第三十幕 『知事室の窓辺』
第三十幕『知事室の窓辺』
冬の午後、尾張知事室。 大きな窓の外では淡い雪が舞い、白い粒が静かに街を覆っていく。義銀はその光景をしばし見つめ、深く息を整えた。
「……私は、複雑な気持ちです。」
向かいに座る岩倉派の織田信賢が、冷静な面持ちで眉をわずかに動かす。
「どういう意味でしょうか。」
義銀は机上の書類の端を指でなぞり、静かに言葉を紡いだ。
「私がこの知事の職に就くことができたのは、勝幡派の支えがあってこそです。そのことを決して忘れたことはありません。 しかし今、その勝幡派は大きく揺らぎ、分裂の危機にあります。信長さんと信行さん――兄弟の間で、これほどの対立が生じるとは、想像しておりませんでした。」
信賢は腕を組み、短く頷いた。 義銀は微かに息を吐く。
「恩があるからこそ、この混乱をただ傍観するしかないのは、何とも言えぬ心持ちです。」
信賢は湯飲みに軽く触れ、視線を合わせる。
「……お気持ちはよく分かります。私も似たような経験をしてきました。」
「……あなたのお父君のことですね。」
淡い微笑を浮かべ、信賢は頷いた。
「ええ。私はかつて、父である信安をクーデターによって失脚させました。そして、その後、岩倉派を率いる立場となり、父から知事代の職を引き継いだのです。」
義銀は興味深そうに目を細めた。
「ご自身の父君を追い出してまで、その座に就くというのは……並々ならぬ決意が必要だったでしょうね。」
「ええ。後悔はございません。ただ、時折、その決断について考えることはあります。」
義銀は窓の外に視線を戻し、舞い続ける雪を追った。
「……こうして並んで座り、政局を見つめるのも、何とも不思議なものですね。」
「確かに。そして今、信長さんと信行さんが、同じ道を辿ろうとしています。」
義銀は机の書類を軽く指で叩きながらつぶやく。 「旧清洲派の再結集の動きも見えます。もし成功すれば、議会の最大派閥が生まれる。 この混乱がどう収束するのか……今はただ、見守ることしかできませんね。」
知事室の静けさの中、雪は絶え間なく舞い続け、 政治の渦が音もなく形を変えつつある。
その頃、清洲では――
信長の指示が矢継ぎ早に飛び、動き出した者は誰ひとり立ち止まらなかった。 躊躇していた勝幡派の党員たちも、その声と眼差しに突き動かされるように席を立つ。 わずかな逡巡も、信長の前では意味を失っていた。
「情報が来るのを待つのではない。引き寄せるのだ。」
信長は地図の上に駒を置きながら、まるで自分の手で局面を編み直すように動き続ける。
その姿は、雪に閉ざされかけた街の中で、ただ一人、春を呼び込む風のようだった。
第三十幕、ご覧いただきありがとうございました。 今回は、義銀と信賢の対話を通じて、“恩を受けた者”と“恩を越えた者”の視点が交差する場面を描きました。
「私は、複雑な気持ちです」 その言葉に滲むのは、支えへの感謝と、傍観しかできない葛藤。
一方、信長は雪の中で動き続け、政の構造を自らの手で編み直そうとしています。 その姿は、静けさの中にある“風の兆し”のようでもありました。
次幕では、揺れる尾張の構造が、どのように形を変えていくのか。 引き続き、静かな時間にお付き合いいただければ嬉しいです。




