第三十五幕『雪の庵にて』
第三十五幕『雪の庵にて』
美濃・稲葉山。 雪が降っていた。 落ちてくる一片のひとつひとつが、圧倒的な数で空を埋め尽くしている。 それは音もなく、ただ静かに、世界の輪郭を変えていくようだった。
邸内の庭に積もるほどではないが、風に乗って舞う白が、空気を染めていた。 信長は廊下をゆっくりと進んでいた。 隣には帰蝶。 その足音は、雪の気配に吸い込まれるように静かだった。
政局はすでに決まりつつあり、義龍の勢力が邸内にも確実に浸透していた。 それでも、道三の部屋だけは、時間が止まっているようだった。
道三は机の前に座り、盃を指で転がしていた。 窓から差し込む夕暮れが、長い影を床に落としている。
信長は静かに言葉を発した。 「義父上……本当に、ここで退かれるのですか。」
道三は薄く微笑み、盃を指で軽く転がした。 「政の天秤は、すでに傾いた。」
信長は拳を握りしめ、言葉を続ける。 「まだ、戦えるはずです。」
道三は静かに信長を見つめ、淡い笑みを浮かべる。 「信長……時代は流れるものだ。」
帰蝶がそっと信長の袖を引き、小さく言葉を紡ぐ。 「お父さん……引退なさるのですね。」
道三は微かに笑い、盃を傾ける。 「美濃は義龍の時代になる。私は、ここで退こう。」
信長はその言葉を受け止め、静かに頭を下げた。 そのまま立ち去ろうとしたとき、道三がふと声をかける。
「信長」
信長は足を止め、道三を見つめた。
道三は盃を指で軽くなぞりながら、初めて信長と顔を合わせた日のことを思い出していた。 乱れた身なり、型破りな噂。 だからこそ、軽装で出迎えると決めた。
だが、現れた信長は、見事に仕立てられた正装を纏い、堂々と歩を進めてきた。 その姿に、道三は思わず心の中で呟いた。
「……侮ったな。」
“うつけ”かと思った若者は、最初から勝負を仕掛けてきていた。 評判を逆手に取り、予想外の振る舞いで場を制したのだ。
道三は静かに目を閉じ、息を吐いた。 「婿殿……やはり、お前は侮れぬ男よ。」
その胸の奥に、言葉がひとつ浮かんでいた。
信長がこの美濃を統べる時が、いずれ来ると思っていた。 だが、さすが義龍。さすが我が息子だ。 よくぞわしを乗り越え、あっという間に美濃をまとめ上げた。 今しばらくは、我が斎藤家の時代が続く。これで……良かったのだ。
その言葉は、誰にも語られることはなかった。 ただ、雪の舞う静けさの中で、道三の胸にそっと沈んでいた。
信長は道三をじっと見つめた。 「……義父殿?」
道三はゆっくりと目を開き、盃を机に戻しながら言葉を紡ぐ。 「初めて会った時のことを、少し思い出していたのだ。」
微かに笑いながら、静かに酒を揺らす。 「これから先、お前はどのように政を動かすのか——わしも、それを見守るとしよう。」
ゆっくりと盃を口元へと運び、最後の酒を味わう。 外では、雪がまたひとひら、静かに舞っていた。
一方、稲葉山政庁中庭
義龍は降ってくる雪の中に立ち、静かに息を吐いた。
道三に不信任案を突きつけたのは、わずか半月前のことだった。 かつての力は、もう父にはなかった。 決戦の末、義龍は新たな知事として美濃を治めることになった。
「……これで、終わった。」
そう呟いた義龍の声は、雪に吸い込まれるように消えていった。 勝ったはずなのに、胸の奥には言葉にならない重さが残っていた。
父は何も言わなかった。 ただ、盃を転がしながら、静かに庵へと身を引いた。
義龍はその背を見送ることもなく、ただ雪の中に立ち尽くしていた。 「俺は、父のようにはならない。だが……俺は、俺のやり方で、美濃を守る。」
その言葉に、誰も答えなかった。 道三はすでに、遠い場所で静かに盃を傾けているのだろう。
義龍は目を閉じ、雪の冷たさを肌に感じながら、ゆっくりと歩き出した。 その足跡は、すぐに雪に埋もれていった。
美濃は、斎藤義龍の時代へと移った。 だが、その始まりは、決して晴れやかなものではなかった。
第三十五幕では、美濃に雪が舞う中、斎藤道三が静かに政から退き、義龍の時代が始まりました。 父と子の交錯は、勝敗の明暗を超えて「世代の交代」という重い現実を映し出しています。 信長にとっては義父の退場を見届ける場面であり、義龍にとっては勝利でありながら晴れやかさを欠いた出発点でした。
美濃は新たな支配者を迎えましたが、その始まりは雪のように冷たく、静かな重さを帯びています。 この転換が尾張と信長にどのような影を落とすのか――物語はさらに深まっていきます。




