅茶にした。…明日の仕事を考えて今夜は守りに入っているのかな」と俺が苦笑すると、愛美は可笑しそうに笑って答えた。
「それは良い考えね。三十にもなると、人間は守りに入るのかもね」
「俺はまだ三十になってない」
「もうすぐ三十歳でしょ。同じようなものよ」と言って三十歳の愛美はまた笑った。食事が終わると店を出て愛美と手を繋いで地下鉄の駅に向かった。もう十一時を回っていた。
いつものホームで地下鉄を待った。今日は俺の乗る列車が先に着た。
「また週末に会えるかな?」俺は愛美に訊いた。
「うん、土曜日はまた仕事なんだけど日曜は空いてる。ひろしは?」
「俺も土曜日は仕事。じゃあ、日曜日に朝から何処かへ行こう」
「…お花見なんかができるといいなあ」
「グッド・アイディアだ。車で迎えに行くよ」
「わー、楽しみ。また連絡して」
「ああ」俺が地下鉄に飛び乗ってそう答えた時、列車のドアが閉まった。俺たちは小さく手を振り合うと、俺を乗せた列車が発車した。お互いの姿が見えなくなるまで手を振り合った。