第五幕 『反射と壁』
第五幕『反射と壁』
議場の空気は、静かだった。
信長の再構案――「地域改善基金設置条例案」は、制度の隙間を透明化し、旧来の予備費配分に光を差し込もうとするものだった。
壇上に立つ信長の声は、以前より静かだったが、揺れてはいなかった。
「尾張の予算構成には、重なりと濁りがあります。
災害対策の名目で積み上げられた予備費の中に、
誰が使い、どう使ったのか分からない“静かな沈殿”がある。
それを、透明にしたい。
誰に届くかが見える仕組みへと、整えたいと思います」
一瞬の沈黙。
そのあと、さざ波のようなざわつきが議場全体に広がった。
清洲派の席の一角で、若手議員が隣と小声を交わす。
資料を閉じかけた議員がもう一度ページを戻し、視線をうつろに走らせる。
「……議案第十五号については——」
議長が口を開きかけた、そのとき。
信友が立ち上がった。
「信長議員。提案の熱意は理解します。
ただ、条例文案には構造的な問題点が散見されます。
とくに執行基準条項に未整理な箇所があり、法制課との協議も未了のままですね。
現時点では、審議対象としての精度に達していないと判断します」
議場が決まりかけたその瞬間——
斯波義統が、補助マイクに静かに手を伸ばした。
「議員各位。制度整合性に関するご指摘は当然です。
ただし、提案趣旨の中には検討に値する要素があると、私は考えます。
本件については“保留”とし、継続審査とするよう議会に求めます」
瞬間、ざわつきが沈静化した。
誰も異を唱えない。拍手もない。だが、反発もない。
場を整えたのは、“動かない知事”のたった一言だった。
—
控室。空調の音だけが規則的に回っていた。
恒興がソファに腰を沈めて、天井を見上げた。
「……完敗ってやつだな。
制度ってさ、冷たさごと設計されてるんだな」
信長は、ジャケットを脱ぎながら言った。
「……負けたな」
平手は顔を上げたが、すぐには何も言わなかった。
信長は冷えた麦茶をひと口飲み、氷の音を黙って聞いていた。
「まぁ……予想通りの反応だったかもな。
でも、ここまで冷めてるとは思わなかった」
「……清洲派は“静かに勝つ”のが流儀ですから」
「なんかさ……本気で話したのに、誰も本気じゃなかった気がして。
言葉って、届かない時あるんだな」
信長が言葉を置いたあと、部屋の中に静けさが溶けた。
「届いてましたよ」
平手の声は、まるで風鈴の余韻のように、短く、でも確かにそこにあった。
「……届いてないよ。誰も賛同しなかった」
「信友さんは届いたから、流そうとした。
義統さんは届いたから、場を整えた。
議員たちは――届いたから、怖がったんです」
信長が、どさりとソファに座り込む。
「じゃあ……どうすりゃいいんだよ」
平手はうつむいたまま、一枚の資料をそっと差し出す。
「整えるんです。きれいに。届くように。
制度の中に風を通す方法は、まだ残されています」
—
しばらくして、信長は机に向かった。
手元の原稿の端に、新しく赤ペンで小さな印をつける。
“整合性”。“定義の補強”。“執行区分”。
資料の隅に置かれていた折り紙が、風にそよいでいた。
形は崩れていなかったが、わずかな歪みが、柔らかな余白を生んでいた。
そこに、制度の“届き方”のヒントがある気がした。




