第三十七幕『境の声』
第三十七幕『境の声』
陽の色が、少しだけ柔らかくなっていた。
清洲本部の応接室には、障子越しにその光が差し込み、庭の松の影を静かに揺らしていた。
風が枝を撫でる音は、遠くから届く波のように、耳の奥に残る。
机の上には、整然と並べられた資料。
その並びは、数日前とは微妙に違っていた。
佐久間はそれに目を落としながら、ふたりの来訪者を待っていた。
空気は静かで、どこか整っていた。
まるで、何かが一度動き、そして今、次の手が打たれようとしているかのように。
三河の現状を知るには、彼らしかいない――そう信じていた。
やがて、襖が静かに開き、水野信元と吉良義安が姿を現す。
信元は、落ち着いた足取りで部屋に入り、軽く頭を下げた。
義安は、少し遅れて続き、視線を庭に向けたまま、無言で座についた。
「遠路、ありがとうございます。」
佐久間の声は、礼を尽くしながらも、どこか急いていた。
信元が、静かに口を開く。
「三河は、表向きは穏やかです。
市も開かれ、文人たちが講義を開いている。
だが……その言葉の裏に、駿河の影が濃くなっているのを感じます。」
義安が、庭の松を見つめながら言葉を継ぐ。
「駿河文教党は、文化を通じて人心を掴むのが巧みです。
三河の若者たちは、今川の学問に憧れを抱き始めている。
それが、尾張にとって何を意味するか……」
佐久間は、資料の端を指でなぞりながら、静かに問う。
「尾張の商人が三河で足止めを受けた件、
あれは偶然ではないと見てよろしいか?」
信元は、少しだけ目を伏せてから答えた。
「ええ。駿河側の意図的な線引きです。
尾張との距離を、文化で測ろうとしている。」
義安が、ふと庭から目を戻し、佐久間を見た。
「今川義元は、剣ではなく筆で境を越えようとしている。
だが、その筆は、尾張の政を塗り替える力を持っているかもしれません。」
部屋の空気が、少しだけ重くなった。
風が障子を揺らし、庭の松がまたひとつ、枝を震わせた。
佐久間は、静かに頷いた。
「この報せは、信長様に直接伝えます。
議会の前に、尾張がどう動くべきか――その判断材料として。」
応接室の空気が、少しだけ張り詰めた。
佐久間の言葉を受けて立ち上がった水野信元は、庭に目を向けたまま、しばらく沈黙していた。
「……本当は、私が話すべきことがもうひとつあります。」
佐久間が静かに視線を向ける。
義安は、少しだけ驚いたように水野を見た。
「吉良義安殿の支援についてです。
三河の境が揺れている今、彼のような人物が立ち上がることには意味がある。
だが、三河だけでは足りない。尾張の支援が必要です。」
佐久間は眉をひそめる。
「それは……信長様に、吉良殿への支援を求めるということですか?」
水野は頷いた。
その表情には、議会の風を読み続けてきた者の冷静さがあった。
「私は、駿河文教党にいたこともある。
理に惹かれたわけではない。
時勢を読み、尾張の立場を守るために必要と判断したからだ。
今、三河が動いている。
地元が接している以上、尾張議会として無関心ではいられない。」
義安は、静かに水野の言葉を聞いていた。
その目には、信頼とわずかな不安が混じっていた。
「信長様が動けば、尾張の空気が変わる。
吉良義安という名が、ただの地方の声ではなくなる。
私は尾張議会の議員として、尾張の利益のために動いている。
その延長線上に、吉良殿の支援がある。」
佐久間は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……その言葉なら、信長様は耳を傾けるでしょう。
ただし、勝幡派は、過去の鞍替えを忘れてはいません。
あなたの言葉が、どこまで届くかは、あなた自身にかかっています。」
水野は静かに笑った。
その笑みは、風向きを読む者の確信の色をしていた。
「それでも、言葉を尽くす価値はあると思っています。」
障子の向こうで、風がまたひとつ枝を揺らす。
その音が、場の空気に静かな波紋を広げていく。
やがて、次の場面への扉が、音もなく開かれた。
信元と義安は、言葉を交わさず、ただ深く頷く。
沈黙の中に、すべてが込められていた。
第三十七幕では、水野信元と吉良義安が清洲を訪れ、三河に広がる駿河文教党の影響を伝えました。 文化を通じた浸透は境を揺らし、尾張にも波を及ぼし始めています。 さらに吉良支援の提案が示され、尾張議会に新たな選択が迫られる幕となりました。
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