第二十六幕 『交差点の黎明』
第二十六幕 『交差点の黎明』
那古野の夜が明けるころ、勝幡派の看板は静かに降ろされた。
新たな本部は清州――斯波家の歴史と、織田の意志が交差する場所に設置された。
かつて清洲派の中枢だった事務所は、不正の余波に呑まれ、空虚に包まれた。剥がれかけたポスター、誰も座っていない椅子。勝幡派のスタッフが荷物を運び込む。
「ここが、あの清洲派が沈んだ場所か…」
その跡地に、勝幡派の旗が静かに掲げられる――「勝幡派 清洲本部」。
信長は立ち止まり、入口の暖簾をじっと見つめる。
「ここからもう一度、尾張を編み直す」
—
その夜、本部移転と選挙戦の一区切りを労う会が開かれた。
清州政庁近くの料亭「梅籠庵」にて。
灯籠が揺れ、屏風には月下の薄の絵。地元職人による設えだった。その夜、本部移転と選挙戦の一区切りを労う会が開かれた。
信長は控えめな和服に袖を通し、中央の席に腰を据えた。
義銀はやや緊張気味に席へ向かい、信長と五郎左の間に座る。
その顔に、少しだけ選挙敗北の残像が残っていた。
「この場を借りて、まずは――銀さん、お疲れさまでした」
五郎左が静かに盃を持ち、義銀の正面で一礼する。
「尾張を揺らす火種になった。それで十分ですよ」
信長は口を開く。
「負けたか勝ったかは、“一行分の出来事”だ。お前の選挙は“数十行の意味”を残した。あとは、清州で続きを書けばいい」
義銀は盃を両手で受け取り、深く頭を下げた。
その様子を見届けながら、帰蝶は静かに立ち上がった。
帳場の隅に歩み寄ると、若女将が迷いなく寄ってくる。
「帰蝶様。献立、ひと通りご覧になりますか」
初訪問にもかかわらず、まるで旧知の応対だった。
恒興が目を細める。
「影で場を動かす者は、名指しされなくとも名が届くんだな」
若女将は静かに頷いた。
「お名前を聞いた時から、細やかな準備を心がけております」
帰蝶は献立表に軽く目を通し、盃を受け取る銀の姿を思い浮かべる。
「銀くんには甘味を多めに。あの子、緊張すると箸が進まないのよ」
一枚献立をめくりながら、ふとつぶやいた。
「それと、信長にも。あの人、さりげなく隠してるけど…甘味には弱いの」
恒興が笑う。
「お前の気遣い、戦略より鋭いよ」
縁側では、又左が佐久間と話していた。
「勝幡派の本部、これで“政の地図”が一歩広がりましたね」
佐久間は杯を傾けながら、静かに返す。
「銀がこの先、どう呼ばれるか――今夜の空気で変わるかもな」
又左が眉をひそめる。
「初手で“銀ちゃん”は軽すぎるし、“義殿”は重すぎるしな…」
佐久間はぽつりと呟いた。
「“政界のサブ”ってのはどうだ。脇で光る男」
又左が吹き出す。
「そのうち“公認甘党”で呼ばれるぞ。帰蝶様の配膳付きで」
二人の笑い声が、庭先の虫の声に溶けていった。
そのとき、五郎左の携帯が震えた。
着信画面を見た五郎左の表情が、ゆっくりと引き締まる。
「……昌高、正式に辞退したそうだ」
一同が静まり返り、そこにあった宴のぬるさが、音もなく引いた。
五郎左は続ける。
「繰り上げで、義銀が次期知事に決まった。今、選管から連絡が入った」
盃の音も止まり、場の空気が変わる。
信長は縁側の柱に背を預けたまま、月を見上げていた。
「ならば、尾張の筆は銀に渡った。……続きを書かせよう」
その月の下、風は音もなく向きを変えていた。
義銀は静かに立ち上がり、盃を両手で持つ。
「この盃、さっきまでは“終わった”味だったんですけど……今は“始まった”気がします」
佐久間が苦笑しながら言った。
「なあ、誰も口にしないけど……もう“お疲れ様会”じゃないですよね?」
席の空気がわずかに引き締まり、誰かが静かに盃を持ち直した。
帰蝶が穏やかに言いながら、盃の内側を見つめる。
「これは、尾張が君を見つけた夜よ」
義銀は盃を置き、月を仰いだ。
言葉はなかったが、何かが彼の中で定まったようだった。
清洲の方角に立った風は、まだ昼の暑さをわずかに残していて、
庭先の茜草がひっそりと揺れていた。
第二十六幕、ご覧いただきありがとうございました。 今回は、清洲という“交差点”に勝幡派が移り、義銀の盃が“終わり”から“始まり”へと静かに変わる夜を描きました。
選挙の敗北、政の移転、そして昌高の辞退。 それぞれの出来事が、ひとつの宴の中で交差し、尾張の筆が義銀へと渡されました。
「これは、尾張が君を見つけた夜よ」 帰蝶の言葉が、語られなかった決意をそっと照らします。
次幕では、“見つけられた者”が、どのように尾張を描き始めるのか。 引き続き、静かな時間にお付き合いいただければ嬉しいです。




