第二十幕 『言葉の訪問』
第二十幕『言葉の訪問』
信長の執務室。
巻物が広げられ、選挙戦の構図が静かに動いていた。
新任秘書・村井貞勝は、その地図に沿って資料を束ねていく。
平手政秀の後任として、つい先日正式に認可が下りた。
帰蝶が担っていた実務の負担がようやく分散され、勝幡派は厚みを増した。
「知事選の締め切りが迫っています。
信友さんが代理で政務を担っていますが……岩倉派は静観ですね」
信長は椅子に背を預け、巻物の端を指で押さえる。
「あいつらは様子見だ。担ぐ神輿が見つからないなら、信友続投も受け入れる――そんな流れだな」
その時、扉がノックされた。
「どうぞ」
信長が目線を巻物から外す。
扉が開き、義銀が姿を見せる。
「ご無礼を承知の上で、伺いました」
少し緊張の色がにじむが、声はまっすぐだった。
信長は意外そうに微笑み、巻物を静かに閉じる。
「|義銀か。久しいな。……父の件は、残念だった。義統らしい幕の引き方だったよ。言葉を紡いで、場を守ろうとした」
義銀は頷き、言葉を整える。
「……はい。あの日、僕は父に何も返すことができませんでした。
でも――今こそ尾張の政を止めないために、僕が歩き出す時だと思いました」
村井が静かに資料を横へ寄せる。
貞勝の視線が信長に向く。
信長は腕を組み、少しだけ椅子に沈み直す。
「で、俺に何を求める」
義銀は一歩だけ前に出て、言葉を整える。
「父は議場で孤立しても、政策を通そうとしていました。
でも、清洲派や岩倉派の壁は厚くて……
僕はその空気を変えたい。尾張を本当に動かしたいんです」
信長は黙ったまま、机の上の一枚――義統が提出していた案の草稿に目を落とす。
「理想を語るのは自由だ。
でも、それを通すには力が要る。――お前、それでもやるのか?」
義銀は迷いなく拳を握りしめる。
「はい。どんな圧力があっても、僕は退きません」
信長はしばらく義銀を見つめていた。
眼差しは冷静だったが、何かを測るように深く。
やがて、口元に微かな笑みが浮かぶ。
「……いいだろう。手は貸す。
ただし――勝つのはお前自身の力だ。
勘違いするなよ、これは俺の戦じゃない」
貞勝は黙って頷き、手元の資料を一枚義銀のほうに向けた。
その紙の端には、小さく書かれていた。
「言葉ではなく、票を動かす手を組め」――信長の方針を記すものだった。
義銀は一瞬その紙に視線を落とすが、その意味を読み解くとこはできなかった。けれど、確かなことが一つだけある──この紙は、
「理想を語るだけでは何も届かない」と告げている。
執務室の空気が、音もなく切り替わる。
義銀の訪問は、“誰も座らない空席”に初めて光が差し込んだ瞬間だった。
第二章『清洲の構造』、その最初の幕をご覧いただきありがとうございました。 義統の崩れを経て、義銀が初めて空席に向き合う場面を描きました。
理想を語るだけでは届かない。 その言葉が、構造の中で静かに動き始めます。
新章では、言葉と立場、そして空席の意味が少しずつ変化していきます。 引き続き、静かな時間にお付き合いいただければ嬉しいです。




