一章 はじまり
一章
「浮かない顔をしてどうしたの?」
俺の一歳年上で三十歳の井上愛美が、大きな眼を輝かせて俺の顔を覗き込むように訊いた。彼女は東都薬科大学を出て大手製薬メーカーである第三製薬の研究開発部門、尾張工場に勤務していた。
「わかっちゃったか。まなみの洞察力って鋭いね」俺は思わず苦笑した。俺、山崎浩は地元の国立尾張大学農学部の大学院を卒業してから、バイオテクノロジーの新興中小企業、中央バイオに勤めるサラリーマンだ。もう就職して五年たち、二十九歳になる。最近は遺伝子組み換え作物の開発に携わっていた。
俺たちは尾張市の繁華街にある和食屋で、遅い夕食を摂っていた。店内はボックス席が一つ一つ薄い板壁で区切られて小さな二人の空間を作っていた。隣はサラリーマンが四人が賑やかに飲んでいるようで、反対側は男女二人が静かに飲んでいるようだった。
愛美とは一年前に、日本遺伝子細胞学会の遺伝子診断の技術を習得するワークショップで一緒に学んで知り合った。彼女は癌の原因となる遺伝子について研究する仕事に従事していた。
もし癌の原因遺伝子を突き止めることができれば、癌を制圧する薬を作り出す有力な足がかりになる。多くの製薬メーカーや研究者が血眼になって無数の遺伝子から、癌を作り出す『犯人』になる遺伝子を探していた。
しかしヒトの遺伝子は星の数ほどあって、その中から原因になっている遺伝子を突き止める作業は砂漠の中から一本の針を探し出すような途方もない大仕事だった。
一方の俺は、遺伝子を組み換えることで害虫のつかない作物を開発していた。この仕事を成功させれば、農薬の削減と同時に作物収穫量も増加させ得る画期的な事業になる。二人とも、人類の明るい未来と夢を創造するような仕事をしていて充実していたが、それだけに日々の生活は多忙だった。
「ハエって害虫が寄り付かないじゃない?」俺は目の前に座る愛美にそう言った。
「確かにハエに害虫がたかっている姿は想像すらできないわね」愛美は梅酒のロックのグラスの氷を揺すってカラカラと音を立てた。腕時計の針は午後十時を指していた。
「内密の話だけど、ハエの遺伝子を大豆に組み込もうというプロジェクトが動き出しているんだ」俺は企業秘密の話に、思わず声を落として言った。
「へー、私なんかには思いもつかない面白い発想ね」愛美は感心したように頷くと、持っていたグラスから梅酒をチビリと飲んだ。
「確かに発想としては面白いよ。だけどハエの入った大豆ってさ…、何だか気持ち悪くない?」そう言うと俺は目の前にある枝豆をつまみ上げて口に入れた。この豆にハエの遺伝子が組み込まれていると想像したら、少しおぞましい気がした。
「アハハ、何も大豆にハエがまるごと入ってるわけじゃないでしょ。全然問題ないじゃない。やだな、ひろしは…、本当に理系?」愛美は形の良い唇から白い歯を覗かせて可笑しそうに笑った。
「いや…、この前までやっていた防虫ハーブの遺伝子を大豆に組み込む作業とは違ってさ、何だか神が造りたもうた物を、そんな形に造り変えるなんて…、神をも恐れぬ行為、神への冒とくのような気がするんだ」俺がそう言うと、愛美は笑うのをやめて俺に向き直った。
「じゃあ、医学はどうなの? 本来は死ぬべき人を、神の定めに逆らって助けようとするじゃない。それも神への冒とくなの?」それほど酒に強くない愛美は目元を薄らと桃色に染めて言った。
「…いや、そうとは言えない」俺は少し考えてから答えた。なるほど、愛美の言う事はまったく間違っていない。癌の制圧という事業の一翼を担っている彼女の、至極もっともな意見だと思った。
「ひろしの仕事が成功してさ、その大豆が途上国にも普及できるようになったら地球上にいる多くの餓死者が救えると思う。素晴らしい仕事じゃない。自信を持って前に進むべきよ」愛美はそう言うと俺の眼を見つめて頷いた。
「…そうだな。そうしてみるよ。そもそもこの仕事が成功するかどうかもわからないのに、俺は何をウジウジ考えてるんだろうね」俺は苦笑して麦焼酎のお湯割りをグイと飲んだ。
「そう、その意気よ」愛美はそう言うとまた微笑んで、皿に残っていた手羽先を両手で口に運んだ。
食事が終わって外に出ると、三月になったと言うのに寒い風が吹いていた。どちらからともなく二人で手をつないで地下鉄駅に向かった。学会で知り合った後、俺たちは月に一回くらい食事を一緒にして話し合う仲になったが、最近は週に一回は会っている。俺は愛美といると安らげて楽しかったし、きっと彼女もそう感じているのだと思う。二人の距離は少しずつ縮まっている気がした。
繁華街は、このところの景気の低迷で夜が早いようだ。ブラブラ飲み歩く人よりも、帰路につく人の方が多かった。
「結婚って考えた事ある?」俺の右を歩く愛美が前を見たままで言った。不意に吹いてきた春風で彼女の白いコートの裾がはためいた。
「…そうだね。も うそろそろ考える年齢だね」俺は、初めて彼女から聞く結婚という単語に少々ドキッとしたが、声は平静を装ってそう答えた。考えてみると俺も今年の七月には三十歳になるなぁと思った。
「まなみはどうなの?」去年の十月に三十歳になった彼女に俺は質問した。
「そうだね。私はとっくにそういう事を考えるお年頃…、いや、もう過ぎているかも、アハ。同級生の大半は結婚しちゃったし、早いコは小学生の子供までいるわ」愛美は俺を見て微笑んだ。彼女の色白の顔に光る瞳が綺麗だった。彼女に今まで恋人がいなかったとは思えないが、過去の話は相手が喋るまで訊かないでおこう、それが大人の男だと俺は思った。
「どういう人と結婚したい?」俺は彼女の真意を測りつつ訊いた。
「そうね…。私を理解してくれて愛してくれる人。…ひろしは、どんな人と結婚したい?」愛美は悪戯っぽい目で笑った。
「そうだなあ。まなみと同じになっちゃうけど、俺を理解して愛してくれる人」
「やっぱり自分を理解してくれる人がいいよね」愛美は小さくうなずいた。俺は愛美を理解しているつもりだけど、愛美はどう考えているのだろう?
そう思ったが言葉には出さなかった。歩きながらではなく、ちゃんと話し合っている時に訊こう、と思った。階段を下りて着いた地下鉄の駅は混んでいた。俺たちはホームで反対方向の電車に乗るため別れ別れになる。定期券を改札機に入れて通り抜けると、
「今度の週末は会える?」と俺は愛美に訊いた。
「うん、土曜も仕事だけど夜なら大丈夫よ」
「俺も仕事があるけど夕方に終わる。じゃあ…、俺の部屋に来ない? 何か作るよ」俺は思い切って愛美を誘ってみた。
「わぁ、それは楽しみね。何を作ってくれるの?」嬉しそうな顔をして愛美が俺に訊いた。その笑顔を見て、俺は勇気が要ったけど誘ってみてよかったと思った。
「そうだな…。カレーライスでもいいかな?」正直に言えば俺はほとんど自炊しないので料理には自信がない。ずっと昔に作った事のあるメニューを口走った。
「カレーは大好きよ。楽しみにしてるね」ホームに風を切って愛美の乗る電車が入って来た。
「またメールしてね」愛美が肩まである髪をかきあげて言った。
「ああ、また連絡する。あ、失敗したらレトルトのカレーになってるかも」
「アハハ、かまわないわよ。おやすみ」愛美は笑顔で答えると地下鉄に乗り込み、こちらを向いて手を小さく振った。ホームに残った俺は、声を出さず口だけで『おやすみ』と言って手を振った。間もなく愛美を乗せた地下鉄は扉を閉じて、ゆっくりと走り去った。
列車が見えなくなるまで見送ると、反対側のホームに俺の乗る列車が到着した。人の波と共に列車に乗ると吊革につかまる。列車が走りだすと、すぐに車窓は暗闇に包まれた。
俺の頭に愛美の顔がフラッシュ・バックした。彼女の口から出た『結婚』という単語も頭によみがえった。
「結婚か…」俺は思わず小さくひとり言を言った。周りは地下鉄の轟音で俺のひとり言は誰にも聞こえない。愛美と一生を共にすることは想像もつかないが、悪くない気がした。
「前向きに考えてみるか」俺のひとり言はまた地下鉄の轟音でかき消えた。
翌日は取引先の中堅食品メーカーの幹部二人から、繁華街の中華料理屋で打ち合わせを兼ねた接待を受けた。俺の四年先輩の西沢課長と二人が招待され、三時間ほど仕事の話を交えて食事をした。俺たちはこの会社と稲の品種改良に取り組む共同研究をしていて、美味しい上に育てる手間を省ける品種はすでに完成段階で座も明るかった。
食事会は無事に終わり、十時前に解散した。少し前までは食事後、必ずと言っていいほどクラブやスナックなどで飲んだそうだが、昨今は経費節減のために二次会は滅多にない。
店を出て西沢課長と別れた俺は、近くにある『スイング』というジャズ・バーへ寄ることにした。スイングは規模としては小さいが老舗のジャズ・バーで、大学の頃、先輩の影響を受けてジャズを聴き始めてからたまに来ていた。ここのカウンターでバーボンをあおって強い煙草をふかすのが大人の趣味だと先輩から教えられ、そう思っていた。通っているうちにジャズが好きになり、自宅でもCDを買って聴くようになった。今では俺の数少ない趣味の一つになっていた。
今夜は菱田紀子という俺のお気に入りの歌手が唄っていることをネットで見て知っていたので、接待の二次会がなければ聴きに寄ろうと思っていた。
重い木の扉を開けると、学校の教室の三倍くらいのスペースの店内の席は七割くらい埋まっていた。菱田紀子はステージですでに唄い始めていた。聞き覚えのある唄だったが曲名はわからなかった。でも彼女の歌声は俺の耳に心地良く響いた。
薄暗い店内で一番後ろの二人掛けの席が空いていたので、俺はそこに静かに座ると間もなく黒服のボーイが寄って来た。
「マッカラン…、いや、ニッカ黒の水割り」俺は小声で注文した。昨日の愛美の言った結婚という言葉で、これから少しは節約して結婚資金でも貯めようかと思った。所帯じみたという言葉にはまだ現実感がないが、結婚して家庭を持ったら嫌でも実感するのだろうなと思った。
今夜の菱田紀子は黒くて長いドレスを着ていた。間もなく彼女は二曲目のバラードを唄い始めた。眼を閉じて聴いていると彼女の歌声は、『ニューヨークのため息』と言われたヘレン・メリルという歌手に似た雰囲気で、時に甘く切なく時に力強い美しさを持っていて俺は気に入っていた。
一年前に初めて此処で彼女の歌声を聴いた俺は、帰宅してすぐにネットのCDショップで彼女のアルバムを探し回った。菱田紀子はこれまでに二枚のアルバムを出しているようだったが、いずれもマイナーなアルバムで在庫を持っている店を見つけるのに苦労した。パソコンの前で一時間ほど粘り、やっと一枚だけ見つけて購入した。数日後に宅配便で届いた彼女のアルバムは俺の期待通りで、どの曲も心に染みて何度も繰り返し聴いていた。
菱田紀子はこの尾張市郊外にある尾張芸術大学出身のせいか、スイングでは月に三日は唄っていた。テーブルに置いてある予定表によると、今夜は六曲を三十分ほど唄う予定のようだ。今はロバータ・フラックの大ヒット曲、『やさしく歌って』を彼女の独特のジャズ風な歌い方にアレンジして唄っていた。彼女は小編成のバンドを従えて流暢な英語で「キリング・ミー・ソフトリー」と歌い続け、それを俺はうっとり聴いていた。
『歌詞を直訳するとやさしく歌ってではなく、やさしく殺してだな』と思いながら、聴こえる彼女の声は俺の魂を揺さぶる何かを持っていた。彼女の切れ長の目は俺の方に向いていて、俺に唄ってくれているような気がした。
最後に彼女はスティービー・ワンダーのアズをジャズ風に唄った。
「私はいつも貴方を愛してる… いつも、いつも…」
彼女はリズムに乗って繰り返し繰り返し英語でそう唄った。俺は愛美を思い浮かべながら手拍子を打って唄を聴いた。菱田紀子は楽しそうに唄い終わると、客席からの拍手に包まれてステージを終えた。
菱田紀子が下りると、少し明るくなった店内を見渡すことができた。店内はいつの間にかほぼ満員になっていた。十分ほどの休憩で楽団のメンバーが入れ替わってトランペットの有名奏者、向井収が壇上に上がった。彼は十年ほど前まで日米を渡り歩いて活躍した、知る人ぞ知る名トランペッターだ。
再び店内が暗くなるとスポットライトを浴びた向井が十八番の『スターダスト』を吹き始めた。店内は大きな拍手と歓声に包まれた。朗々と吹くトランペットを、俺は幕間に追加注文した二杯めの水割りを片手に聴いていた。
「ここ、いいかしら?」後ろから聞き覚えのある女の声がした。振り向くと薄暗がりの中を、さっきまでステージで唄っていた菱田紀子が微笑んで立っていた。
「ど、どうぞ」黒いドレスの上から黒っぽい上着をはおりロングヘアを後ろに結んでいたが、その女性は間違いなく菱田紀子だった。
「ありがとう」と微笑んで彼女はフワリと俺の前に座った。その様は天女が舞い降りてきたようで、俺は夢でも見ているのかテーブルの下で自分の膝をつねってみた。が、間違いなく現実だった。
「最近よく聴きに来てくれていますよね」ジンジャエールを注文した菱田紀子が再び俺に微笑んだ。
「はい、貴女のファンです」
「ありがとう」そう言うと彼女はグラスを片手にステージの向井を見つめた。間近で見る菱田紀子は格好いい大人の女性だった。
それから三十分ほど、俺は夢見心地で向井収のトランペットを菱田紀子と一緒に聴いた。彼の演奏は素晴らしく、終了後はしばらく拍手が鳴り止まなかったが、店内が明るくなると客のざわめきも静まった。
「こんな風に向井収を聴けるなんて夢のようです」俺は前に座る菱田紀子に言った。俺の頬は紅潮していたに違いない。
「フフ、私も久しぶりにゆったりとした気分で彼の演奏を聴けたわ」
「あ、俺、山崎といいます」俺は取りあえず彼女に自分の名刺を渡した。
「ご丁寧にありがとう。……中央バイオって、何の会社なんですか?」菱田さんが俺の名刺を見ながら尋ねた。俺の勤める会社は、規模は小さいし知名度も低い新興企業だったので初対面の人からは大抵そう訊かれる。
「遺伝子を扱うバイオ関係の会社です」俺は答えた。
「遺伝子? じゃあDNA鑑定とかするんですか?」
「DNA鑑定はできますが……、ひょっとして菱田さんはミステリーのファンですか?」
「そうよ」菱田さんが照れくさそうに肩をすくめた。
「今は遺伝子組み換えを主にやっています」俺は言った。
「面白そうなお仕事ね」
「はい、面白いです」そう俺が答えると、菱田さんは微笑んで、
「今から少し食事に行くんだけど、山崎さんはお腹がすいていませんか?」と言った。彼女の思いがけない申し出に、俺は天にも昇るような気がした。
「も、もちろん、喜んでお供します」
「近くに小料理屋があるの。そこでいい?」
「はい」
俺たちは立ち上がってスイングを出た。少し冷たい風が吹いていたが、高揚した気分の俺にはむしろ気持ちよく脚はフワフワと宙を浮いているようだった。
繁華街の通りを五分ほど歩くと、「ここの三階よ」と菱田さんが小さな白いビルの前で立ち止まった。中に入ってすぐの小さなエレベーターに二人で乗ると、菱田さんは百七十二センチの俺と肩を並べる身長があることに気づいた。
「菱田さんって背が高いんですね」
「ごめんね、大きい女で」彼女が俺の眼の前で微笑んだ。彼女の年齢は公式発表によると俺の一歳上、つまり愛美と同い年のはずだ。三階に着くと彼女は先に立って、『小雪』と看板を出している店に入った。
「いらっしゃませ」店内は十人ほど座れるカウンターがあり、中では中年の小奇麗な女性が二人で働いていた。向かって左側の席には四人連れのサラリーマン風の男たちが食事をしながら飲んでいた。
「のりちゃん、久しぶり」カウンターの中で、白いセーターに白いエプロンをした女性が俺たちに右端の席を勧めて、おしぼりを出して微笑んだ。
「少しお腹がすいたの。そこのボードに書いてある四品コースをお願い。山崎さんは?」おしぼりで手を拭きながら菱田さんは右に腰掛けた俺に訊いた。
「俺もそれでお願いします」中華のフルコースを食べてきたが、カウンターの前に下がっているホワイト・ボードに前菜、刺身、煮物、焼き物と書いてある四品くらいなら食べられそうだった。
「飲み物は?」菱田さんが目の前にある飲み物の入った背の高い透明な冷蔵庫を見ながら訊いた。
「取りあえずビールを」と俺が答えると、彼女も笑って「取りあえずビールってオジ様方の決まり文句みたいだけど、私も」と店員に言った。
エビスの小ビンとグラスが二つ、俺たちの前に置かれた。俺がビールを二つのグラスに注いで乾杯した。
「君の瞳に乾杯」俺が菱田さんの目を見て乾杯すると、
「キザなセリフね」と彼女は笑って一口ビールを飲んだ。俺は半分ほどビールを飲んだら、菱田さんがお酌をしてくれた。間近から改めて見る彼女はスリムな身体つきだが、出るところは出てセクシーで良いスタイルだった。美人歌手と一緒に飲めるなんて俺はとても幸せな気分だった。
「カサブランカっていう映画を知ってます?」俺は菱田さんに訊いた。
「名前だけは知っています」彼女は小首をかしげて答えた。
「古い白黒映画なんだけど、それはそれは傑作だと思います」
「へー」
「ハンフリー・ボガードというイケメンが主役でキザなセリフを連発するんだけど、いちいち決まっていてちっとも嫌味じゃないんです」
「君の瞳に乾杯!も彼のセリフなの?」
「そのとおりです。でもね……、彼は本当に好きな女性のためだったら自分を捧げられるんです。男の中の男!って感じで、俺はとても憧れているんです」
「好きな女性のために自分を捧げる……。素敵だなぁ。山崎さんってロマンティストねぇ」菱田さんは頬杖をついて遠くを見た。切れ長の彼女の黒い瞳が物憂げに潤んでいて、何とも艶やかだった。
前菜と刺身の上品な盛り合わせは美味しかった。カウンターの中の『ママ』と呼ばれている白いエプロンの女性が菱田さんの前に立ってお酌をした。
「のりちゃん、最近はどう?」ママが言うと菱田さんは、まあまあねと短く答えてビールを勢い良く飲み干した。
「ビールの次はこれね。何か悩んでる?」ママが麦焼酎と氷を満たした新しいグラスを出してきて微笑んだ。
「別に…」菱田さんは少しうつむき加減にグラスを受け取った。
「あなたが此処に来るときは何かにつまづいた時が多いから。まぁ、美味しいものでも食べて元気を出してね」ママが笑顔で菱田さんのグラスに焼酎を満たした。
「ありがと」菱田さんはそれを一口飲んで力なく笑った。俺もママから同じ焼酎を水割りにしてもらうと、先客たちが帰る様子でママは彼らを見送りに席を外した。
「何かあるんですか?」俺は菱田さんに訊いてみた。
「うん、こういう商売は浮き草稼業なので、いろいろあるのよ。……ねえ、私ってどういう女に見える?」
「大人の魅力的な女性に見えます」
「でも実は勝手な女なの」菱田さんは向き直って俺の目を見て言った。
「…人間は勝手な部分を誰でも持ってます。でもそれは悪い事ばかりじゃない」
「そうかしら?」
「そうです。例えば俺のやっている仕事なんて、自然界の法則に逆らって人類の勝手な都合だけで遺伝子を組み替えているんです。でもそれで幸せになれる人が大勢いると信じるからこそ、俺は仕事にやりがいを感じているんです」
「なるほど……」
「それに人間って、たまには勝手に振舞わないと息が詰まってしまいますよ。社会で生きる以上、人に合わせることは必要だけど合わせてばかりでは自分が自分でなくなっちゃう気がしませんか」
「言われてみればそのとおりね。…あなたって優しいのね」菱田さんは表情を崩すと、再び前を見て焼酎を飲んだ。
店を出たら十二時だった。
「今日はありがとう。また会えるかしら」菱田さんが夜の街を歩きながら言った。
「もちろん、喜んで」俺がそう言うと、菱田さんはバッグから携帯を出して「アドレス交換しましょう」と微笑んだ。
俺は彼女の携帯に赤外線通信で自分の携帯番号とメール・アドレスを送った。菱田さんは自分の携帯の画面で俺のアドレスを確認すると「私のアドレスは後で送るわ」と微笑んだ。一陣の春の夜風が舞った。
「私はここから歩いて帰るわ。山崎さんは?」
「俺は地下鉄で帰ります」
「じゃあ急がないと。もう終電の時刻よ」
「はい、じゃあここで」
「今夜はありがとう」
「いえ、こちらこそ。とても楽しかったです」
「私もよ。またね」
「はい、じゃあまた」俺は踵を返して地下鉄の終電に急いだ。ふと振り向くと菱田さんの姿はもう消えていた。
愛美といい感じになってきたと思ったら、今度は菱田紀子が天女のように夜陰から忽然と舞い降りてきた。こんな夢みたいな事が続けてあっていいのだろうか?
俺は舞い上がるような幸福感を、かみ締めるように帰路を急いだ。