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Starlet――スターレット  作者: 白井かなこ
8/9

8 花火


 八月二十四日、土曜日、花火大会当日。

 リンさんは隣街の病院へでかけ、午後になって帰ってきた。

 身体はだるそうだったけれど、花火は絶対に見にいくと言い張った。


 打ちあげ場所の川までは、店からはけっこう歩くので、寺崎さんが車をだして送ってくれた。

 陽は沈んだばかりだった。土手をのぼる。生い茂った草は、俺のNIKEのスニーカーを通しても、やわらかい感触を足に与える。ふかふかでちくちく。気持ちがいい。


 土手のてっぺんまで上ると、夕闇の中、川が青白く光っていた。ほんのりと明るい空からの残照を受けて、今日という日の最後の明かりで、川が輝いている。


「川が、発光する蛇みたい」


 リンさんがつぶやいた。ああ、本当に蛇のようだ。ぬらりと光る蛇――。

 そうだ、前にこんな夢を見たっけ。川なんて俺の家の近くにはないのに、こんな夢を。

 あのころから時は、大きく隔たってしまった。うんと遠くへきてしまった。

 俺にとっては過去である未来の記憶を持ったまま、現在という過去に生きている。


 いつか見た夢を思いだしながら、俺はリンさんに言う。

「川、ホント蛇みたいですね。ゆるやかに曲がりくねってるし。雲はなんか、金色のライオンぽい」

「あの大きな雲でしょ? 金に光ってて、ライオンていう表現がぴったり。賢介くんて、詩人ね」

「賢にいは詩人じゃないよ。あの雲はどう見ても、ソフトクリームだもん」

「香世は、花より団子だな」

 からかわずにはいられない。香世が顔をくしゃくしゃにして、イーッと舌をだす。リンさんに着せてもらった浴衣姿がかわいい。リンさん自身はジーンズ姿だった。いつもは後ろでひとつにしばっている髪を今日はおろしていて、ときどき風になびいている。

「ね、シート敷こう。香世、そっち持って」

「はーい」


 花火を見る場所取りをしていると、やがて〝炭鉱節〟が流れはじめた。やぐらからは威勢のいい太鼓の音が鳴り響き、その下では浴衣姿の人たちが輪になって踊っている。川岸にはずらっと、露天商が並んでいた。

 大勢の人波が、店先をゆっくりと歩いていく。

 ふだんは静かなこの町に、これほど人が集まるなんて。いったいこの人たちは、どこから集まってきたんだろう。言葉どおりにお祭り騒ぎだ。


 いつしか陽はとっぷりと暮れ、蛇のようだった川も、漆黒の流れとなった。

 車を置いて、遅れて合流した寺崎さんと四人で、露店を見て歩く。焼きそばや、たこ焼きなんかを買った。香世は金魚すくいをやりたがったけれど、寺崎さんがオッケーしなかった。代わりにスーパーボールすくいをやって、色とりどりのボールをゲットした。

「これがいちばんキレイ」

 透明のスーパーボールを俺に見せる。ラメが入っていて、きらきらしている。

「めずらしいスーパーボールでしょ? 今日の思い出に、あたし、だいじにするんだ」

「え? 俺にくれるんじゃないの?」

「あげないもん。あたしのだもん」

 香世は、たくさんスーパーボールの入ったビニール袋ではなく、手にした赤いちりめんの巾着袋に、だいじそうにそいつを入れた。


 土手に上って、さっき陣取ったビニールシートに座る。花火は川の下流であげられるそうで、この場所は打ちあげ地点のわりとそばだった。

「やっぱり、かき氷もほしい」

 座ってから、香世が言いだした。

「ラムネ買っただろ? がまんしろ」

 祭り太鼓が勇ましく鳴る中、寺崎さんがすかさず制す。

「やだ。花火には、いちごのかき氷がなきゃ、やだ」

「しょうがないな。はいはい。じゃ、一緒にいってあげるよ」

 寺崎さんはしぶしぶ腰をあげ、香世とふたりで出店のほうへと下りていった。

 昼間の暑さは身を潜め、川岸からは涼しい風が吹いていた。今夜は熱帯夜ではないらしい。膨らんでいく月が、白く輝いている。

 俺はこのときとばかり、リンさんに訊いてみることにした。


「病院、どうでした?」

「あのね……実は、産婦人科へいってきたの……わたし……妊娠してた」

「……それって、美術史の……先生との子どもですか?」

 出店の明かりだけでも、うなずいたリンさんが困ったように笑っているのがわかった。


 妊娠……リンさんのお腹の中に、やっぱり俺がいるのだ。


「すみません、店の仕事、もっとがんばればよかった」

「ううん、賢介くんは、よくやってくれてるわ」

 モーターの音と人々の喧騒が、リンさんのため息を隠そうとした。

「もしホントに妊娠してたら、堕ろそうかと、悩んでいたの」


 俺を、堕ろそうとした? 


「結婚もまだなのよ。おまけに彼はロンドンなんて遠くにいるし、わたしひとりで不安だったの。ものすごく、怖かったの」

「それで、どうするんですか?」

「彼に電話したの。打ち明けたら、とっても喜んでくれた」

 あの父さんが、俺の命が芽生えたことを、喜んだ?

「彼にね、産んでくれって言われたの。日本に帰って、駆けつけるからって」

 父さん馬鹿だ。まさか俺が産まれることで、リンさんの――母さんの命を奪うとも知らずに。

「でもね、やっぱり不安。マタニティーブルーってやつかな」

 苛立ちを覚えた。心がかすかすになって、風穴を求める。


「……堕ろしちゃえば?」


 自分でも驚くほど冷たい声だった。

「ちょっと、簡単に言わないでよ」

「だって、出産て、命をかけてするものでしょ? そんな弱気で、ちゃんと産めるはずないですよ。死ぬかもしれないんですよ?」

 俺を産んだら死んでしまう。そんなの嫌だ。

 だったら俺なんか産まずに生きてくれよ。生きて、父さんのそばにいてくれよ。

 自分の命を、もっとだいじにしてくれよ――。


 リンさんはしばらく黙ったあと、静かに言った。

「やさしいね、賢介くんて」

「やさしい? 俺が?」

「心配してくれてるのよね。ただちょっと、その表現がうまくできないだけなんだね。もったいないよ、それって。損してる」

 リンさんの言葉に、俺はちゃんと事実を話そうと決心した。

「俺の母さんは、俺を産んだときに死んだんだ……だから、こんな俺が生まれてきてもよかったのかって、母さんを殺してまで生まれてきた価値があるのかって、ずっと思ってる」

「そうだったの……でもね、その価値を、命の大きさって考えたら、みんな同じなんじゃないかな」

「命の大きさ?」

「うん。賢介くんも、香世も、シェリーも、お腹の中のわたしの子も、みんな命の大きさはおんなじなのかも。生まれてきた価値があるかなんて考えると怖いけど、それはさ、どう生きるかってことにもなるんじゃないかな」


 川の上流で鐘の音が聞こえた。目を凝らして見ると、半被を着て小さな釣鐘を持った人が川岸にいた。その後ろには、袈裟を纏った坊さんが佇み、さらに後ろにも、たくさんの法被をきた人たち。

しばらく様子を見ていると、坊さんが唱えるお経の中、川に小船がだされ、小舟の上から蝋燭の明かりが次々に水面に浮かべられた。


「灯籠流しよ。亡くなった人の魂が、川に送られていくの」


 ここでいう来年の四月に、俺は生まれる。そのとき、リンさんは死んでしまう。

 来年の今日には、こうしてリンさんも光となって、川面を漂っていくんだ。

 それが運命というなら、変えることはできないんだろうか。


 数えきれないほどの灯籠流しの明かり。それはまるで、水面に金の星がゆったりと浮かんでいるようだった。リンさんの……母さんの描いたあの絵を現実のものとして、俺は今、目にしている。


 ぽんっ、という音がした。

 下流のほうを見あげる。暗い夜空に、大きな花火が咲いた。

 ほんの刹那、夜空に生まれた花は、まぶしさを目に残したまま散ってゆく。たくさんの火薬が星屑のように、しゃらららと落ちてゆく。

 そして次の花火があがり、隣のリンさんの顔を照らして、また星屑のように散ってゆく。


 俺は、陽一を事故から回避させた。香世を助けた。

 俺なら、三人目の命を救えるかもしれない――俺の、母さんの命を。


「場所、わかんなくなっちゃった」

 寺崎さんと一緒に、香世が現れた。

「香世ってば金魚すくいやりたがるから、遅くなっちゃったよ」

 浴衣姿の香世は、金魚すくいのビニールを手にしていた。

「二匹しか取れなかった。ね、この金魚、リンねえのお店の鉢で飼ってもいい?」

「いいけど、ザリガニと一緒じゃ、食べられちゃうよ?」

「じゃあ……ザリガニ、逃がす!」

「いいの? お母さんにいつか、食べてもらうんじゃないの?」

 リンさんが驚く。

「いいの。だってお母さん、来週には退院できるんだって」

 シートに座った香世と寺崎さんのうれしそうな顔が、花火に照らされた。


 いちごのかき氷のひとつは、リンさんと俺のぶんだった。ひとさじすくえば氷の冷たさが、舌の上にひんやりとしみわたる。冷たい甘さが、とてもおいしい。

「リンねえ、あたしがいないすきに、賢にいのこと口説かなかった?」

 隣でその言葉を聞いた寺崎さんが、ふいに咳きこんだ。

「香世! おまえはいつから、そんなませた言葉を使うようになったんだ」

「あ、いつものことですから」

 俺が何気なくこたえたら、「不躾な娘ですまん」と、寺崎さんが頭を下げた。

「なんか賢介くんてね、家族みたいな感じ」

 楊枝に刺したたこ焼きを冷ましながら、リンさんが言った。花火の明かりに照らされたその表情は、微笑んでいる。

「知らない赤の他人、じゃなくて。とっても近しい、弟みたい」

「自分の子ども、じゃなくて?」

 一応、訊いてみた。

「なに言ってるの。あなたみたいな大きい子がいるように見える?」

 花火のあがる音の中、リンさんはたこ焼きをほおばった。熱そうに食べたあと、ビニールシートの上に正座した。


「わたしから発表があります。わたし、赤ちゃんができました! 入籍はこれからです」


「えっ! それはそれは……おめでとう!」

 寺崎さんの言葉につづいて、香世がすかさず「それってインテリ親父との子?」と言ったものだから、寺崎さんが香世の頭を軽くこづいた。

「そう」

 にっこりと笑みを浮かべる。


「わたしの中に命が宿っているなんて、とっても不思議。今日わかったの。わたしはこの身体の中に、宇宙を持っていると思うの」


「宇宙?」

 香世が訊くと、リンさんはうなずいた。

「命はどこからくるのか、わからないけれど。もしもこうして見あげる空に神様がいるのなら、きっとたぶん宇宙にいて、どの親に生まれてくるかを、赤ちゃんと一緒に決めているのかもしれない。その宇宙のつづきが、このお腹の中なの」

 そっと、お腹に手を置いた。

「だからこのお腹はね、宇宙」

「もしかして、あたしのお腹も?」

「そうだぞ。大きくなったらな」

 寺崎さんが言った。リンさんが、やさしい声をだす。

「お腹が宇宙なら、その中にいる赤ちゃんは、小さな星なんだわ」

「小さな星?」

 あどけない声がして、リンさんが香世の髪をなでる。


「うん。スターレットよ」

「Starlet……」


 思わず俺はつぶやいた。カフェの名前とおんなじだ。

 俺はかつて、母さんにとって、ここにいるリンさんにとって、小さな星だったんだ。

 俺は、十八年前、小さな星だった――。


 夜空を見つめた。膨らんでいく月がいる。いくつもの星が輝いている。

 そして花火は、次々にあがっていた。大きく開いては消えていく。

 小さな星のような光を撒き散らして。煙を風が押し流す。その煙さえまだ漂ううちに、次の花火があがる。

 はかなく消えるからこそ、美しさがいっそう際立つ。せつなすぎる。これが母さんと見る、最初で最後の花火だなんて。


「あ。見て見て。灯籠流しがキレイ。リンねえの絵とおんなじ」

 はしゃぐ香世に、「星みたいよね」、リンさんが言った。

「星だった命は、星に還るのね」

 川面を漂う、金色の星。来年の今、リンさんが星になって川面に浮かぶなんてこと、あってほしくはない。

 どうすればいい? 

 リンさんを説き伏せて、万が一お腹の子どもを堕ろすことができたとすれば、俺は生まれてこない。  

 でもその代わり、リンさんは生き延びる。

 俺は夢中で焼きそばをかきこんだ。ぐるぐるにからまった麺。ぐるぐるにからまる、俺の思考回路。 

 なあ、陽一。俺、今、焼きそばだ。

 焼きそばのスパイラルに、捲きこまれているよ。どうすればいいんだ?


 リンさんに、母さんに生きてほしいのは本心だ。でも、俺は死ぬのが怖い。この世界からいなくなるのが怖い。俺なんか最初からいなくてもよくて、誰からも必要とされないだなんて、そんなの怖する。

 俺は生きたいんだ。母さんを死なせたくもないんだ。

 そう。そこにこたえがあるんだ。

 

 

 リンさんを店で降ろし、俺は寺崎さんの車で彼の家にいった。金魚をバケツに泳がせた香世を風呂に急かせ、寺崎さんとリビングでふたりきりになった。

「考えたんですが、俺、未来へ帰るとき……リンさんを連れていきます」

「リンちゃんを?」

「自転車の荷台に乗せて、ふたりでいきます。それしか方法がないんです」

「なんでリンちゃんを?」

 ひきつった表情の寺崎さんに、俺は言った。


「あの人は……俺の母さんなんです」


「なんだって?」

「リンさんのお腹にいるのは、この俺なんです。出産のときに、リンさんは……俺の母さんは、死ぬんです。出血多量だったそうです。それを知っておきながら、未来へ還るわけにはいきません!」

 寺崎さんは絶句した。しばらく黙った後、重い口を開いた。


「つれていって、どうする気だ?」

「未来へいけば、今よりも医学が進歩しているはずです。未来で出産すれば、助かるかもしれません」

「それはそうかもしれない。けど、賢介くんはこっちへくるときに、身体にかなりのダメージを受けたんだろう? 妊婦のリンちゃんに、耐えられるか……」

「その不安はあります。でもここにいたって、俺を産めば来年の四月には死んでしまうんです。俺がこの時代にきた意味は、リンさんを救うためだと思うんです」

 まくしたてる俺を前に、寺崎さんが言葉につまった。やがて首の後ろに手を当てて、まいったというようにため息をついた。

「乗り物の加速がいるな……いや、バイクなんかの重さはリスクになるだろう。どれだけ軽量かが大切だな。自転車で、とにかくこぎまくってスピードをあげるんだ。リンさんを後ろに乗せて、華奢なきみにできるか?」

「俺だって男ですよ。それくらい、やってみせます」


 寺崎さんは俺の目をじっと見つめると、静かにうなずいた。

「きみがそこまで言うんなら、やってみろ。ただし、命の保証はないぞ」

 命の保障――その言葉が重くのしかかる。

 けれど。俺を産むせいで、リンさんの命が消えるなんて、絶対に嫌だ。だったらすこしでも可能性のあるほうに賭けてみたい。

「……はい」

 強い緊張が全身をつらぬく。俺は大きく深呼吸をした。そんな俺を、寺崎さんが固い表情で見ている。


「わかるか? リンちゃんがここではなく、十八年後の未来で出産するということは、今の賢介くんは存在しないことになるんだぞ?」

「俺が、存在しない?」

「そうだ。今のきみは、来年の四月に生まれたからここにいる。リンちゃんが十八年後の未来へいったなら、その瞬間に、きみは消滅するということになる。生まれるのが先になるってわけだよ。それでも、いいのか?」


 俺が、十八年後に生まれる――歴史が塗り変わるんだ――。

 父さんには会えるとしても、陽一や笹倉沙知と同じクラスになることはない。一緒に曲をつくること も、文化祭でライブをやることも不可能だ。


 高校二年の俺は、未来へ帰っても存在しない。陽一だって笹倉沙知だって、俺のことを知りもしない。だいいち、この記憶さえなくなるのだろう。今の俺は消滅し、リンさんのお腹の中にいるのだから。


 待てよ……未来の俺がいなければ、陽一をバス事故から救えない……。

 いや、ちがう、大丈夫だ。俺がいなければ、陽一はバスに乗ったりしない。

 問題は、香世の命だ。溺れているところを、俺が見つけなければ……。

 いや、これもちがう! あのとき一緒に香世を助けた、犬をつれたおじさんが見つけるんだ!

 俺がいなくても、ふたりは助かる。なんだ、これ。なんなんだ、これ。

 ふたりの命を救ったなんて、ヒーロー気取りだったんじゃないのか、俺。


 ちがう、そんなことを気にしている場合じゃない。

 今は自分の気持ちじゃなくて、リンさんの問題だ。

 リンさんが死ぬより、俺が十八年後に生まれたほうがずっとずっといい。

 俺はまた、生き直せばいい。


「……リンさんの命がたいせつです。リンさんが助かるなら、それでいい」

 寺崎さんが、俺の目をのぞきこんだ。

「よし……わかった。僕は未来で、現場に医者を手配するよ。母体が心配だ」

「お願いします。あ、でもタイムスリップできたとしたら、ウロボロスが落ちる未来の場所が、こっちと同じ場所だとは限りませんよね? もしかすると、父さんを思い浮かべたら、父さんのいる俺の家に落ちるかもしれない」

 寺崎さんが、大きくため息をついた。

「そうか……だったらさ、〝カフェ・スターレット〟を思い浮かべてみて。賢介くんはこの前、友だちを思いだして、念じて、それでその子に会えたんだろ?」

「はい。消しゴムを未来から取ってきたし、あいつの手の感触もまだ憶えてます」

「場所も自在に操れるんだろうね」

「そうだと思います」

 確証はない。それでも、やるしかないんだ。


「じゃあ、〝カフェ・スターレット〟を強く念じてみます」

「うん。それから向こうに還る時間は、賢介くんがこっちにきた日の、翌日がいいだろう。月の昇る夜がいい。というのもね、同じ日に同じ人間がいると、大きなエネルギーが生まれて時間軸に弾き返されると考えられるんだ」

「でも、現に今、リンさんのお腹の中と、この俺、ふたり存在しますよね?」

「きっと、お腹の中の賢介くんが小さいから、目に見えた問題はないんだろう。もちろん仮定だけれど、用心に越したことはないからね」

「時間をコントロールするなんて、どうやって?」

「えーっと……」

 寺崎さんがまた、大きくため息をついた。

「それも念じるしかないだろうな。日付に意識を集中させて……。計器がきみにも自転車にもついているわけじゃないんだ。それしか方法はないよね」

「……ですよね……」

 結局、すべては俺の、不確かな力にかかっているんだ。


 ぼとん、とんとんとんとん……。

 なにかが落ちる音がした。足もとに、まるい玉が転がってきた。

 透明の、ラメの入ったスーパーボール。

 寺崎さんがあわてて立ちあがった。

 リビングの入り口に、浴衣姿の香世がいた。寺崎さんをじっと見ている。


「リンねえが死ぬって、どういうこと? 賢にいは、いったいどこからきたの?」


「香世、落ち着いて」

 肩に置こうとした寺崎さんの手を、香世はふり払った。

「なんなの? なにがどうなってるの? どうしてリンねえが死んじゃうの?」

「風呂に入ったんじゃなかったのか?」

 寺崎さんの問いに、香世は頭を横に振った。

「浴衣の紐ほどけなくて……やってもらいにきたのっ!」

 涙声が響く。

 寺崎さんは香世をリビングの椅子に座らせた。それから俺が未来からきたこと、リンさんが俺の母親で、お産のときに死ぬということを、正直に話した。

香世は泣きじゃくりながら訊いた。

「十八年後って、日本はちゃんとあるの? ノストラダムスの大予言は?」

「なんにも起こらなかった。なんにもね。だから、俺がこうしているんだ」

「でも、賢にいが未来からきたっていう証拠は? これから先、どんなことが起こるの?」

「言わなくていいぞ。まだ起きていない歴史の事実を、この時代の僕たちが知る権利はないんだから」


 俺は考える。東日本大震災、放射能汚染、ハイチ大地震、インド洋大津波……それから911同時多発テロ……とても知って幸せな気持ちになる出来事じゃない。悲惨なことが、なんて多いのだろう。

「そうだ。二〇二〇年に、日本でオリンピックが開催されるんだ。きっと盛りあがるよ。お札も変わる。樋口一葉とか。源氏物語の二千円札もでるけど、あんまり流通しなかった。パソコンと携帯電話、ていうか、スマートフォンていうのを、みんなが持つようになる。便利だよ。大きい地震だって、起きる前に速報で知ることができるんだ」

「……ふうん、なんだかピンとこない」

 手で涙をぬぐいながら、香世が言った。俺はつづける。

「そういえば、冥王星は惑星から外されるよ」

 驚いたのは寺崎さんだった。それから娘の前で動揺を隠そうと、

「全部、秘密だぞ。香世、誰にも言うなよ」

 と、念を押した。

「誰にも言ったりしないよ。タイムスリップなんて、誰も信じないし。それより……」

 俺のことを見つめる。大きな黒い瞳で。


「賢にいのいた未来は、十八年後だから……」

 指折り数える。

「あたしは二十九歳か。なんだ、あたしのほうが、賢にいよりもずっと年上じゃん。なーんだ」

 香世はにっこりと微笑んだ。目が、力強く光っている。

「リンねえを未来へつれていって。助けてあげて。あたし、なんでも協力するから。賢にいは命の恩人だもん。ちゃんと、借りをかえさなくちゃ」

 俺たちは、作戦を練った。どうやって〝ウロボロス〟にリンさんを乗せるべきかを。


 空では膨らんでいく月が、煌煌と輝いていた。

 満月まであと五日。

 一九九六年八月二十九日。満月のその日に、俺は未来へと還る。




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