7 ウロボロス
次の満月は、八月二十九日。あと一週間だ。
その日に俺は、未来へ還れるだろうか。
今日の香世は、スケッチブックを持ってきた。
「絵の宿題があるの。午前中のほうが涼しいから、先にやっちゃう」
「それはいいけど、なに描くんだ?」
「カフェ・スターレットだよ。外でね、このお店を写生するの。赤い屋根に白い壁が、とっても好き。それからポストの上の、風見鶏も」
リンさんが「うわぁ」と、明るい声をあげた。
「うれしいな。香世が描いてくれるなんて」
「上手に描けるかわかんないけど。賢にいは、絵、上手?」
「俺? うまいよー」
「ふうん。でも、リンねえには勝てないよ。美術の大学をでてるんだから」
そう言うと香世は麦藁帽子をかぶり、表へ飛びだした。
美大か。母さんと同じだ。
リンさんは、俺の母さんと共通点が多すぎる。
津軽三味線を弾ける。リンさんの彼はロンドンにいると聞いた。
俺の父さんも昔、ロンドンに住んでいたことがある。
まだ本人に確認したわけではない。なんの確証もない。けど、胸がばくばくする。
「賢介くんも、描いてみない?」
リンさんが言う。絵か――描いてみたい。俺は素直に「はい」とこたえた。
「廊下の突きあたりの納戸に、新しいスケッチブックがあるの。棚の上には、デッサン用の鉛筆もあるから、好きに使って」
「ありがとうございます」
はじめて入る納戸には、油絵の具やイーゼルや、白いキャンバスがあった。
使い古しのスケッチブックを開いてみると、人物や静物のデッサンが描かれていた。
美術大学にいっていただけあって、うまい。モチーフの形を正確に捉え、鉛筆だけで描いたのに、質感も文句なしにでている。俺とは比較になんかならない。
……がんばってみたい。なんだか無性に絵が描きたくなってきた。
新しいスケッチブックは、壁に立てかけてあった。その隣には、大きな布がかぶせられた四角いものがある。これもリンさんの描いた作品だろう。
見てもいいものかどうかという迷いは、見たいという欲望に負けた。
布を、そっとはだく。
中から現れたのは、畳二畳ほどの油絵だった。
大きな川が流れ、川面には灯籠が浮かんでいる。うす蒼い空に星がまたたき、まだ昇る前の太陽だろう、光が水平線からあふれている。
妖精らしき姿をした者が飛び、深い緑の森が広がる、幻想的な絵――。
ばあちゃんの話を思いだした。母さんの卒業制作と、同じような構図だろうか。
動悸が激しくなる。生唾を呑みこんだ。
リンさんが、ほんとうに俺の母さん?
訊かなければ。勇気をだして、訊かなければ。
俺が家をでたのは、この絵に会うためなんだ。この絵を描いたのは、誰かってことが知りたいんだ。
急いで店へ戻る。
「あの、納戸で見ちゃったんですけど……大きな油絵、妖精が飛んでるようなあの絵、誰の作品ですか?」
「あれね、わたしが描いたの。大学の、卒業制作」
「美大の?」
「うん。この店のオーナーって、議員さんなんだけど。その人が気に入ってくれてね。是非とも役場に飾ろうって言われたんだけど、手放せなかった」
議員さん? ばあちゃんも、そう言っていた。
「あの絵ね、わたしの彼が、すごく好きだって言ってくれて。だから手放すのはやめたの」
「彼って……なにをしてる人ですか?」
声が震えないように神経を使った。でも、手が震えている。喉が渇いてはりつく。
「わたしが学生のときにお世話になった先生。描くほうじゃなくて、美術史が専門なの。今はロンドンの美術学校にいるわ」
そう言って、ふふふと笑った。俺は最後の確認をした。
「そういえば、リンさんの名前って、どんな字ですか?」
「倫理の倫で、ノリコなの。前にいたバイトちゃんもノリコだったから、区別がつきやすいように、わたしがリン、ってなったの。そしたらすっかり定着しちゃって」
「ノリコさん……そうなんですね」
俺は笑ってみせた。笑うしかない。倫子――リンさんが、ほんとうに俺の、母さんだ。
そんなの、郵便物の宛名を見れば、簡単にわかることだった。だけど俺はそうしなかった。わかりたくなかったんだ。
「リンさん……この絵、店に飾りましょうよ。もったいない。たくさんの人に見てもらえてこそ、絵も生きるんじゃないですか?」
「うわ、ありがとう! 誰かにそう言ってもらいたかったの。自分から飾るなんて、恥ずかしくて」
リンさんの指示どおりに、インド製のタペストリーをはずした。工具を借りて、白い壁に大きな絵を飾る。
「作品名、なんていうんですか?」
「これね、〝朝陽ワルツ〟っていうの」
俺はカウンター席に座り、ペンケースを開けた。2Hとか6Bとか、いろいろな濃さの鉛筆がたくさん入っている。それから練り消しも。
新しいスケッチブックに向かう。
なにを描くか、なにが描きたいか、ひとつしかなかった。
花嫁姿の写真しかない、母さん――リンさんの顔だ。俺は鉛筆を走らせた。へたでもいい。今の、ちゃんと生きている母さんの姿を、描き止めておきたかった。
リンさんは照れながらも、肖像画を描くことを了解してくれた。「仕事があるから、じっとモデルはしてられないからね」と、訪れる客にコーヒーを淹れたりした。
「上手ね。誰の血筋?」
まだ途中の絵を観て、リンさんが訊く。俺は正直にこたえた。
「ありがとうございます……母親です」
「お母さん、今も描いてらっしゃるの?」
そう聞いて、鉛でも飲みこんだように胸が重くなった。
「描いてませんよ、今は」
そう、描いてない。もう、死んでしまったのだから。
リンさん、あなたのことなんだよ。
俺はあなたが産んで、そのためにあなたが死ぬことになる、あなたの子どもなんだよ。
――母さん。
呼びたくなるのを、ぐっとこらえ、右手をどんどん動かした。
リンさんというモデルを、自分の目でしっかりと見る。
その眉毛、その瞳、まつげ、鼻、唇、髪の毛。
目の前の母さんに触れるように、俺は母さんを写し取ってゆく。頬をなでる。髪を梳かす。会えるはずのなかった母さんに、俺はこの手で触れてゆく。
今の時代の母さんは、計算すると二十四歳だ。その年で十七歳の子どもだなんて、ありえない。でも、出会ってしまったんだ。俺は、リンさんに――。
「そうだ。ね、賢介くんの自画像も描いて」
リンさんが言った。リンさんをモデルにしたデッサンを描き終えて、サインと今日の日付を入れたころに。
だから鏡を見て、俺は自分の顔も描きあげた。
「暑くなっちゃった」
香世が表から入ってきた。リンさんにミルクセーキをねだり、がぶがぶと飲む。飲みながら、香世の目が壁の絵に止まった。リンさんの〝朝陽ワルツ〟だ。
コップをカウンターに置き、香世は絵に吸い寄せられるように近寄った。
「キレイ! リンねえの絵?」
「大学の、卒業制作だって」
代わりに俺がこたえた。
「やっぱりじょうず! これ、妖精?」
香世の問いに、リンさんが「うん」と、頭を縦に振る。
「すごいな、リンねえ。あ、でも……」
俺の前のスケッチブックをのぞきこむ。
「この賢にいの自画像も、リンねえの似顔絵も、うまいよね」
香世はカウンター席に座ると、自分のスケッチブックを鞄にしまいこんだ。
「なんだよ、香世のも見せてみろよ」
「え、だって、ふたりとも上手だから、恥ずかしい」
「いいから。自分だけ見せないなんて、ずるいぞ」
「ええー」
「香世、見せてちょうだい」
「えー、リンねえが言うんなら、しょうがないなあ……わかった。じゃあ、はい」
香世がスケッチブックを広げると、カウンター越しにリンさんがぼそりと言った。
「……うん、なかなか、いいんじゃない? 個性的で。ね?」
つづきのコメントをふられた。う、ずるい、俺にふるなんて。
「そうだな……絵の具で色をつければ、よくなるかも」
「賢にい、かもってなに、かもって!」
なんだかんだ大人ぶっても、ガキの絵だった。いや、それにしても、へたすぎる。屋根は今にも崩れ落ちそうで、壁だって倒れてきそうだ。
「いいもん。もうお昼だから、あたし、おうちに帰るもん」
スケッチブックを鞄にしまうと、香世はドアへ向かって歩きだした。
「気をつけて帰れよ」
「うん。あ、そうだ。あさっての花火大会、リンねえと賢にい、一緒にいこうよ」
「花火?」
「そうだよ。町のはずれの河原であるの」
河原……そういえば、大きな川があった。
「うちのお父さんも一緒にね。お母さんがまだ退院できないから、ふたりじゃつまんないの。ね、リンねえも」
「いきたいけど……どうしよっかな……」
カウンターの奥からでてきたリンさんの、戸惑った返事。思いきって、声をかけてみよう。
「お店休みにして、いきましょうよ。どうせ常連さんたちも、花火いっちゃうでしょ?」
母さんと花火を見られるなんて、最初で最後のことなんだから。
俺がこの時代に残ったとしても、リンさんは来年の俺の誕生日には、死んでしまうのだから――。
「俺、リンさんと花火、見たいです」
一瞬、時間が止まった気がした。すこしの間のあと、香世が「あーっ!」と叫んだ。
「賢にい、今、告白した! リンねえを、デートに誘った!」
「ちがうよ、そうじゃない」
「言っとくけどね、あたしが先にリンねえを誘ったんだから。賢にいなんて、ついでなんだから!」
「香世、怒るなって。香世からリンさんを取ったりしないから」
「賢にいにリンねえはあげないし、リンねえにも賢にいをあげないからね!」
顔をほんのり紅く染め、口をへの字に曲げた。
「わかったから。香世は欲ばりだな」
俺は香世の頭をなでた。麦藁帽子を被った頭を。子どのくせに、いっちょまえに〝女〟の面もある。それでも、かわいい、そう思うことは事実だった。
「みんなで花火。約束ね」
念を押すように言った香世がドアを開けると、ベルがちりりん、と鳴った。とたんに外の熱気が、もわんと入ってくる。
「暑いな。こんな中で、よく写生できたな」
「えらい?」
「ああ、えらいぞ。でも熱中症、気をつけなきゃな」
肩を、ぽんぽんと叩いた。真夏の太陽と、青空と、蝉時雨。その中に、香世がいた。
白いノースリーブのワンピースからでた腕も足も、こんがりと焼けている。麦藁帽子をかぶった少女は、本当に夏という季節に合っている。エネルギーそのものみたいで。
「じゃあね、賢にい。お昼食べたら、今度こそ、計算ドリルね」
「お昼もここで食べていく?」
店の中から声をかけたリンさんに、香世は頭を横にふった。
「いいの、シェリーのお水、替えてあげたいし」
「そっか」
「昼寝しないでくるんだぞ」
「わかってまーす」
ドアを開けた香世につづいて、俺も外へでた。
駐車場で、小さくなっていく後ろ姿を見送ったところで、そよ風に吹かれた。そのゆく先を追いかけるようにして、ふり返った。揺れる百日紅の花を見やる。真夏の光を浴びて、鮮やかなピンクが咲きほこっている。
「……母さん」
声にだしてみた。やさしくて、頼もしくて、そこそこきれいで。
会えてよかったよ。だから、離れるのが悲しいよ。
鼻がつんとしたから、空を見あげた。
真っ青な空に浮かぶ入道雲に向かって、飛行機が飛んでいた。ゆっくりと飛ぶ銀色の機体が動く様は、時間の経過を見ているようだった。
流れる雲も、咲く花も、枯れる花も、暮れる太陽も、昇る月も、すべては移ろいゆく時間を、目に見せてくれている。
突然、こんどは大きな風が吹いた。からからと、ポストの上の風見鶏が回った。ああ、そうなんだ。これって、父さんからのプレゼントなんだ。父さんて、ロマンチストだったんだな。俺は父さんを、なつかしさを持って思う。
俺の知らない父さんが、まだたくさんあるんだろう。そう気づいて、心がぱつぱつになる。
俺は拒絶するばかりで、なんにも見ようとはしていなかった。目を閉じているだけだった。見えていないくせに、反抗ばかりをして。
――還りたい、未来へ。
その日の夜、俺は厨房でもくもくと、いんげんの筋を取っていた。
畑で今日採ったばかりだ。スーパーで売っているものと違って、風で傷ついてところどころ茶色くなっていたり、たまには虫くいがある。でも、無農薬で素朴なところがいい。
俺の隣では、リンさんがナスを切っている。今夜はカレーだ。リンさんは、カレーにナスを入れるのが好きだと言う。
ナスはここのところ、毎日食べている。昨日は油で焼いて醤油とからしで、おとといはマーボーで、ナスを食べた。毎日食べても、ぜんぜん減らない。きゅうりも、トマトも。
畑をやるってことは、つまりはそういうことだって、リンさんに教えられた。毎日が同じ野菜との追いかけっこで、どう料理するかが勝負なんだって。
たまに馴染みのお客さんにあげることもあるけれど、このへんの人はだいたい畑をやっているから、あげても〝ありがた迷惑〟になってしまうらしい。畑のない、香世の家は別だけれど。
リンさんは喫茶店の主らしく、料理の手際がすごくいい。ハウスキーパーの絹江さんなんかより、ずっときびきびしている。リンさんが知ったら、どう思うんだろう。自分のダンナが、再婚するだなんて。
電話が鳴った。俺は居候兼バイトらしく、率先して受話器を取った。コードレスだけど、馬鹿でかい子機。
「はい。〝カフェ・スターレット〟です」
「こんばんは。あら、新しいアルバイト?」
おばちゃん系の声が聞こえた。
「はい、そうです」
「あら、男の子を雇ったのね。よろしくね。それで、うちの娘いる?」
「え?」
「ノリコだよ。いる?」
「え、ばあちゃん?」
「やだね。私はまだ、おばあちゃんなんて年でもないよ。孫もいないのに。ノリコの母親よ」
「あ、すみません。ちょっとお待ちください」
電話をリンさんに向けた。「お母さんですよ」って。リンさんは黒いサロンエプロンで手を拭いてから受け取ると、話しはじめた。
ばあちゃんだ。俺の、ばあちゃんだ。声が若かった。元気なばあちゃんだ。ああ、胸が震える。
「あさって、お店休みだから、ついでに病院いってみる。だいじょうぶだよ、ひとりでも」
リンさんはそんなことを言いながら、電話を切った。
「どうかしたんですか? 病院て、リンさん、具合悪かったんですか?」
「たいしたことないけど、夏バテみたいだから、寝こむ前に診てもらおうと思ってね」
リンさんの声を聞きながら、俺はカレー用に玉葱を切りはじめた。
リンさんは、ばあちゃんの娘。俺は、リンさんの息子。
母さん、そう呼ぶには、リンさんは若すぎる。でもこの人は、父さんとの間に俺を授かって、俺を産んだらすぐに死んでしまう。
俺と父さんを置いて、死んでしまうんだ。
胸のあたりが重くなる。大きな空気の塊が入っているみたいに。その重さと闘っていると、じんわりと涙がやってきた。
なんでだ。どうしてこの人が死ななきゃならないんだ。俺なんか産んだばっかりに。
俺はこの人の命を奪ってまで生きていくほど、誰かに必要とされている人間なのか?
こたえがわからない。どうして俺は生まれてきたんだ。陽一と香世の命を救うためか?
「賢介くん、どうかした?」
呼びかけられて、洟をすすった。玉葱め、鼻がツンとする。目がシカシカする。
「玉葱、目にしみちゃった?」
「泣いてません」
「泣いてるよ?」
「泣いてないよ」
「でも……平気?」
「あんまりやさしくすんなよっ!」
驚いて俺を見つめる瞳。俺はTシャツの袖で涙を拭いた。
「……ごめんなさい」
あやまる俺に、リンさんが微笑む。
「賢介くんて、不安定なお年ごろよね。十九歳っていうの、嘘でしょう?」
「……すみません。ホントは十七歳の、高二です」
小さく言った。洟をすすって、玉葱をくし型に切りながら。
「高校二年生か。箸が転がるだけでおもしろかったり、イライラしたりするよね。わたしもそうだった。知らない土地で暮らすのって、ホームシックになるでしょ? ちゃんとお父さんには、言ってあるんでしょうね?」
「それは……はい、言ってあります。あの、すみません。いつまでも居座り続けて」
「かまわないけれど、一度わたし、お父さんと話したほうがいいわね。……あ、もうご飯炊けちゃった」
炊飯ジャーを開けたリンさんが突然、口元に手をあて、流しの前に向かった。
「どうしたんですか? 気持ち悪いんですか?」
俺はおっかなびっくり、リンさんの背中をさすった。痩せていて、華奢な背中を。
「……大丈夫……ちょっと、むかむかするだけ」
リンさんは水で口をゆすぐと、苦しそうに言った。
「賢介くんの名前……」
「名前?」
「うん、賢介くんて、どういう字を書くの?」
吐きそうだったのに、いきなりの質問。俺はこたえた。
「賢者の賢に、普通に、介です」
「賢い子、か。名前負けしないようにね。ま、賢介くんなら、大丈夫か」
俺は言葉がでなかった。切り終わった玉葱を、ざるに入れる。
もしかしたら。もしかしたらリンさんは、妊娠しているんじゃないだろうか。
俺が生まれたのは、ここでいう来年の、四月六日。俺がお腹の中にいるころなんじゃないだろうか。
明日いく病院て、産婦人科だろうか。
隣でニンジンを切るリンさんを見つめた。やさしい顔で、とんとんと包丁を動かす。そのまま見つめていたら、また泣いてしまいそうだった。だから俺はジャガイモを切った。
そうしてカレーができあがった。ひとりではなく、ふたりでつくったカレーが。
ナスの入ったカレーがおいしくて、おかわりをした。今度から、カレーにはナスを入れることにしよう。父さんは好きだろうか。きっと、好きにちがいない。
俺の心は、過去と未来をころころといききする。でも、今俺がいる場所が過去の世界であっても、俺にとっての〝現在〟に変わりはない。そして、母さんと一緒に過ごす日々も、まぎれもない現実なんだ。
食べ終えると、俺は津軽三味線と撥を手に取った。前に弾いたときよりも、うまくできていると思う。リンさんの好きな曲、〝ボイジャー〟だ。
――ロックに生きようぜ。
陽一の言葉を思いだした。
俺って、ロックじゃん。過去へやってきても、こうして図太く津軽三味線を弾いている。なんか、すっげー、ロックじゃん。
「だいぶ憶えたね、曲」
「あ……はい」
俺の隣に、リンさんが座った。
「あの……」
訊いてみたくなった。リンさんが、どうしてここで働いているのかを。
「美大でせっかく絵を勉強したのに、なんでカフェ?」
「え? ああ……」
リンさんが微笑む。
「好きなこと、してるだけ。ここね、大学いってるときに、夏休みにバイトしたんだけど。なーんか気に入っちゃって、居心地よくて。ただなんとなく、居座っちゃってる。好きだからね。コーヒーも、接客も、畑も」
「そうなんですね……」
好きなことを、している……それが俺の、母さんなんだ。
だからこんなにやわらかい微笑みを持っているんだ。
「そりゃね、たまに嫌な客もいるし、売りあげ計算するの面倒だったりする。そういうのマイナスしても、もっともっと、得るものがあるの、わたしには」
俺も、そういうものを見つけたい。
そしてそれを見つけるのは、ここじゃない。
この時代じゃないんだ。
陽一、会いたいよ。還りたい。
眠りにつく前、俺はベッドの中で念じた。全神経を集中して、陽一を思い浮かべた。ギターを弾くその姿を、瞳を閉じたまま思い浮かべる。
やがて頭の中が、強烈にぐらぐらした。全身がしびれる。けれど次第に陽一の姿が、はっきりと脳内に見えた。ギターの音もする。哀しい旋律だった。
「賢介! どうしたんだよ!」
陽一が俺に気づいて、手を伸ばした。俺はその手をつかんだ。たしかに、陽一の手はあたたかい。
けれどそれも刹那のこと。俺は気づけば、過去の世界のベッドにいた。
まただ。また一瞬だけ、時間を跳べたんだ。
起きあがって、壁にかけられたカレンダーの暦を見る。八月二十二日。今夜は上弦の月だった。
満月なら、確実に跳べるだろうか。
加速もつければ、還れるだろうか……。
スイカ消しゴムと、陽一の手の感触。
二度できた時間の跳躍を、俺は寺崎さんに話した。
勤め帰りの寺崎さんは、スーツ姿でカフェに寄った。スイカ消しゴムを見ながら、寺崎さんは言う。
「ウロボロスって、知ってるか?」
「蛇、ですか?」
「そうだ。自分のしっぽを噛んで、環になっている蛇。どこが先端か、事の発端か、わからない。はじめと終わりがないから、無限の象徴だ。皮肉なことに、生死の意味もある」
頭の中で、蛇を思い描いた。環になり、己の尾を噛んでいる蛇。
「時の流れも、そういうものかもしれない。陽一くんという子のいた時間と、ここでのきみの時間が、輪になって、隣りあわせになった。そうする力が、きみにはあるとしか思えない」
俺に、そんな力が?
「けどやっぱり、確実に時間を跳ぶには、満月と加速が必要なんだろうな」
「加速、ですか」
「うん、その役目を、こっちへきたときの自転車がしてくれたんだ。ひったくりを追ってスピードをだしたことは、ものすごい偶然だったね」
偶然……必然ともいうその言葉を、俺はかみしめる。
「自転車は、きみがこっちへきたときの奴がいいだろう。あの自転車の名前は、ウロボロスだな。メンテはちゃーんと、しておいたから」
「……ありがとうございます」
煙草に火を灯した寺崎さんは、疑うことなく、俺を信じてくれる。なんて頼もしいんだろう。
だけど。すべては俺の力にかかっている。
自分を信じなければ、なにもはじまらないんだ。