↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

かすり傷ばかり縫わせた元婚約者へ。うちの診療所は予約制です

掲載日:2026/11/06

 夜更けの裏庭で、私は針に糸を通した。


「動かないでください、レオン様。縫い目が曲がります」


「大げさだな。かすり傷だよ」


 婚約者のレオンハルト・グレイスは、騎士団の副団長だ。今夜の演習で、肩から肘にかけて長い裂傷を負っていた。深さは指の第二関節ほど。血はまだ止まりきっていない。


 それをかすり傷と呼べる人は、よほど痛みに鈍いか、よほど私を信用しているかのどちらかだ。たぶん、その両方だ。


 私、ミレイユ・オーベルは、子爵家の三女。亡くなった祖母が外科医で、私は幼いころから、祖母の針と糸を見て育った。


 傷を洗い、縫い、包帯を巻く。それを、この二年間、月に三度は繰り返している。


「はい、終わりです。一週間は剣を握らないでください。熱が出たら、すぐに来て」


「分かった、分かった」


 レオンは立ち上がって、肩を回した。まだ痛むだろうに、平気な顔をしてみせる。


「ミレイユ。実は、話があるんだ」


「何でしょう」


「君との婚約を、白紙に戻したい」


 私は、手にしていた鋏を、静かに盆に置いた。


「理由は?」


「君は、いつも血と薬の匂いがする。令嬢らしくない。団長夫人や、貴族の奥方たちと茶を飲む場に、君を連れていけない。それに」


 彼は、少し言いにくそうに続けた。


「僕の傷を、毎回縫ってくれるのはありがたい。でも、大げさなんだよ。たいした傷じゃないのに、薬だの消毒だの、安静だの。僕は騎士だ。これくらい、放っておいても治る」


 放っておいて治る傷と、放っておいて治らなかった傷を、私は何度も見てきた。


 祖母の診療所で、膿んで腕を失った患者たちの顔を、まだ覚えている。


「レオン様。縫った傷が、化膿しないよう、毎日洗ってください。熱が出たら必ず」


「分かったって。君の心配は、もう結構だ。これからは、令嬢らしい婚約者が、そばにいてくれる」


 彼の言う「令嬢らしい婚約者」は、侯爵家の三女、セラフィーナ嬢のことだった。先日の茶会で、彼の隣に座っていた人だ。


 私は、息を吸った。


「分かりました。婚約は解消します」


「やけにあっさりだな」


「ええ。決めていたことがありますので」


 私は、使い終わった針を、小箱にしまった。


「私は、診療所を開きます。祖母の家を継いで。令嬢らしくなくて、結構です」


  *


 祖母の診療所は、城下の北のはずれにある。石造りの古い建物で、屋根の瓦が三枚ほど落ちていた。


 父は反対した。「子爵家の娘が、人の傷を縫う商売など」と。


 けれど、私は譲らなかった。婚約破棄で失ったものは、何もなかった。むしろ、胸の中に空いた場所に、やりたいことがぎゅうぎゅうに詰まっていた。


 診療所の再開にあたって、私が最初に決めたことは、一つだった。


 予約制にする。


 祖母の時代は、朝から晩まで患者が押し寄せ、診察室の前は戦場だったと聞く。重い傷の人が、軽い人に押し出される。待合室で熱を出した子供が倒れる。そんなことを繰り返してはいけない。


 私は、受付に台帳を置いた。


 緊急の患者は、予約なしで最優先。それ以外は、事前に予約を入れてもらう。来院したら、まず私が三十秒で状態を見て、重い順に並べ直す。


 「重症度で順番を決める」という規則を、診療所の入り口に大きく掲げた。


 最初の一週間は、誰も来なかった。


 二週間目に、近所の女の子が、火傷をした手を持って泣きながらやって来た。私は、その日の午後の予約をすべて後ろにずらして、手を冷水に浸し、軟膏を塗って包帯を巻いた。


 翌日、その子の母親が、卵を十個持って、お礼に来てくれた。


 その噂は、一か月で下町じゅうに広まった。


  *


 診療所を始めて三か月で、予約帳は二週間先まで埋まるようになった。


 隣の薬屋の青年、トマスは、毎朝、薬草の籠を持って顔を出してくれた。ひょろりとした背の高い人で、いつも袖に草の汁がついている。


「ミレイユ先生。今朝は、ヤナギの皮が良く採れましたよ。痛み止めに」


「ありがとうございます。トマスさんの煎じ薬、患者さんに評判がいいです」


「いやあ、僕はただ、先生の処方通りに作っているだけで」


 彼は照れて頭をかいた。薬草の欠片が、髪から落ちた。


 その日の午後、診療所の扉が、乱暴に叩かれた。


 入ってきたのは、レオンハルトだった。


 右腕を左手で押さえ、顔が赤い。額に汗が浮かんでいる。


「ミレイユ。助けてくれ」


 受付の若い女の子が、慌てて立ち上がった。


「失礼ですが、ご予約は?」


「予約? 僕はレオンハルト・グレイス、騎士団副団長だぞ。ミレイユを呼んでくれ」


「当診療所は、予約制です。緊急の方は、ご状態をまず確認しますので、こちらへ」


 私は診察室から出て、レオンの前に立った。


 三十秒で、見た。


 腕の腫れ、熱の高さ、顔色、呼吸、そして肩の傷の周囲の色。


 化膿している。ただ、全身に回る手前の段階だ。急がなければならないけれど、命に別状があるほどではない。


 待合室には、先に来ていた患者が四人。熱で震える子供が一人。杖をついた老婆が一人。指を挟んだ職人が一人。そして、先ほど産気づいた女性が、奥の部屋で助産婦に付き添われていた。


「レオン様。診察は、子供と、お産と、お年寄りの後になります。二時間ほどお待ちください」


「二時間?! 僕は怪我人だぞ!」


「ええ。あなたの傷は、中等度の化膿です。あの子は高熱で、お産は今まさに始まっています。順番は、そうなります」


「ミレイユ! 僕とお前の仲だろう!」


「元婚約者と、診療所の患者は、別です」


 私は、はっきり告げた。


 待合室の隅から、杖をついた老婆が、のんびりした声で言った。


「あんた、順番だよ。ここでは、みんなそうしてんだ」


 レオンは、真っ赤になって、口をぱくぱくさせた。


 それでも、彼は結局、長椅子の端に座った。熱のせいで、立っていられなかったのだ。


  *


 二時間後、私は彼の腕を診た。


 傷口は赤黒く腫れ、膿が溜まっていた。縫合の糸の周りが、ひどく熱を持っている。


 「毎日洗ってください」と言ったのに、洗わなかったのは、一目で分かった。


「膿を出します。痛みますよ」


「頼む……」


 切開して、膿を流し、傷を洗い、消毒した。レオンは歯を食いしばって耐えた。額には、玉の汗。


 処置が終わったとき、彼は小さな声で言った。


「……ミレイユ。僕は、君の縫った傷を、かすり傷だと思っていた」


「分かっています」


「去年の遠征で、腹を斬られたときも。あれが本当に深かったのだと、先日、君の祖母の覚え書を見て、分かった。血管に近い位置だった。縫わなければ、僕は、あの夜に」


 彼は、そこで言葉を止めた。


「君は、二度、僕の命を救っていた。それを、大げさだと言った」


「ええ」


「すまなかった」


 私は、包帯を巻きながら、静かに答えた。


「謝罪は、受け取ります。でも、戻る場所はありません。診察の続きは、三日後に、予約でお越しください。傷の経過を見ます」


「予約……」


「ええ。三日後の午後二時。台帳に書いておきますね」


 レオンは、ふらつく足で立ち上がり、頭を下げて、診療所を出ていった。


  *


 その後、レオンハルトが騎士団で受けた処遇は、私の知るところではない。


 ただ、噂では、傷の悪化で半年の療養を余儀なくされ、副団長の職は、補佐役のひとりが代行するようになったと聞いた。セラフィーナ嬢は、そのあいだ、一度も見舞いには来なかったそうだ。


「令嬢らしい」人は、血と膿の匂いのする場所には、近づかなかったらしい。


 彼は、毎週、予約の時間ぴったりに診療所に現れた。待合室で、子供たちと一緒に座って、礼儀正しく順番を待った。ときどき、近所の老婆に説教をされていた。


 最後の診察の日、傷はきれいに塞がっていた。


「完治です。剣も握って構いません」


「ありがとう、ミレイユ先生」


 彼が、初めて「先生」と呼んだ。


 私は、少し笑った。


「お大事に。次からは、傷が浅いうちに、予約してくださいね」


 レオンは、深くうなずいて、帰っていった。


  *


 診療所を開いて一年が経った夜。


 閉院後の台帳を整理していると、トマスが勝手口からひょこりと顔を出した。


「ミレイユ先生。まだ起きてましたか」


「ええ。台帳の整理で」


「ちょっとだけ、予約を入れさせてもらえませんか」


「予約? 診察の?」


「いえ。……来週の日曜日、一日。診療所を休診にしてもらって、その日の先生を、予約したいんです」


 私は、ペンを持つ手を止めた。


 トマスは、耳まで真っ赤になっていた。袖の草の汁が、今日はやけに目立った。


「川向こうの野原に、ヤナギの花が咲くんです。先生に、見せたくて。……だめですか」


 私は、台帳を開き、来週の日曜日の欄を探した。


 そこは、空欄だった。診療所を始めてから、一日も休んだことがなかったからだ。


 私は、ペンを取って、日曜日の欄に、大きく書き込んだ。


「予約済み。トマス・ヴェイル様」


 顔を上げると、彼は、見たことがないほど嬉しそうな顔で笑っていた。


「次の予約は、再来週の日曜日で、いかがですか」


「それは、再来週の先生と相談してください」


 私は、台帳を閉じた。


 予約制の診療所の、いちばん大切な予約は、こうして、先生自身のものになった。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

少しでも楽しんでいただけましたら、下の☆☆☆☆☆から評価をいただけると、とても励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。