第十九幕 『崩れる所在』
第十九幕『崩れる所在』
知事室。
義統は壁の時計に目を向けた。
秒針の音が、こんなに聞こえるのはめずらしい。
資料のページを閉じたとき、遠くで誰かがドアを開ける音がした。
“もう少しだけ、ここにいてもいいんだよな。まだ何も決まっていない”
その思いは、誰にも届かないまま、静かに空席の横を風が通り過ぎていった。
—
議場に戻った義統は、ひとつの椅子に静かに腰を下ろした。
会派の誰も彼に声をかけなかった。
机の上には、提出した予算案の資料が一部返却されていた。
無言で突き返されたことが、言葉以上に彼の胸を締め付けた。
「……確認してもらったのか?」
義統が隣席の秘書にぽつりと尋ねる。
秘書は一瞬だけ目を動かして、小さく言った。
「信友様の方には、届いております。ですが、議会内で回覧はされていないかと……」
それはつまり、黙殺されたという意味だった。
義統は少しだけ顔を伏せるようにして、ため息をつく。
資料の角が、指先にかすかに刺さる。
“俺の言葉は、誰にも届かない”
そこへ、議長の声が響いた。
「では次議案。岩倉派より提出された治安整備案、審議に入ります」
義統は思わず顔を上げた。
その案は、今期の予算案の“中心を岩倉派が引き取っている”ことを意味していた。
周囲の視線は動かない。けれど、空気ははっきりと、彼を置き去りにしていた。
目の前の水差しに手を伸ばしたとき、指先が微かに震えた。
“疲れすぎたのか……?”
そう思った矢先、視界の端がゆらっと揺れた。
音はしていない。でも、議場の明かりが少し遠く感じる。
義統は椅子から立ち上がろうとした。
が、両足がうまく踏ん張れなかった。
膝が折れて、肩から机に崩れかけるように倒れ――そのまま、床に静かに沈んでいった。
「……!」
誰かが息を呑む音がした。
水差しが倒れ、議事録の紙に水が染み込んでいく。 ペンが落ちる音だけが響き、議場が一瞬だけ、沈黙に包まれた。
秘書があわてて駆け寄る。
「義統様――! 誰か!知事を、早く医務室へ!!」
その声が議場の中を裂いた。
でも、誰も動けなかった。
信友は紙を一枚めくるだけだった。
信安は腕を組み直すだけだった。
議長ですら、言葉を失ったままだった。
その倒れた義統を、信長は視線だけでとらえていた。
立ちかけた背が、わずかに止まる。
手は動かない。言葉も出ない。
今、この場では、誰もその沈黙を破れなかった。
義統は床に横たわり、乱れた資料の隙間から一枚の紙がゆっくりと滑り出た。
「信じる手は、…」
続きは――なかった。
第十九幕、ご覧いただきありがとうございました。 今回は、言葉が届かない場の空気と、“空席の意味”をめぐる静かな断絶を描きました。
義統の声は途切れず、資料も整っていた。 それでも、議場の空気は彼を受け止めなかった。
沈黙のうちに形を整えていた不信が、初めて言葉になった瞬間。 それは、義統が“場から外れていく”静かな断絶の始まりでもありました。
次幕では、その空席に初めて光が差し込みます。 言葉を携えて訪れる者が、場の空気を静かに切り替えていきます。
引き続き、静かな時間にお付き合いいただければ嬉しいです。




