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私の「好き」は国で厳重に管理されています

作者: こはく
掲載日:2026/04/20

 好きです。


 いつも喉まで出かかって、けれどどうしても言えなかった言葉だった。


 セドリック殿下に「好き」と言われるたび、胸の奥がふわりと熱くなる。

 嬉しくて、恥ずかしくて、まともに顔を上げていられない。

 それなのに返せるのは、いつだって同じだった。


「……ありがとうございます」


 それが私の精一杯。


 セドリック殿下とは、子どもの頃に婚約した。

 そして殿下は、その頃からずっと、驚くほど素直に好意を口にする方だった。


 顔を合わせれば好きだと伝えてくださるし、手紙にも好きだと書かれる。

 久しぶりに会えば、まず最初にそう仰る。


 それは性格というより、そう教えられて育ったかららしい。


 好意はきちんと言葉にしなさい。

 伝えなければ、ないのと同じです。


 王妃殿下がそう言い、王もまた王妃殿下に対してごく自然にそれを実践しているのだという。

 よく似合っている、でも。

 今日も美しい、でも。

 隣にいられて嬉しい、でも。

 そういうことを、王も王妃も特別な台詞のようには扱わないらしい。


 実際、侍従長ご夫妻まで恐ろしいほど仲が良い。

 朝の廊下ですれ違うだけで、侍従長が奥方へ「今日も綺麗だ」と平然と言うのを、私はもう何度も見ている。


 だから殿下にとって「好きだ」と言うことは、気取った甘い台詞ではない。

 思った時に、きちんと伝える。

 ただそれだけなのだ。


 ただし、その頻度は少々高い。


 十八を過ぎて学園を卒業し、結婚を控えて王太子妃教育が本格化したことで、私は王宮で暮らすようになった。

 そこから、殿下の「好き」はさらに加速した。


 朝、私が居室を出る頃には、たいてい向かいの扉も開く。


「おはよう、エレノア。好きだ」


 昼のお茶でも言われる。

 廊下ですれ違っても言われる。

 夜、部屋へ戻る前にも言われる。


「今日の髪型も好きだ」

「君の可愛らしい声も好きだ」

「ちゃんと想いを受け取ってくれるところも好きだ」

「そのたびに頬を染めるところも好きだ」


 前から多かったのに、今ではもはや日常の挨拶に近い。


 そのたびに、どうしたって嬉しくなる。

 いつまでたっても慣れはしない。

 毎回頬が熱くなる。

 だから、頬を染めたまま小さく返す。


「……ありがとうございます」


 好きだと言われるのは嬉しい。

 本当に嬉しい。

 けれど、自分から同じ言葉を返そうとすると、どうしても喉の奥でつかえてしまう。


 私も好きです。

 殿下のことが好きです。

 大好きです。


 そこまで上がってきて、最後の最後で引っかかる。


 私の家は、気持ちは態度で示すもの、という空気の強い家だった。

 大切にされているのはわかる。愛されているのも、たぶんそうだ。

 けれど、それをわざわざ言葉にすることは少ない。


 だから「好きです」も「愛しています」も、私にはどうにも重たくて、簡単には口にできない言葉だった。


 けれど、ある日、ふと思った。


 このままでは、一生、私の気持ちは殿下に伝わらないのではないか、と。


 殿下は何度も好きだと伝えてくださる。

 私はそのたびに嬉しくなって、「ありがとうございます」と返すばかりだ。

 こんなにも幸せをもらっているのに、自分の気持ちを返さないままでいるのは嫌だった。


 だから決めた。


 これからは、私も言おう。

 ただ一度の勢いではなく、これから先は私の方からも、ちゃんと伝えていこうと。

 今まで言えなかったぶんも含めて、たくさん伝えようと、そう固く決意した。


 その最初の一回を、私はある昼下がりの温室で口にした。


 白百合の影が床にやわらかく揺れていた。

 昼の光がガラス越しに満ち、温室の中は明るく静かだった。

 殿下は咲きかけの花を見て、またいつものように言った。


「綺麗だ。君みたいだな」


「そういうことをさらっと仰るの、ずるいです」


「ずるい?」


「……私は、殿下のようにはできません」


「何を?」


「そうやって、すぐに口に出すことです」


 殿下は少しだけ考えてから、いつもと同じように答えた。


「好きだからな」


 あまりにも簡単に。

 あまりにも迷いなく。


 その一言で、私の中の最後のためらいがほどけた。


 もう、このまま受け取るだけではいたくない。

 私も殿下と同じ気持ちなのだと、きちんと伝えたかった。


 ――今だと思った。


「……私も」


 殿下がぴくりと反応した。


 止まれば二度と言えなくなる気がして、私は続けた。


「私も、セドリック様のことが好きです」


 沈黙。


 温室の空気が、ぴたりと止まった気がした。


 殿下はまばたきをした。

 もう一度した。

 それから、胸元の衣服をぎゅっとつかんだ。


「……え?」


 殿下から漏れたのは、何とも間の抜けた声だった。


 言った私の方が恥ずかしさでどうにかなりそうなのに、殿下の方を見ると、よほど今にも倒れそうだった。


「待ってくれ」


 殿下は真顔で言った。


「今のは君が言ったのか」


「そうですが」


「私の婚約者が?」


「そうです」


「あの、恥ずかしがり屋の可愛い婚約者が?」


「そこ確認なさるんですか」


「私を好きだと?」


「そうです」


「……これは」


 小さく息を飲む。


「これは、奇跡だ」


 言い終えた途端、殿下は胸元を押さえたままその場に崩れ落ちた。


「殿下がお倒れに! 今すぐ医療班を!」


 背後から鋭い声が飛んだ。


 振り返ると、温室の入口には侍従長が立っていた。

 その後ろには宮廷医師、側近、記録官まで控えている。


「いらしたんですか!?」


「常在でございます」


「どういう意味ですか」


「お二人の散策時には、常に万一に備えております」


 散策時に発生する万一とは何だろう。


「殿下、お気を確かに!」

「脈拍が危険域です」

「呼吸が浅くなっております」

「お座りください」

「鎮静剤を――」


「待て」


 殿下はどうにか体勢を立て直し、片手を上げて制した。

 その手は少し震えていたが、声だけは妙にはっきりしていた。


「わ、わが婚約者から……今、とんでもない祝福を受けた……っ。駄目だ、心が先に持っていかれて、体がまるで追いつかない……。このような言葉を、正気のまま受け止めきれる者がこの世に存在するのか……。いや、いるまい。だが今はそれどころではない。一刻を争う。記録官、先ほどの奇跡を一語一句違えず書き留めろ。間の長さもだ。今の時刻、温室の位置、光の角度、すべて残せ」


 素早く、的確な指示が飛ぶ。

 まるで緊急案件に対する指示のようだった。


 ――しまった。


 そこで私は、ようやく気づいた。


 殿下は、一度こうしようと思うと、そのまま形にしてしまう方なのだ。

 判断が速い。指示が的確。必要な人を必要な順で動かすことに迷いがない。

 しかも、途中で勢いが衰えない。


 王宮にいる者は皆、その有能さを知っている。

 朝に積まれた案件を昼までに片づけ、昼に持ち込まれた問題を夕方には制度に落とし込むような方だ。

 だからこそ、殿下が止まると、そのぶん困る人がきっちり出る。


 そして困ったことに、それが私のこととなると、その行動力は段違いに跳ね上がる。


 以前、私が何気なく言ったことがある。


「虹色の薔薇って、あったら綺麗でしょうね」


 ただの雑談だった。

 窓の外の庭を見ながら、そんなものがあったら素敵かもしれませんね、と軽くこぼしただけだ。


 けれど数ヶ月後、王宮の温室には本当に虹色の薔薇が咲いていた。


 正確には、花弁ごとの色の出方を調整した試験栽培の成功例らしい。

 品種の掛け合わせ、土壌の調整、温度管理、光の当て方の工夫まで行ったという。

 そこまで本気でやるとは思わないではないか。


 以来、私は殿下の前で、あまりうかつなことを言わないようほんの少しだけ気をつけている。

 軽い思いつきでも、殿下は本気で形にしようとなさるからだ。


 そんな方に、私はついに好きだと言ってしまった。

 しかも殿下の中で、それはどうやらとんでもない出来事だったらしい。


「宮廷画家を三名。構図、色彩、表情で分けろ。彼女の立っていた位置に印をつけろ」


 なにやら大ごとになりそうな予感しかしない。


「今の光を、よく見ておいてくれ。この空気ごと残したい」


 そこまで指定するのか。


「言い終えたあとの表情も、あの雰囲気も残しておきたい」


 やめてほしい。恥ずかしさがさらに増す。


「楽士と工房長にも声をかけてくれ。文字では足りない。今の声を残す方法がないか、考えさせたい」


「そのようなものは存在しません」

 側近が言った。


「ならば、これから作ればいい。楽器の音に高さも響きもあるのなら、声にもまた、分析できる性質があるはずだ」


 今この場から、新しい発明の芽が生まれかけている気がする。


 胸を押さえて、今にも倒れそうな顔をしているのに。

 殿下はまったくひるまない。

 的確に指示だけは飛んでいく。


「法務官も呼べ。本日の扱いを定める。王宮内記念日の草案を」


「却下です」


 思わず私は即答した。


 そんな記念日、全力で遠慮したい。

 好きだと言っただけで、なぜ王宮の暦に刻まれなければならないのか。


「では暫定休務日でもよい。今後同様の事態が発生した際の対応手順を整備する。休日の設定、医療班の配置、発言の条件――」


 仕事のできる人が本気で妙な方向へ走ると、こうも止めにくいのかと思った。


「……いや」


 殿下の目が、妙に冴えた。

 この顔はまずい、と私は思った。


「再現では足りない。私は、あの瞬間そのものが要る。暦学者と天文官を呼べ。自然学者も一堂に集めろ。時が進むなら、戻る理もあるはずだ」


「殿下」

 侍従長が静かに言った。

「時を戻すおつもりですか」


「戻せるなら戻す」


 即答だった。


 しかもこの方の場合、言って終わりではない。

 時の流れにまで口を出しかねない理論を、本当に見つけてきそうで困る。


 けれど、次に殿下が口にしたのは、そんな壮大な話をすべてひっくり返すような、ひどく個人的な願いだった。


「今のを、もう一度聞きたい」


 その一言だけが妙に静かだった。

 真っ赤な顔で。

 胸を押さえたままで。

 それでも真剣に、殿下は私を見る。


 私は何も言えなかった。


 恥ずかしい。

 困る。

 まさかこんなに大ごとになるほど喜んでくれるなんて思っていなかった。

 でも、どうしようもなく嬉しい。


「それから」

 殿下はまだ続けた。

「この瞬間は、もっと永く残る形にすべきだ。大広間――いや。大聖堂の天井画なら、後世まで残る」


「却下です」


 今度は食い気味だった。


 そして、その日の公務はすべて延期され、王宮のあちこちで知識人たちの招集が始まった。


   ◇ ◇ ◇


 殿下が赤くなって動けなくなられただけなら、まだ笑い話で済んだかもしれない。

 けれど実際には、医師の見立てでは、安静時ならともかく、公務中の再発は避けるべきとのことだった。


 そのうえ、その日の午後に予定されていた決裁がまとめて止まった。


 祭礼予算の承認。

 地方視察日程の確定。

 地方官人事の最終決定。

 隣国への返信草案の最終確認。

 来季軍備予算の確認。

 王都治水工事の最終裁可。


 いずれもその日のうちに終わる前提で人が動いていた案件ばかりだったらしい。


 ようやく書類に向かわれたと思ったら、通常案件の束に『王宮内記念日制定案』を紛れ込ませかけたという。

 侍従長が回収しなければ、本当に議題に上がるところだったそうだ。


 それだけでなく、暦学者だの天文官だの自然学者だのまで本気で動き始めたと聞いた時には、私も少し遠い目になった。


 さすがにこれは王宮としても対策が必要だったらしい。

 翌朝には、法務官主導で規則案まで用意されていた。


「これより、昨日発生した重大事案について対策会議を行います」


 好きだと言っただけなのに、重大事案。


 法務官が読み上げたのは、昨日の件を受けて急ぎ作られた規則案だった。

 要するに、私の「好きです」を管理するためのものらしい。


「第一条 本規則は、エレノア姫殿下による愛情表現が王太子殿下の執務能力、判断能力その他王宮運営上必要な諸機能に重大な影響を及ぼすことに鑑み、その使用条件を定めるものとする」


「第二条 本規則において高威力愛情表現とは、エレノア姫殿下の口より発せられる『好きです』『大好きです』『愛しています』その他これらに類する一切の好意的表現をいう」


「第三条 高威力愛情表現は、当日分の公務、決裁、署名、面会等がすべて終了し、翌日が完全休日であり、医療班、侍従長及び側近が即応可能な位置に待機し、かつ王太子殿下が着席状態にある場合に限り使用することができる」


「第四条 前条の条件を満たさない場合、高威力愛情表現の使用を禁ずる。公務中、移動中、起立中、並びに階段・池付近その他危険箇所における使用は特にこれを慎むこと」


「第五条 高威力愛情表現が不用意に発せられそうになった場合、側仕えは速やかに介入し、安全語句へ誘導するものとする」


「第六条 違反時には、公務日程の再調整、王太子殿下の体調確認、並びに突発的政策立案の差し止めを行う」


 第五条は、私がうっかり「好きです」と言いかけた際、側仕えが別の「す」で始まる語へ誘導するための条文だった。

 

 第六条に至っては、もはや愛情表現の扱いではない。

 厄介な禁制品か何かの運用規定のようで、条文のくせにいちいち腹立たしい。


「安全語句の例として、『すみません』『涼しいですね』『スズメ』等がございます」

 法務官が言い、

「なお、『スキップ』『スキー』は語頭が危険域に近すぎるため慎重運用、『すき焼き』はこの時代に存在しない料理であるため却下でございます」

 と侍従長が補足した。


 その規則は『王太子殿下に対する高威力愛情表現使用規則』と命名された。

 やめてほしい。


「待ってくれ」


 ここで、殿下が口を開いた。

 会議室が静まる。


「規制の必要性については理解する」


 殿下は真顔だった。

 真顔のまま、明らかに別の議題を始めた。


「だが、あの言葉は規制されるだけのものではない。保存されるべきものでもある。エレノアが、あれほど頬を染めながら、それでも勇気を出して伝えてくれたのだ。正史に残すか、典礼書に編むか、その点についても本来は並行して審議されるべきではないか」


 誰かが小さく咳払いした。


 さらに附則が読み上げられる。


「附則第一項 王太子殿下に七日以上の連続した休養期間が与えられた場合、当該期間を特別適応期間として扱うことができる」

「附則第二項 特別適応期間中、エレノア姫殿下は通常の許可日運用に優先して高威力愛情表現を使用することができる。この場合、王太子殿下は健康状態の許す限り、これを受け入れるものとする」


 その時の私は、まだその附則を深く考えてはいなかった。

 問題はここからだった。


   ◇ ◇ ◇


 規則の運用が始まって、私の『好きです』は月一回程度の許可制になった。


 最初は、まあ仕方ないのかもしれない、と思っていた。

 けれど、それは三日と持たなかった。


 朝、殿下は当然のように言う。


「おはよう、エレノア。好きだ」


 胸の奥が熱くなる。

 言いたい。

 今すぐ好きです、と言いたい。


 でも今は朝だ。

 午前中だ。

 規則により禁止されている。


「……ありがとうございます」


 理不尽というより、喉まで来た言葉をそのまま飲み込むのがつらかった。


 昼も言われる。


「今日も好きだ」

「その困った顔も好きだ」


 私はまた頬を染める。


 言いたい。

 今すぐ言いたい。


 でも今は公務の途中だ。

 午後の面会前だ。

 条件未達である。


「……ありがとうございます」


 言葉が喉で引っかかって、そこに残り続ける。


 夜、部屋に戻る前にも言われる。


「ではおやすみ、エレノア。今日も会えて嬉しかった。大好きだ」


 そこまで言われたら、こちらだって少しくらい返したくなるではないか。


「……私も、す――」


「姫様、翌日休日条件を満たしておりません」

 横から侍女に止められた。


 私は口を閉じた。

 閉じたまま、しばらく天井を見た。


 言いたかった言葉が、行き場を失って胸の中に落ちていく。

 それが、一番苦しい。


 ようやく来た月一回の許可日も、思っていたものとは違った。


 医療班待機。

 侍従長待機。

 側近待機。


 しかも侍女は厳かな顔でこう告げた。


「本日は許可日でございます。第一回は午後三時、殿下が休憩を終え、脈拍の安定を確認後にお願い申し上げます」


 第一回。


「……回数制なのですか」


「はい。体調への配慮でございます」


 そこまで整えられると、かえって言えない。

 言おうと思えば思うほど、喉が詰まる。


 言っていい日なのに。

 誰にも止められないのに。

 いざ「ここで言ってください」と場を整えられてしまうと、あの言葉は胸の奥から自然にこぼれるものではなくなってしまう。


 結局その日も、殿下を前にして言えなかった。


「……す」


 そこまでは出た。

 けれど続きがわからなくなる。


「……す、……すー……涼しいですね」


 違う。

 私が言いたかったのは、それではない。


 殿下は一瞬だけ目を丸くしたあと、すぐにやわらかく笑った。


「そうだな。少し冷える」


 そう言って、自分の上着をそっと私の肩にかけてくれる。

 その手つきがあまりにも優しくて、胸が痛かった。


 事故はなくならなかった。


 一度、私がうっかり「お好きになさってください」と言ってしまった時には、殿下がしばらく窓の外を見つめたまま戻ってこられず、午後の決裁は翌日に延期された。


 別の時には、別れ際にごく小さく「……好きです」と漏れてしまい、その日のうちに殿下が音声保存の研究を本格始動させてしまった。


 そのたびに運用は少しずつ厳格になった。


「姫様、本日は『好きです』に類する発言全般をお控えください」

「姫様、殿下が立位です」

「姫様、現在殿下は池の近くでございます」

「姫様、その『す』は危険です」


 危険です、ではない。

 私の口から出かかっただけの『す』に、どうしてここまで王宮全体が敏感なのか。


 けれど、その制限が増えれば増えるほど、かえって言いたくなった。


 今まで言えなかったのだ。

 やっと言おうと覚悟した矢先に、今度は言えない仕組みができてしまった。


 その一方で、殿下は相変わらず自由だった。


「好きだ」

「可愛いな」

「今日も会えて嬉しい」

「そうやって困る顔も好きだ」


 毎日言う。

 朝でも昼でも夜でも言う。

 条件も何もない。

 私は受け取って照れるだけ。

 言い返そうとすれば規則が立ちはだかる。


 毎日言われるたび、好きが募る。

 胸の中で膨らむ。

 口からこぼれ落ちそうになる。


 なのに言えない。


 言えない制限があるほど、余計に言いたくなる。


 ある夜、とうとう私は侍女の前で吐き出した。


「ああ、もう嫌です」


 侍女が顔を上げる。


「姫様?」


「殿下は朝でも昼でも夜でも、好きだの愛しているだの、あんなに自由に仰るでしょう」


「はい」


「私は、そのたびに頬が熱くなって、ありがとうございますって受け取ることしかできないのに」


 胸の奥に、ずっとたまっていたものがあった。


 恥ずかしさ。

 嬉しさ。

 言いたいのに言えない苦しさ。

 言えないからこそ膨らんでいく気持ち。


「私だって言いたいのです。好きですって。大好きですって。愛していますって。ずっと一緒にいたいって。毎日でも、何度でも」


 侍女は静かに聞いていた。

 少しだけ目元をやわらげながら、ただ当たり前のように答えた。


「ようやく、そこまで来られましたか」


「そこまで、って」


「限界でございます」


 そうだったのかもしれない。


 私はもう一度、きっぱり言った。


「私だって、毎日言いたいのに」


 その瞬間、頭の中にふっと附則の文言が浮かんだ。


   ◇ ◇ ◇


 幸いというべきか、その頃ちょうど、セドリック殿下には長期の休養が与えられる予定だった。


 ここ数ヶ月、公務が立て込んでいたのである。

 もともと人の何倍も働く方ではあるが、さすがに侍従長と宮廷医師が揃って休養を進言し、ようやく七日を超える連続休暇が確保された。


 その話を聞いた夜、私はふと思い立って、例の規則を読み返した。


 最初から最後まで、もう何度も読んでいる。

 腹立たしいので、だいたい覚えてしまった。

 けれど、その夜は附則のところで手が止まった。


 もう一度読む。

 さらに、その次も読む。


 私はしばらく黙って、その二つの条文を見つめた。


 二度読んでも、三度読んでも、条文は同じだった。

 それだけで十分だった。


   ◇ ◇ ◇


 その夜、私は一枚の書面を持って、殿下の執務室へ向かった。


 扉の前には、侍従長と宮廷医師、それから側近が控えていた。

 私が先に話を通しておいた相手ばかりだった。

 私を見る目が、どこか微笑ましい。


「確認いたします」


 私が言うと、侍従長が静かに一礼した。


「本日分の公務、決裁、署名、面会、その他一切、すべて終了しておりますね」

「はい」

「医療班待機済み」

「はい」

「明日から長期休養」

「はい」


 私は一度だけ息を整えた。


「結構です」


 扉を開ける。


 室内には殿下一人。

 公務を終えたばかりで、ようやく一息ついたような顔でソファにくつろいでいた。


 私を見るなり、すぐに表情がやわらぐ。


「来てくれて嬉しい。好きだ」


 胸の奥がふわりと熱くなる。

 いつだってそうだ。

 いつだって、嬉しい。


「……ありがとうございます」


 いつもの返事を一度だけして、私は書面を差し出した。


「殿下。本件につきまして、附則第一項及び第二項の適用が可能と判断いたしました」


 殿下の笑みが止まる。


「……何の話だ」


「長期休養の運用です」


「待ってくれ。嫌な予感しかしない」


「本日業務終了後より七日間、殿下には特別適応期間が適用されます」

 私は書面を見ながら続けた。

「この期間、私は通常の許可日運用に優先して愛情表現を行うことができ、殿下は健康状態の許す限り、それを受け入れるものとする――とあります」


 殿下はしばらく黙り、それから深く息を吐いた。


「……つまり、この一週間、私は君の告白を受け続ける義務があるのか」


「文言どおりに申しますと、そうなります」


「待ってくれ。心の準備が。私はまだ、一日分ですらまともに受け止める自信がない」


「待ちません」


 額に手を当てた殿下が、うっすら顔をしかめる。


「それは附則の趣旨を広げすぎではないか」


「文言どおりです」


 私は書面を軽く持ち上げた。


「侍従長、医師、側近、すべて確認済みです」


「完全に合法でございます」

 側近が静かに答えた。


「殿下の休養は必要です」

 医師が言う。


「事実でございます」

 侍従長が頷く。

「いつまでも初心では困ります、殿下」


「その言い方はやめてほしい」


 侍従長は口元だけでわずかに笑い、そのまま一礼して廊下へ下がった。

 残されたのは、私たち二人だけだった。


 私は書面を机に置き、殿下の隣に腰を下ろした。


 わずかに沈むソファに、殿下の肩がぴくりと揺れる。


「殿下」


 膝の上で組まれていたその手に、私は両手を重ねた。

 包み込むみたいに、そっと。


 熱い。


「私を見てください」


 殿下はようやくこちらへ視線を向けた。


 もう目元が少し潤んでいる。

 逃げたいのに逃げられないみたいな顔だった。


「殿下は、ずっと私に伝えてくださいました」


 重ねた手の中で、殿下の指がわずかに強張る。


「ずっと、何度でも、真っ直ぐに」


 私はそのまま続けた。


「私は自分の気持ちを、ちゃんと伝えたいのです」


 殿下の喉がひとつ動く。


「最初は恥ずかしくて、緊張して、言えませんでした。けれど、言えないまま過ごすうちに、好きだという気持ちも、それをちゃんと伝えたいという気持ちも、ますます大きくなっていきました」


「飲み込むたびに、消えるどころか、どんどん大きくなってしまって……すごく、もどかしかったんです」


 私はそっと殿下の手を包む力を強めた。


「だからこの休みの間は、今まで言えなかった分まで、全部伝えさせていただきます」


 その瞬間、殿下の耳まで赤くなる。


「……待ってくれ」


「待ちません」


 殿下がまた顔を逸らそうとする。

 だから今度は、手を離して、そっと両頬に触れた。


「こちらを向いてください」


 優しく促すように、私の方へ向き直らせる。


 視線が合う。


 困ったように下がった眉のまま、潤んだ瞳が私を映していた。


「好きです」


 真正面から言う。


 殿下の肩が揺れる。


「……エレノア」


「大好きです」


 睫毛が震える。


「愛しています」


 その一言で、殿下の呼吸が乱れた。


「それは……本当に、やめてくれ……」


「愛しいです」


 私は止まらない。


「ずっと一緒にいたいです」


 殿下の喉が苦しげに動く。

 私は、逃がさないようにその瞳を見つめたまま、もう一度だけ静かに言った。


「……私の気持ちを、受け止めてくださいませんか」


 次の瞬間、私は強く抱きしめられていた。


 ぎゅう、と息が詰まるくらいの力だった。


 そのくせ、殿下は私の肩口に顔を埋めたまま、どうしても顔を上げられない。


 殿下の髪が、私の頬にかすかに触れる。


 私は抱きしめられたまま、そっとその頭を撫でた。


 すると、殿下の腕にこもる力が、ほんの少しだけ強くなった。


「……無理だ」


 低い声が、布越しに落ちる。


「本当に無理だ。こんな幸福なことがあっていいのか分からない」


 その言葉に、胸がまた熱くなる。

 私はその腕の中で、小さく笑った。


「では、まだ申し上げます」


「待ってくれ」


「待ちません」


 けれど、不思議だった。

 言葉にするまでは、あんなにためらっていたのに。

 いざ口にしてしまうと、恥ずかしさだけでは終わらない。


 嬉しいのだ。


 好きですと伝えられることが、こんなにも幸福だなんて、私は知らなかった。

 だから、もう止まれない。


「殿下のお声が好きです」


 腕の力がまた少し強くなる。

 心臓の音が近すぎて、もうどちらのものか分からない。


「笑ったお顔が好きです」


「……やめてくれ」


「真面目なところも好きです。不器用なところも好きです。毎日何度でも好きだと言ってくださるところも、大好きです」


 殿下は黙り込んだまま、ようやく私の肩口から顔を上げた。


「エレノア」


「はい」


「君は時々、私より容赦がないな」


「殿下が、私の気持ちをここまで育てたのです」


 そう返すと、殿下は小さく笑った。

 困っている。

 ものすごく困っている。

 そのくせ、どうしようもなく嬉しそうだった。


「好きです」


 今度は耳元へそっと落とすように言う。


 その瞬間、殿下の肩がびくりと震えた。

 目の奥が熱を帯びたように揺れる。


「それは駄目だ」


「なぜですか」


「近い」


「近くなければ届きません」


 そう返すと、殿下はまた言葉を失った。


「大好きです」

「……待ってくれ」

「愛しています」

「だから、それを……」

「愛しいです」

「……もう無理だ」

「ずっと一緒にいたいです」

「……死んでしまう」


 とうとうそんなことまで言い出した。


 私は思わず肩を震わせる。


「死なないでください」


「……こんなに幸福なことが次々起きて、明日も生きていられる自信がない……」


 ずるいのは、そう言いながら少しも腕をゆるめないところだ。


 結局その夜、私は数えきれないほど好きだと言った。

 そのたびに殿下は赤くなり、視線を揺らし、時々本気で「待ってくれ」と言い、それでも結局一つも止められなかった。


 扉の向こうで、侍従長が小さく咳払いする気配がした。


「医療班、まだ入るな」

「まだ、でございますか」

「まだです」


 その声色は、切迫しているというより、少々甘すぎる空気に当てられて調子を崩しかけている者を制しているようだった。

 どうやら皆、ぎりぎりまでは静かに見守ってくれるつもりらしい。


 もっとも、王太子殿下がその休養期間のあいだに十分な耐性を獲得できたかどうかについて、王宮記録には明記されていない。

 ただし侍従長の私的記録には、次の一文だけが残されている。


『二日目にして殿下はほぼ駄目。三日目以降、「好きです」の前に深呼吸を覚えられたため、進歩は認められる』


 そして後に、録音機は完成し、離れていても声を届けられる通信機は発展し、映像保存研究も実を結び、絵画技術は飛躍的に進歩した。さすがに時を戻すことまではできなかったが、時間の流れは絶対不変ではない、という理論まで見いだされた。


 けれど、さすがに大聖堂の天井に私の絵を描く計画が再び持ち上がった時だけは、全力で止めた。


「なぜ?」


 心底不思議そうに、セドリック殿下はおっしゃった。


「なぜ、ではございません」


 私はきっぱりと言った。


「大聖堂の天井に私の絵を描く、という計画そのものが問題なのです」


「だが、君が私を好きだと言ってくれた記念すべき瞬間だ」


「だからといって、残し方には限度があります」


 殿下は少しだけ眉を寄せた。


「後世に残す価値はあるだろう」


「ありましても――いえ、ありませんが。大聖堂は駄目です」


 録音機も、通信機も、映像保存研究も、最終的には国の役に立ったのだから、まあよい。

 けれど、さすがに大聖堂の天井だけは、今でも認めるわけにはいかない。


 それだけは、今でも正しいと思っている。

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