聖女と私
馬車に揺られながら、私は窓の外をぼんやりと眺めていた。
「もう少しで到着いたしますよ」
御者の声が前方から届く。
行き先は、隣国リュミエール。
私が向かう理由はただ一つ――王太子妃の教育係として派遣されたからだ。
私は転生者だ。
ここは、かつて遊んでいたゲームの世界。
そして今、物語にない国へ向かっている。
半年前――私は王太子の婚約者だった。
だが、その関係は自ら終わらせた。
王太子が聖女見習いと親しくしている証拠を揃え、婚約破棄を申し出たのだ。
国としては不名誉だったはずだ。
だからだろうか。体裁か、示威か――私を教育係に任命するとは。
まだ傷も癒えきらぬ私に、追い打ちのように告げられた言葉。
『リュミエールの王太子妃は聖女です』
「……また聖女……しかも」
『商家出身とのことです』
……商家。
嫌な予感しかしない。
私、原作に余計な手を入れたせいで呪われているのでは?
小さくため息をつき、再び外を見やる。
遠くに王都の城壁が見え始めていた。
もうすぐ到着する。
次の聖女とご対面だ。
◆
王宮の正門をくぐる。
石畳を踏みしめるたび、視線が突き刺さるのが分かった。
背筋を伸ばし、歩幅を乱さず進む。
緊張のせいか、空気がわずかに薄い。
予備知識はない。完全な未知の領域だ。
女官が静かに歩み寄り、優雅に一礼する。
「長旅お疲れのところ恐れ入りますが、殿下がお待ちでございます」
……休ませてもくれないのね。
内心だけで呟き、微笑は崩さず頷いた。
案内されたのは小広間だった。
そこに立っていたのは――王太子妃。聖女だ。
くりっとした大きな目。
まだあどけなさの残る、十七歳ほどの少女。
聖女は立ち上がり、まっすぐに私を見る。
「フィーネ様ですか?」
私は一礼する。
「お招きいただき光栄に存じます。
フィーネ・アルクールでございます、王太子妃殿下」
聖女も丁寧に頭を下げた。
「遠路お越しいただき、感謝いたします。
以後、王宮の慣習に沿ってご指導賜れれば幸いです」
……あれ?
思ったより、きちんとしている。
「遠路ご苦労だった。噂は聞いている」
椅子に腰掛けていた王太子が口を開いた。
王太子は二十代前半だろうか。
すらりとした体躯に、整った顔立ちだった。
それは、できれば触れないでほしいのに……。
「過分なお噂でございます。どうかお気になさらず」
王太子はわずかに目を細める。
「フィーネ殿。彼女はこの国の象徴だ。
指導を頼むぞ。だが、軽んじることはないように」
言葉が硬くない……?
けど――大切にされているのね。
その事実が、胸の奥をかすかに刺す。
「承知いたしました」
それでも表情は変えず、静かに頭を下げた。
◆
想定していたものと、違った。
小広間で行った王太子同席の模擬応答。
私は扇を閉じる。
「では、想定。貴族からこう言われた場合――
『今年の慈善費は増額すべきでは?』」
聖女はすぐには答えない。
一拍置く。
「増額をご提案される理由を、お聞かせいただけますか?」
「相手が『民衆の支持を得るため』と答えたら?」
「その増額で、どれほどの民心を得られるとお考えですか。
また、増額分の金額はどの程度を想定されておりますか?」
……えっ。
思わず瞬きをする。
数字を出させる、なんて。
理想論は金額を持った瞬間、逃げ場を失う。
もう綺麗事では済まない。
何、この聖女。怖い……。
さらに聖女は、ゆっくりと王太子へ視線を向けた。
「殿下は、どの方面を重く見られますか?」
しかも、殿下に振るの?
王太子は少し考え込む。
聖女は静かに続ける。
「私の立場で即断はいたしません。
ですが、殿下のご意向に沿う形で最善案を整えます」
聖女が首をかしげる。
「いかがでしたか」
私は息を吐いた。
「……合格です」
正直に言えば、合格どころではない。
派閥を読み、金を追い、利害を見抜く。
神殿にすら踏み込む。
実務は、私以上だ。
公では王太子を立て、意見は私室で述べる距離感も完成している。
慈善すら、象徴性と実効性を両立させる道具として扱える。
――教えることが、ほとんどない。
むしろ、私より詳しい。
ただし。
礼儀作法だけは別だった。
「では、歩きますね」
聖女が廊下を進む。
姿勢は良い。視線もぶれない。
だが、足運びがわずかに大股だ。
「どうですか……?」
堂々としすぎている。
「歩幅は半足ほど狭めて。音を立てないよう、足裏全体で」
「分かりました」
次は茶会の所作。
「親指と人差し指で取っ手を軽く支え、薬指を添えて――」
聖女はすっと持ち上げる。
……が。
取っ手に指を通し、がっちり握った。
なぜか、おじさんを思わせる持ち方。
「……」
どう指摘するか考えた、その瞬間。
「あ……しもうた」
「え?」
聖女は口元を押さえた。
「すまんな〜今のなしで」
私はゆっくりと瞬きをする。
聖女は観念したように息を吐いた。
「実はな、前世の記憶があんねん」
ええっ……!
思考が白く弾けた。
聖女も、転生者だった。
「王太子の尻叩くために名乗り出たんや」
「……尻を叩く……?」
「あの子な。今でこそようなったけど、ついこの前まで頼りなかったんや」
何その崇高な理由。
私は原作を無視し、王太子の立場を悪化させた。
それなのに――。
「私も、実は……」
静かに、自分の事情を語り始める。
学園でのこと。
証拠を集めたこと。
自ら婚約破棄を申し出たこと。
すべてを話し終えると、聖女はふっと笑った。
「なるほどな、そうやったんか。
……あんたは何も間違ってないで」
「……え?」
「不安なんやろ? 心配せんでええって」
「そうですか……ですが、現に国の信頼は――」
「そんな簡単に国は揺らがん。
その程度であかんくなるなら、それまでや」
さらりと言い切る。
「……まぁ、殿下も立場上、制限あってかわいそうやけどな」
聖女は、湯気の立つ茶をくるりと揺らした。
「にしても、そんな状況でよう頑張ったな」
私は、言葉を失った。
……頑張った。
その一言が、胸の奥にじわりと染みていく。
あれが本当に正しかったのか。
ずっと、分からなかった。
視界が滲み、ぽたり、と膝に落ちた。
……止まらない。
聖女は何も言わない。
ただ、黙って紅茶を一口飲む。
茶器の触れ合う小さな音だけが、静かな部屋に響いた。
……ああ。
私はきっと、
その言葉を、誰かに言ってほしかったのだ。
◆
教育期間の終わりは、あっという間に訪れた。
王宮の正門前には、すでに馬車が用意されている。
聖女と王太子が並んで立っていた。
「ありがとうございました」
私は深く一礼する。
聖女は、静かに微笑んだ。
「こちらこそ。ありがとうございました。どうか、お元気で」
王太子も一歩前へ出る。
「この度は尽力に感謝する。道中、気をつけて」
私はもう一度丁寧に一礼し、馬車へと乗り込んだ。
扉が閉まり、車輪が石畳を踏む音が響く。
ふと、窓から外をのぞく。
聖女が、手を振っていた。だが――
「……ぎこちない」
思わず、くすりと笑みがこぼれる。
私は前を向く。
馬車は軽やかな音を立て、王宮を離れていった。




