第三十六幕『風の底』
第三十六幕『風の底』
一年が過ぎていた。
尾張では義銀知事のもと新しい政治が敷かれ、政は安定を見せていた。
信長はその中心にあり、議会の調整役として、時に鋭く、時に柔らかく舵を取っていた。
美濃では道三から義龍への政権移行が完了し、表向きは静けさを保っていた。
だが、尾張と三河の境――
その地に根を張る商人たちの間で、奇妙な噂が広がり始めていた。
「駿河から来た文人が、茶会の名を借りて村役人と密談している」
「三河の市で、今川の書生が新たな学問所を開いた。だが、教えるのは政の理ばかりだ」
「尾張の商人が三河で不当に課税され、帰路を断たれた」
それらは、剣ではなく言葉による侵入だった。
駿河文教党――今川義元が率いる、文化と理を掲げる政党。
彼らは筆と講義で境を染め始めていた。
信長は、勝幡の政庁で報告を受けながら、地図の境界線に指を置いた。
その指先が、三河の地に触れた瞬間、彼は静かに言った。
「文が風を運ぶなら、尾張はその風に耐えねばならぬ。」
その日から、尾張の政庁では、商人・学者・旅人の動向が密かに記録され始めた。
駿河文教党との対決は、まだ誰も「戦」とは呼ばなかった。
だが、言葉の応酬はすでに始まっていた。
窓の外では、風が街路樹の葉を揺らし、遠くで誰かが自転車のベルを鳴らしていた。
その音が、議論の合間にふと耳に届く。
勝幡派の中心人物たちが、長い机を囲んで座っていた。
資料の紙がめくられるたび、静かな音が空気を切る。
誰もが、次の議会を前に、言葉を選んでいた。
「次の議会では、尾張内部の政策だけでなく、外部勢力についても議論が避けられないでしょう。」
貞勝の声は、少しだけ低く、慎重だった。
その言葉に、佐久間が資料を見ながら頷く。
「特に、駿河文教党が三河を完全に掌握しつつあります。
最近では、尾張の有力者とも接触を始めたとの報告がある。」
信長は、静かにコーヒーを口に運びながら、机の上の書類に目を通していた。
その指先が、紙の端をなぞるように動く。
「今川義元……随分と積極的に動いているようだな。」
勝家が腕を組み、窓の外に目を向ける。
風がカーテンをわずかに揺らす。
「駿河文教党はただの政治勢力ではない。
文化・学問を前面に押し出しながらも、実質的な影響力を持っている。
尾張への介入が、単なる交流とは思えん。」
恒興が指で机を軽くなぞりながら、言葉を探すように話す。
「駿河が三河を手中に収め、次に尾張へと触手を伸ばそうとしているのは明白です。
義元がどこまで本気で動いているのか、早急に見極めるべきでしょう。」
信長は、コーヒーを机に置き、ゆっくりと指を組んだ。
その動きに、場の空気が一瞬だけ止まる。
「警戒を強める。議会に向けて、駿河側の動きを完全に把握しろ。」
報告書を見つめながら、貞勝が静かに頷く。
「議員たちの間でも、駿河文教党との関係について意見が分かれています。
対話を進めるべきか、距離を取るべきか……。」
勝家は短く息を吐き、微かに笑った。
「……義元に尾張がどういう土地か、思い知らせてやるさ。」
その言葉に誰も返さず、ただ風の音が窓辺で鳴った。
そして、信長が低く呟いた。
「……放っておけば、尾張は食い尽くされる。」
その声は、誰にも向けられていないようでいて、
部屋の隅々にまで届いていた。
午後の光が、少しだけ傾いた。
第三十六幕では、尾張の安定の裏で、駿河文教党が三河を通じて静かに影響を広げ始めました。 剣ではなく言葉と学問を武器に、境界を染める義元の動きは、尾張に新たな緊張をもたらしています。 信長と勝幡派は、議会を前にその動向を見極めようとし、警戒を強めました。
「戦」とはまだ呼ばれないものの、言葉の応酬はすでに始まっています。 尾張と駿河の間に吹く風が、どのような嵐へと変わっていくのか――物語は次の局面へ進んでいきます。




