上流貴族の令嬢として育てられた私が、家族に捨てられ婚約も破棄されたので家出したら、隣国の皇太子に一目惚れされて、気がつけば次期王妃の座に座っていた件
アナスタシア・レーヴェンタールは、生まれながらにして貴族社会の華と称された美貌と血筋を持っていた。だが、家の中での彼女は決して「お姫様」ではなかった。
「お姉様は優秀なのに、どうしてあんたはそんなに役立たずなの?」
姉のマルグリットは、文武両道・社交界の華。社交の場では笑顔を絶やさず、しかし自室に戻ればアナスタシアに冷たい視線と暴言を浴びせた。時に手が出ることすらあり、それを見た母は決まって言った。
「あなたがだらしないからよ」
父は仕事に没頭し、娘たちのことには無関心。愛情の欠片もない屋敷の中で、アナスタシアは孤独と無力さを噛み締めていた。
そんな彼女にも唯一の救いがあった。第二王子エドワールとの婚約だ。幼少期に政略的に決まったものではあるが、彼だけは優しかった。彼の存在だけが、生きる支えになっていた。
——だがその支えも、あっけなく崩れる。
「アナスタシア、君との婚約は破棄する。僕はマルグリットを愛している」
王宮での舞踏会の夜、婚約者のエドワールはそう宣言した。しかもその場には姉が同伴しており、彼女は勝ち誇ったように微笑んでいた。
「あなたには、はじめから無理だったのよ。王子妃なんて」
その言葉を最後に、アナスタシアはすべての希望を失った。
夜。寝室に戻った彼女は、ひとりで荷物をまとめる。宝石も衣服も持たない。ただ、数枚の金貨と、古いマントだけを鞄に詰め、屋敷の裏門から夜闇に紛れて姿を消した。
目的もない。ただ、この家から消えたかった。
馬車に隠れ、徒歩で山を越え、気づけば隣国グラディスとの国境を越えていた。だが、体は限界だった。飢えと疲労で視界がかすむ。村外れの道端で、彼女は膝をつき、そのまま倒れ込んだ——
「……! そこの君、大丈夫か!?」
声をかけたのは、漆黒の軍装を纏った騎士団の一団。その中心で、馬上にいた一人の青年がアナスタシアを抱き上げる。
「このままでは命に関わる。すぐに城へ連れて行くぞ」
——その男こそ、グラディス王国の皇太子、クラウス=フォン=グラディスだった。
***
アナスタシアが目を覚ましたのは、豪奢な天蓋付きの寝台の上だった。
「ここは……?」
「グラディス王宮内の医務室です」
現れたのはクラウス本人だった。軍装を脱ぎ、シンプルなシャツ姿で彼女の傍らに立っている。
「名を聞かせてくれ。君は何者だ?」
「……アナスタシア・レーヴェンタール。隣国の、レーヴェンタール侯爵家の娘です」
クラウスの眉がわずかに動いた。彼女の名に、明確な反応を示した。
「君が……。やはり、あの噂は本当だったか」
「噂?」
「王族同士の婚約破棄騒動と、侯爵令嬢の失踪。すでに隣国でも広く知られている」
彼はため息をついた。
「俺は君を保護した責任がある。だが、それ以上に——」
その視線は真っ直ぐで、まるで人の心の奥底まで見透かすようだった。
「君に惹かれてしまった。名も知らぬまま、倒れていた君を見た瞬間から、目が離せなかった」
「……!」
「だが無理強いはしない。ただ、君のすべてを知りたい。なぜここに、どうして国を捨てたのか」
アナスタシアは口を閉ざしたまま、ただ目を伏せた。誰にも話したくない。忘れたかったのだ。
***
クラウスは、無理には踏み込まなかった。数日間の療養の間、アナスタシアに寄り添い、距離を縮めていく。
だが——ある日、彼女の部屋を訪れたクラウスの表情は、これまでになく冷ややかだった。
「アナスタシア。君の家族について、少し調べさせてもらった」
彼の手には数枚の報告書があった。そこには、彼女の受けた仕打ち、家族の冷遇、姉の横暴、そして婚約者の裏切りが赤裸々に記されていた。
「君は何一つ悪くない。悪いのは、すべて君を蔑ろにした者たちだ」
「……だから、私は家を出たのです。復讐なんて望んでいません。ただ、静かに生きたいだけ」
だがクラウスは、静かに、だが鋼のような声で告げた。
「ならば、俺が代わりに復讐しよう。君のために。君の人生を取り戻すために」
アナスタシアは目を見開いた。これは、夢だろうか。それとも、本当の救いが訪れた瞬間なのか。
——ここで前編は終了。後編では、クラウスによる華麗な復讐と、アナスタシアの次期王妃としての覚醒が描かれます。
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アナスタシアが静かに暮らすはずだった日々は、クラウスの「代わりに復讐する」という宣言によって大きく動き出した。
──それは、冷酷な王子による宣戦布告だった。
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クラウスの動きは迅速だった。
まずは、グラディス王国を代表しての外交使節団を、隣国フィルデン王国へ送り出した。名目は「王家間の文化交流」だったが、実際の目的は別にある。アナスタシアの名誉回復と、彼女を傷つけた者たちへの“返礼”だ。
そして王国全土に広まる形で、公式声明が発表された。
> 「フィルデン王国レーヴェンタール侯爵令嬢、アナスタシア殿は、グラディス王国皇太子クラウス殿下の庇護下にある」
それはすなわち、アナスタシアに手を出すことは、グラディス王国そのものに刃向かうことと同義だった。
動揺したのは、レーヴェンタール家の人々だ。
「なぜ、アナスタシアが隣国の皇太子に?」
侯爵夫妻は狼狽え、かつて「出来損ない」と蔑んでいた娘が、まさか隣国の“王妃候補”になろうとしているなど、夢にも思っていなかった。
一方、アナスタシアを裏切った元婚約者エドワール王子は、思わず王の前で声を荒げた。
「これは……アナスタシアの陰謀だ!」
だがその言葉を、父である国王は冷たく切り捨てた。
「エドワール、お前はこの件に一切口を出すな。グラディスとの関係が悪化すれば、王国全体が危機に陥る」
そして、決定的な出来事が起きる。
クラウスが主導し、グラディス王国から“証人”を伴った公開記録が提出されたのだ。
・アナスタシアへの暴行に関する元使用人の証言
・マルグリットの買収と婚約乗っ取りの計画書
・エドワール王子とマルグリットの不貞行為を記録した密偵の報告書
それらはすべて、“証拠”としてフィルデン王宮に届けられた。
貴族社会は一気に騒然となり、マルグリットは外出禁止処分、エドワールは王太子の座を剥奪。レーヴェンタール侯爵家は国政から追放され、爵位の継承権も凍結された。
かつてアナスタシアを“役立たず”と罵っていた一家は、あっという間に崩壊したのだ。
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「……本当に、全部やったんですね」
グラディス王宮のテラスで、アナスタシアはクラウスに向き合っていた。春風に揺れる髪、少し紅潮した頬。心なしか、以前よりもずっと柔らかい表情をしていた。
「君を泣かせる者は、俺がすべて排除する」
クラウスはきっぱりと言った。
「君には、笑っていてほしい。愛されて当然の人間なんだと、自分で思えるように——」
アナスタシアの目が見開かれた。そして、かすかに潤む。
「……ありがとう。でも、私は、そんな……大層な人間じゃ……」
「関係ない。俺が君を選んだ。それがすべてだ」
そして、彼はひざまずいた。
「アナスタシア・レーヴェンタール。俺と婚約してくれ。君を、この国の王妃にしたい」
アナスタシアは、震える指で口元を押さえた。誰も信じてくれなかった。誰にも必要とされなかった人生だった。けれど今、この人だけは、心から彼女を「欲しい」と言ってくれている。
──涙が溢れた。
「……はい」
その一言に、クラウスは安堵の笑みを浮かべた。
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婚約発表の日。グラディス王国は、未曾有の祝賀ムードに包まれた。
広場に詰めかけた民衆の前で、クラウスはアナスタシアの手を取り、堂々と宣言した。
「この者が、俺の婚約者だ。彼女は次期王妃として、王国を支える存在となるだろう」
アナスタシアは、かつてとはまるで別人だった。背筋を伸ばし、凛とした瞳で民衆の視線を受け止める。彼女を侮る者など、もうどこにもいない。
──あの日、家から逃げ出した少女は、いまや一国の王妃として、堂々と未来を歩み始めたのだった。
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披露宴の夜。静かな庭園で、ふたりきりの時間を過ごしていた。
「……ねえ、クラウス。私、もう“悪役令嬢”って呼ばれてもいいと思うの」
「なぜ?」
「だって、その“悪役令嬢”って言葉がなかったら、あなたには出会えなかったから」
クラウスはくすりと笑って、そっとアナスタシアを抱き寄せた。
「君が悪役なら、俺は世界中を敵に回してでも味方になろう」
その言葉に、アナスタシアはそっと目を閉じた。
もう、誰の言葉にも傷つかない。彼がいる限り、どんな未来でも歩いていける。
そして彼女は——“悪役令嬢”から、“真の王妃”へと、生まれ変わった。