第八幕 『背中に残る風』
第八幕『背中に残る風』
尾張議場。
信長はゆっくり議場に入った。
平手の事故から三日。喪失を抱えながらも、資料を手に議席に座る。
水を一口飲み、氷の音がわずかに響いた。
織田信友が立ち上がる。
声は柔らかく、しかし棘が潜んでいた。
「信長君、最近の君は精彩を欠いているようだね。
議会の場で迷いを見せるようでは、リーダーとしての資質が問われるよ」
議場がざわつく。
信友の言葉に反応する者、あえて沈黙を貫く者。
その空気の中で、信長は静かに立ち上がる。
深く息を吸い込み、背筋を伸ばした。
「迷いなんてねぇよ。俺は前に進む。
それが――平じぃへの感謝の証だ」
声は張らず、しかし確かだった。
議場に静けさが訪れた。
あの風鈴の音に似た一瞬の停滞。言葉が届いたときの音だった。
—
執務室(夕方)
議会を終えた信長は、執務室に一人で座っていた。
机の上には、平手政秀が生前使っていた手帳が置かれている。
端が少し擦れていて、角の折り目が甘い。
信長はそれを手に取り、そっと開く。
メモ欄に書かれた筆跡が、妙に整って見えた。
(平じぃ……お前が俺に言ったこと、全部覚えてる。
お前が教えてくれた政の仕組み、俺の心の中にちゃんとあるよ)
ページを指でなぞりながら、目を閉じる。
「ありがとう、平じぃ。俺は前に進む。
そして、誰一人取り残さぬ新しい時代を築く」
その言葉には決意が宿っていた。
けれど、寂しさもあった。
“見ていてほしかった相手”の不在が、静かに空気に滲んでいる。
—
部屋の隅。
帰蝶が静かに立っている。言葉は発さない。
ただ、信長の背中に目を向けている。
(信長……あなたの心の中に、平手さんの教えが息づいている。
私は、いつまでもあなたを支える存在でありたい)
その胸の奥には、父・斎藤道三の言葉が残っていた。
(帰蝶、信長は風のような男だ。
だが、その風が動かしたものは、やがて大地を変える力になる。お前は、その風を見守り、その傍に立ち続けてやれ)
帰蝶は、信長の背に視線を重ねたまま、静かに足を引いた。
そして、静かに取っ手に手をかけ、音を立てないように扉を引いた。
閉じられたその一枚板の向こうに、思いは残したまま。
静かに閉まる扉の音だけが、空気を揺らした。
—
夜の静寂が、執務室を包み込む。
信長は手帳を閉じ、資料の束を静かに整え直す。
外の空では、雲が流れ続けている。
その風が、誰かに届きますように。
今はもういない、あの人に。
そして、これから出会う誰かに。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。 平じぃの旅立ちは、信長にとっても、物語にとっても大きな節目となりました。 その言葉と背中が、これからの選択に静かに影を落とします。
もし何か感じることがあれば、感想などいただけると嬉しいです。 その一言が、次の筆を進める力になります。
次回は、信長が“選んだもの”の重さが、少しずつ形となって現れていきます。 また覗いていただけたら、とても励みになります。
尚、次回からの投稿時間を22:00くらいにする予定です。お楽しみに。




