第十八幕 『断絶の場と空席の意味』
第十八幕『断絶の場と空席の意味』
議場。いつもと変わらない開会の合図。
義統は静かに立ち、演壇へと歩み出た。
資料の束を握った手に、今朝までの確信がまだ少しだけ残っている。
「尾張の基盤強化と、課題改善のための予算案になります。
必要なところに必要な資源を届ける――そんな思いで調整しました」
言葉は途切れず、資料の順番も間違っていない。
でも、空気の手応えが弱い。誰も頷かない。誰も相槌を打たない。
視線をやった先で、ある議員が自分とまったく目を合わせずに隣の席に顔を向けていた。
その“ちょっとしたズレ”が、胸の奥をじくっと刺す。
—
信安は席に座ったまま、両手を組んでいた。
顔には何も表情がなかったが、義統にはその「無言」が重く見えた。
信友も、視線を紙に落としたまま動かない。
“あれ……届いてない?”
そんな感覚が、知らない間に言葉を濁らせる。
「行政系の再編成では……ええと、提出資料の17ページ、後ほどご確認いただければと思います」
資料のページをめくる音だけが、やけに大きく響く。
自分の声だけが、議場の中で浮いているような感覚。
—
議場で話してる」というより、”誰にも届いていない場所で話してる”ような気がしてきた。
資料の隅に、提出直前、事務局の担当者が付けた小さな書き込みがあった。
義統は、その数ミリの文字に目を止めた。
別に大事な箇所ではない。ただ、それでも誰かが一度“受け取った”痕跡だった。
“……この案を、まっすぐ進めようとしてくれてた人がいたんだ。
少なくとも――自分は、一人じゃなかった”
だが、演壇を降りるとき、一瞬だけ胸がふっと重くなる。
苦しいというほどではない。
ただ、“場から外れていく”ような寂しさが確かにあった。
—
控室のソファ。
義統は演壇を降りたあと、少し遅れて戻ってきた。
資料は腕に抱えていたが、何ページ目を見ているわけでもない。
机の上には、冷めかけた湯飲みとメモ帳。
周囲はいつも通り静かだったが――その“いつも通り”が胸にしみてくる。
「……うまくいかなかったな、今日」
誰に言ったわけでもない。
口に出した瞬間、それがひとりごとだったことに気づく。
秘書が空気を読んで言葉を選ぶ。
「議場の空気、ちょっと硬かったですね。でも、大丈夫ですよ。資料はちゃんと届いてますし」
義統はふっと笑った。
「“届いてる”なら、誰かひとりくらい目を合わせてくれてもよかっただろうに」
資料を開いて、話したときの項目を見返す。
句読点も、見出しも、整っている。
それなのに、そのページが――少し遠く感じられる。
椅子に深く座り直すと、右手が微かに震えた。
普段は意識しない細かい動きが、今日は妙に気になる。
—
議場の一角。
提出資料をめくる手が止まり、一人の議員がゆっくり言葉を発する。
「義統さんの知事としての行動は、最近どうにも曖昧だ。
尾張の将来を考えると、このままでは安定が危うい」
その言葉に、数人の議員が目線を合わせ、小さく頷いた。
「確かに最近の義統様の振る舞いには疑問を感じます」
「知事としての責任を果たしていないように思える」
空気が、わずかに動いた。
無視していたわけではない。
ただ、“沈黙のうちに形を整えていた不信”が、今、はじめて言葉として浮かび上がった。
その声は義統に直接向けられたものではない。
だが、議員と対峙する椅子に座る義統には、それが自分の立場へと向かう熱であることがわかっていた。
“そうか。もう、この場では……”
その続きを、心の中で結ぶことはできなかった。
そして別の一角。信友が資料の束をまとめながら小さく呟いた。
「“椅子に座ってもらう”だけで十分だ。あとは周囲が動かせばいい」
坂井大膳が穏やかに応じる。
「義統様には、今の“立場”を改めて感じていただくことになります。
そのほうが、尾張も落ち着きます」
信友はメモ帳に何かを書きながら、微かに笑った。
第十八幕、ご覧いただきありがとうございました。 今回は、言葉が届かない議場の空気と、“空席の意味”をめぐる静かな断絶を描きました。
義統の言葉は途切れず、資料も整っていた。 それでも、誰も頷かず、誰も目を合わせない。
沈黙のうちに形を整えていた不信が、初めて言葉になった瞬間。 その空気は、義統を“場から外していく”力として、静かに働いていました。
控室でのひとりごと――「うまくいかなかったな、今日」 その言葉が、資料の整いと空気の乖離を静かに映していたように思います。
次幕では、その断絶がさらに深く沈み、誰も動けない沈黙へと変わっていきます。 引き続き、静かな時間にお付き合いいただければ嬉しいです。




