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Starlet――スターレット  作者: 白井かなこ
5/9

5 Cafe


 夢を見た。

 笹倉沙知の、満面の笑み。はじけるようなその笑顔の隣で、陽一はギターを弾いている。

 俺は津軽三味線で、陽一とつくった曲を演奏し、歌っていた。

 いい曲だったのに、目覚めたら忘れてしまった。

 

 朝陽がまぶしい。開け放たれた窓から、夏の風が入ってくる。湿度を帯びた、熱い風が。

 起きあがってみても、身体の不調はとくになかった。

 ――で。どこだっけ、ここ。

 ええっと〝カフェ・スターレット〟の二階だ。シャワーを浴びたあと、通された部屋で寝入ったのだった。


 洗面所を見つけて、うがいをはじめた。

「おはよう。よく眠れた?」

 女の人の声に、どきりとした。俺は水を止めて、その人を見た。長い黒髪を、後ろでひとつに束ねている。朝陽の中での微笑みが、なんてやさしく、清々しいのだろう。昨夜の女の子が、リンねえ、そう呼んでいた人。

「……おはようございます……はい、眠れました」

 あいさつを返し、「勝手に使ってすいません」とつけたしてから、顔を洗いはじめた。

「タオル、これ使ってね」

「ありがとうございます」

 蛇口を閉めて、差しだされたタオルを受け取り。顔をうずめる。柔軟材の、いい匂いがする。ふとリンさんを見ると、笑っていた。


「あなたも、そういう顔の洗い方をするのね」

「え?」

「横に、がしがし洗うのね」

 しまった。いつもの癖で洗ってしまった。

「ね、お店にきて。とっておきのコーヒー、淹れてるから」

「すいません」

 髪をかきあげて適当にセットした。店に降りると、まだ開店前だった。しんとしている。

「香世ね、たいしたことなかったの。今日、退院できるって。あなたのおかげよ」

 カウンターの向うでリンさんが微笑む。

「そう、よかった。大丈夫なんですね」

 安心してため息がもれる。憂鬱なときだけじゃない、ため息がでるのは。

「でも、どうして溺れたんですか?」

「あの子のお母さん、入院しててね。階段から落ちて、骨折したのよ。父親は昨日まで二週間の海外出張だったから、わたしが香世をここで預かっていたの。べつに親戚じゃないけれど、ご近所だし、二階の住まいが空いてるからね。あの子ったら……」

 そこまで言うと、リンさんは深くため息をついた。鬱々としたため息を。

「昨日、ザリガニを釣ろうとしたんだって。入院中の母親に食べてもらって、元気にしてあげたかったんだって」

「ザリガニ!」

「驚くってことは、やっぱりこっちの人じゃないのね?」

「あ……はい」

 頭をかいた俺に、リンさんはくすっと笑ってみせた。

「この辺りでは茹でて食べるのよ。香世のお母さんも好きでね。あの子のお父さんが帰ってくるから、早く三人で住めるようにって。香世ったらお母さんに、元気になってもらおうと思ったのよ。ほら、そこ」

 指をさされたほう、店の片隅に、まるみを帯びた石の鉢があった。近寄ってよく見ると、水草に隠れて赤いザリガニが二匹見えた。

「これじゃたらないって。台風の後で増水してるから、まさか取りにいくなんて思わなかった」

 陰鬱な顔で、彼女はザリガニの鉢を見つめた。俺はなにか言わなきゃと思った。

「でも……助かったんだから」

「わたしのせいよ。もっと注意してあげればよかった。やっぱり母親の恋しい、子どもなんだわ。あんなに増水してちゃ、ザリガニなんて見つからないって、わかってたはず」

 骨折にザリガニが効くなんて、そんな突拍子もないこたえを導きだすのが、子どもなんだろう。

「最近、あの子ってば元気がなかったの。親が恋しくなったのよね」

 親か。俺の父さんも、俺が香世ちゃんと同じような目に遭ったら、心配してくれるだろうか。

 こうして家出をした俺を、血まなこになって、今ごろ捜してくれているだろうか。

 たいして期待はできないな。放任主義で、その上、恋煩いときている。


「はい、コーヒー」

 カウンターに、熱い飲み物が置かれた。俺は「いただきます」と返事をし、カウンター席に座った。 

 そこには外国のビールの空き瓶が、たくさん並べてあった。見わたすと、籐籠にくるまれたランプが店内を照らしている。カエルや象の置物といったアジアン雑貨も、ところどころに飾ってある。

「この店のインテリア、アジアンテイストなんですね」

「オーナーの趣味。わたしも気に入っているけどね、とっても」

 コーヒーにミルクと砂糖をたっぷり入れて、よく混ぜてからすすった。熱く濃い液体が、まだ寝ぼけたままの身体に沁みこんでいく。

「どう? おいしい? 豆にはね、オーナーのこだわりがあるの」

「あ……おいしいです。でも俺、まだまだ子どもの舌で、キャラメルマキアートとか甘いのが好きで……」

「キャラメル……?」

「スタバの」

 言ってから、しまったと思った。喫茶店を営んでいるリンさんの前で、比較するような発言なんて。

「スタバって……」

「もちろん、スターバックスです」

 スタバなんてこの近くにはないんだろう。あのおいしいキャラメルマキアートを、リンさんは知らないみたいだ。同じ業界の人間なのに頼りないし、人生損している。


 窓の外を見ると、山に囲まれた田園が広がっていた。やわらかい緑が目に映る。店の前の通りを走っていく車のどれもが、見なれない、古くさいものばかりだった。

 ひと昔前のデザインだ。ワゴンタイプはほとんどなくて、4ドアセダンばかり。

 まるで未開の地に感じる。あの大きな川が、文化を隔てているのかもしれない、なんて思ってしまう。


「で? あなた名前は? わたしのことは、リンでいいわ」

「斎藤です。斎藤賢介……十九です」

 咄嗟に年齢をさばよんだ。

「賢介くんね。もしかして、家出少年?」

「あの、その、旅っていうか……まあ、そんなところです」

「うわ、ほんとうにそうなんだ! 家出だったら大変。今日はここに警察がくるわよ」

 リンさんが言葉とは裏腹に、楽しそうに言った。

「警察って、なんでですか?」

「香世を救ったときの、詳細を調べにくるの。賢介くん、昨日シャワー浴びたあとすぐに眠っちゃったから、おまわりさん帰ったのよ。ホント死んだように眠ってて、ちっとも起きないんだもの」

「……はあ」

「表彰するって言ってたから、ちゃんと住所も訊かれるんじゃない? 親にも連絡いっちゃうよ?」

 面倒だ、そんなの。まっぴらだ。俺はコーヒーを飲んで、返事をごまかした。

「しばらくここにいてもいいけれど、家にはちゃんと連絡しなさいね」

「いいんですか?」

「ゆうべ、赤い月がでていたのを見た?」

「あ……はい」

 赤い三日月が、鮮やかに脳裏に蘇った。崖から自転車ごと落下するときには満月だったのに、落ちたら今度は、膨らんでいく三日月だった……まさかな。見まちがえたんだろう。

「赤い月夜の客は、招かれざる客、されど招くべき客、っていうのよ」

 そう言ったリンさんの、切りそろえられた前髪が揺れた。自信ありげに見える。

「それって、言い伝えかなにかですか?」

「ううん。わたしが今、考えたのよ」

 コーヒーカップを両手で持って、無防備に笑っている。顔をくしゃくしゃにして、とてもかわいらしい笑みで。


「なんなら、ここに住みこみでバイトしてくれると助かるんだけどな。二日でも、一ヶ月でもいいわよ。お金、持ってないんでしょ? 最近、空き巣が多いから怖いのよ。あなたがひったくりに遭ったのも、同じ犯人かもしれないわ」

「え……そんな簡単にオッケーしてくれるんですか? 俺がその空き巣じゃないかとか、心配しないんですか?」

 こっちが心配になってしまう。見ず知らずの俺を住みこみでなんて、人がよすぎる。

「だってあなた、香世の命の恩人だもの。それがすべてよ、あなたを信じる条件の」

 ふふっと笑ったリンさんが、どこまでも俺を信用してくれるのが、すごくうれしい。

「……お願いします!」

 深く頭を下げた。

「俺、この喫茶店にくることが目的だったんです。十八年くらい前、ここで働いてた人が、その、あの……俺の知りあいだったって聞いて」

 母さんが、とは言えなかった。マザコンだと思われるのは、心外だ。

「ヤダな。それって記憶ちがいじゃない? この店ね、オープンして三年よ」

「え? それじゃあ、十八年前には、ここはなかったってことですか?」

「うん。そんなに前だったら、まだここは田んぼだった」

 なんだ、おばさんのガセネタか?

「ねえ。わたし、誘拐犯扱いされたくはないからね。おうちの方に、早く連絡しちゃって」

 リンさんに電話を渡された。子機ではあるけれど、馬鹿でかさが妙に古くさい。

 俺はそのゴツい電話で家にかけた。リンさんを誘拐犯にしたくないからであって、父さんを安心させるためではない。

 電話は、何度かけてもつながらなかった。〝現在使用されておりません〟というアナウンスが繰り返す。どういうことだろう。家の電話番号が変わるなんていう予定はない。ほかに知っている番号は……ダメだ、わからない。ばあちゃんの家も、陽一の番号も、ひったくられたバッグの中のスマートフォンに登録してある。覚えてなんかいない。俺はすがるように、もう一度家の番号にかけた。

 リンさんの様子を伺うと、店の隅の有線放送の機材に向かっていた。俺は受話器を耳にあてたまま、ひとり芝居を試みた。

「あ、父さん? 俺。あのさ、書き置きの通り、しばらく旅にでたから。宿? ああ、ホテルとかじゃないよ、喫茶店にいるんだ」

 レジの脇にあるマッチを手に取り、住所と電話番号を言う。だいじょうぶだから、とかなんとか、いかにも相手とやり取りをしているように見せかけ、じゃあね、と電話を切った。それからリンさんのほうを向いて、声をかける。


「父さんの了解、取れましたよ」

「なかなかつながらなかった?」

「市外局番、まちがえちゃって」

「で、なんて?」

「怒ってたけど、なんていうか……お姉さんによろしく、って」

「そう。電話、代わってもらえばよかったな。だけど、ものわかりのいい親なら、家出なんかする理由ないでしょうに。あれ? 旅だっけ? ま、どっちでもいけど」

 リンさんはのんきに言うと、有線放送を大音量でかけた。

「これこれ、この新曲、いいよね。今、流行ってる」


 ――え?


 俺の生まれる前に流行った曲だ。最近になってカバーされたわけでもない。

 なにかがどこかで、ずれている……?


 どうして家の電話がつながらない? どうしてキャラメルマキアートも、スタバも通じない?

 どうして通りを走る車のどれもが、見なれない型式なんだ?

 どうして満月が三日月だった? どうして夜のはじまりが、突然、陽暮れの頃になった? 


 俺は今、どこにいるんだ!?


 心臓がどきりとする。氷のナイフをあてられたみたいに。

 まさか、と思う。身体が震える。まさかって、なんだ。そんなはずない。

 ああ、頭が混乱する……そうだ。


「あの……今の総理大臣て、誰でしたっけ?」

 歴代の総理大臣なら、小学生のときに覚えた。

「なに、いきなり。橋龍でしょ」

 橋龍――橋本龍太郎首相だ。ということは……うそだろ、俺が生まれたころ?

「あ……そうですよね、そう、橋本総理。そう……」

 俺は「ごちそうさまです」と言ってから、カップを洗いはじめた。

 落ちつけ、俺。冷静になれ。なにかのまちがいだ。いや、どんなまちがいだ? 

「これもお願いね」

「はい」

 リンさんのカップも洗う。この人が、俺をからかう理由なんてない。

 ――まさか、時代が違う?

 ええっと……ここがいつの時代か調べるには……。

「今日の新聞て、ありますか?」

「今朝はまだ、取ってきてないんだった」

 リンさんが表のポストから、朝刊を取ってきてくれた。

 わたされた新聞を見る。日付は――一九九六年、平成八年八月十九日――。

 どうしてだろう。どうして十八年も前なんだろう。十七歳の俺が生まれる、一年前の世界だ。それも、俺が家をでたのは二〇一四年の七月十一日だ。こっちについたのは次の日だった。なのに、八月十九日……しかも、過去?

 膝ががくがくと震える。息が苦しい。胃が重く、吐き気を覚える。

「どうかした?」

「いえ……べつに……」

 リンさんが俺の不安をよそに、大きなあくびをした。

「昨日の騒ぎで寝不足よ。あなたも疲れて、寝ぼけちゃってる? あ、ヤだな、朝ごはんまだだったわね。ごめんごめん、トーストでいい?」

「はい、ありがとうございます」

 返事をした俺の声は、ひどく上ずっていた。


 

 朝食の食器を洗いながら、記憶をまさぐる。俺は十七歳。一九九七年に生まれた。それはたしかだ。確実に、現実だ。

おととい、高速バスに乗った。昨日は市役所へいき、美術館へ足をのばし、それからここへくる途中で、ひったくりに荷物をすべて奪われた。そのひったくりを自転車で追ううちに崖から落ちて、香世ちゃんを救った。

そうしたら、一九九六年。

 あのときの崖からの転落で、俺は死んでしまったんだろうか。

 これは死後の世界なのか?

 もしくは生死の境をさまよっていて、これは夢の中の出来事なのか?

 だけど、甘くしたコーヒーはおいしかった。こんなにもはっきりとした夢や、死後の世

界があるだろうか。

 もしかして……。

 頭の隅で、ある言葉が主張する。


 ――タイムスリップ。


 そう認識さえすれば、俺がここにいることの説明がつく。

 いつだろう、この時代にきたのは。

 電車に乗ってからか? 駅についたとたんか? あの自転車に乗ってからか? 崖から落ちた、あのときか?

 どうやって元の世界へ還れるんだ? 


 緊張と不安が押し寄せる。手が震える。胃の辺りから喉元へと、吐き気が何度もやってくる。

 二度と還れないのだろうか。俺のいた場所へ。

 今朝見た夢のように、陽一とセッションもできない? 笹倉沙知とも言いあえない? もう、ふたりには会えない?

 そう考えだしたら、今度は父さんの顔が頭に浮かんだ。

 おととい、俺を勝手口で見送った父さん。あのときの寂しげな表情が蘇る。

 再婚話を突然打ち明けられたことなんて、遠い出来事のように感じる。

 それでも父さんへのイラだちや嫌悪感は、今も俺の中にある。そんなものから解放される住み込みのバイトは、喜ぶべきことだ。

 でも、なんでだ。どうしてここが過去じゃないとならないんだ。

 俺はここで……生きていくしかない?

 生まれる前の時代で? 

 そんなこと、ありえない!

 帰りたい。家出をしておきながら、帰りたいと願うだなんて、どれだけ馬鹿なのだろう。けれど、帰りたい……それが父さんとの生活だとしても……還りたい。俺の生きる時代

へ。

 未来へ還れたとしたら、俺は陽一にこのことを話すだろう。過去へいったんだ、そう自慢してやる。きっとあいつは「すげえな」を、連発するだろう――そんな日は、訪れないんだろうか。

 十八年待って、陽一が高校二年になるまで待って、すっかりオヤジになった俺が現れて、そうして俺の身に起きたことを話したら、あいつは信じてくれるだろうか。

 ――そうか。俺も陽一も生まれる前ではあるけれど、父さんも、ばあちゃんも、どこかにいるはずだ。そして、母さんだ。母さんが、まだ生きている時代だ。どこにいるんだろう、母さんは――。



 警官がきたのは、それからすぐだった。小太りの、リンさんファンの若い警官だった。

 事前にリンさんに勧められたけれど、ひったくりに遭ったと、被害届けはださなかった。「家出少年だから」、リンさんにはそう言ってある。けどホントのところ、言えるわけがないんだ。俺がひったくりの被害に遭ったのは、ここではなくて、未来の世界でのことなんだから。

 俺がリンさんの従兄弟だという、リンさんの言葉を信じた警官は、表彰を断った俺に「もったいない」と言い残し、帰っていった。

「うち、時給あんまりだせないよ?」

 警官を見送って、リンさんが言う。

「住める家があるってだけで、助かります。よろしくお願いします」

「オッケーイ!」

 ほがらかな声で、リンさんが返事をしてくれた。

「じゃあまず、お掃除からね」

 言われるまま、店内の掃除に取りかかった。すると二階から、さかんに犬の鳴き声が聞こえてきた。

「飼ってるんですか?」

「香世の犬よ、シェリーっていうの。見にきて」

 あとにつづいて階段をあがった。リンさんの部屋のドアを開けると、小さな鼻ぺちゃの犬が飛びついてきた。パグ犬だ。しきりに俺の足にまつわりつく。

「かわいいっていうか……キモかわですね」

 俺はシェリーを抱きあげた。白地の短い毛に覆われた身体が、ぷりぷりした重さを腕に伝える。興奮したシェリーはしっぽを振り、その黒い口もとから舌を、はあはあとだした。

「あとで香世に返さなくちゃ」

 ぐがっと鼻を鳴らしたシェリーは、リンさんにこたえるようだった。

 窓から外を見れば、太陽の光がぎらぎらと降り注いでいる。まぶしくて目がかすむ。目のかすみはオブラートのように頭までまわり、脳みそをくるんでしまうような眠気を誘う。暑いのか眠いのか、よくわからなくなる。

 一階の店に降り、掃除のつづきにとりかかった。雑巾で椅子やテーブルを拭きまくり、床をモップがけした。きれいになってゆく床なんかを見ていると、ちょっとは気がまぎれた。いや、気をまぎらわすことしか、俺にはできないってだけのことだ。

 店のオーディオから、ロックテイストな曲が聴こえてきた。ギターが前面にでているサウンドだ。リンさんがCDをセットしたらしい。

   

 どこかで読んだような いつかそう、見たような

 そんなmemory こんなdeja vu

 僕は瞳を開ける 風が頬を過ぎてく 

 地球儀をただ まわしてみたり

 

 前奏につづいて、日本語の男性ボーカルが流れてきた。印象的な、のびやかな高めの声。耳なじみのいいサウンド。なんだこれ、軽く衝撃を受ける。


 夏の朝あてのない 旅にでれば

 まばたきは過去に 言葉は未来に


 旅にでたはいいけれど、たどりついたのは過去だ。俺は十八年後に、もう一度還れるんだろうか。それは二十一世紀。ここからすれば、途方もなく遠い未来だ。

 曲に合わせ、歌のつづきをリンさんが口ずさむ。

  

   ひとり あの空の彼方 海の向こう 

   ゆけvoyager

   誰か つかまえてmessage 

   海原で宇宙(そら)で 出逢えたなら 


「いい曲でしょう? わたしこのバンド、大好きなの。人気あるよね」

 リンさんが微笑んで言う。

「……誰ですか?」

 動揺を隠して訊く。

「え、知らない? 〝クリソプレーズ〟ってバンド。〝ボイジャー〟って曲なの」

 覚えたい、この曲も歌詞も。この時代に、こんな曲があったなんて。

 とにかく俺にできることは、ここで家出少年を演じること。

 住みこみのバイトをして、未来からやってきたとは、気づかれないこと。



 掃除が終わると、店のメニューの説明を受けた。消費税が三パーセントだったのには驚いた。お札だって、新渡戸稲造とか夏目漱石とか古くて、俺にとってはまるでおもちゃのお札。遠くへきたのだと、あらためて思い知っては途方に暮れる。

「ドリンクはこっち。コーヒーに紅茶、ジュース、ビールにサワー」

オーダー用紙の書き方を教わり、接客の指導も受けた。皿を洗う手順や、その置き場所、コーヒーの淹れ方。やることも覚えることも、山ほどある。なのに頭が追いつかない。現実を受け入れることができていないから、気持ちがついていかないんだ。

「習うより、慣れろだわ。ま、頑張って」

「ほかにバイト、いないんですか?」

「ひとりいたんだけどね、辞めちゃったばかりなの。ちょうど求人広告、だそうとしてた」

「そうですか……」

 俺は今まで、バイトなんかしたことがなかった。時折ばあちゃんが、そして毎月父さんから、小遣いをもらっていた。常にうとましく思っていた父さんの給料や原稿料に出演料なんかのおかげで、俺は津軽三味線と勉強だけに専念することができていたんだ。

 今ならわかる。手放して、やっと気づく。普段の何気ない生活。それがどんなに平凡でも、イラついても、たいせつな日々だったということに。

「前にいたバイトちゃんね、一九九九年までに、やりたいこと全部やっておきたいって」

 リンさんが思いだしたように言う。

「ほら、一九九九年七の月。ノストラダムスの大予言。当たったらどうしようなんて、誰でも考えると思うんだけどさ、その人、とっても不安がってたから」

 苦笑いを浮かべた顔で、俺を見る。そうだった、そんなのも、あったらしい。

「平気ですよ、そんなの」

「平気?」

「なんにもありません。絶対、なんにも起こりません」

「そう? そうだよね。考えすぎよね」

 ここは一九九六年。ノストラダムスの大予言に脅える、世紀末感を抱えた時代なんだ。



 昼になると、客が数組訪れた。常連とのことで、昨日の救出劇を訊きだされた。

 俺は慣れない接客をしながら、あまり大げさにならないように、香世を助けたときのことを話した。

 午後二時半も過ぎると、客はいなくなった。昨日からの疲れで眠くなってきた。疲れだけじゃない。知らない人とたくさん話すはめになったからだ。だいたい俺は、人見知りなんだ。

とにかく眠い。過去にきてしまったというのに、不安や緊張がないわけがない。それでも眠いものは眠いんだ。

リンさんに見つからないようにあくびをしたところで、鈴の音とともに店の入り口のドアが開いた。親子が入ってきた。香世ちゃんと、お父さんの寺崎さんだ。次から次に人がきては、過去へトリップした感慨にふける暇もない。

「昨日はありがとうございました」

 香世ちゃんが父親よりも先に、俺へ頭を下げた。ショートヘアが、さらさらと揺れる。

「あたしの、命の恩人ね」

「そうよ、香世。斎藤賢介くんていうの。わたしの従兄弟。ここでバイトをしてくれることになったの」

「賢介くん……賢にいだね。あたしのことは、香世って呼んでね」

 ませた口調で俺を見あげる。昨日は死に目に遭ったというのに、元気な姿に心が軽くなった。たとえ俺が過去にいようとも、そのおかげでこの子の命を救うことができたんだ。

「きみが香世を助けてくれたとは知らず、昨夜は失礼しました。父親の寺崎です。本当に、ありがとうございました」

 寺崎さんが、深々とお辞儀をした。それからむっくりと、上半身を起こした。

「はい、着がえ。荷物、盗られたんだって? 僕のお下がりですまないけど」

「助かります! ありがとうございます」

「サイズ合えばいいね。靴、ちょっと大きいかな。それからリンちゃん」

 リンさんに向いて、寺崎さんが頭を下げた。すぐに身体を起こして、リンさんを見つめた。

「昨日はおさわがせしちゃって、ごめん!」

「そんな、こっちこそ、なんて言ったらいいのか……ほんとうにすみませんでした! 私がちゃんと見ていてあげたら、あんなことには……ごめんなさい!」

 今度はリンさんが深く頭を下げた。

「いや、ちょっとやめてよ、リンちゃん。リンちゃんにはお世話になってるんだから。悪いのはザリガニなんだから、ザリガニ。あと、用水路を増水させた、台風!」

 おどけてみせる寺崎さんが、なおも頭を下げるリンさんの肩に手をやって起こした。

「これ、アメリカ土産のチョコレート。甘いもの食べて、昨日のこと、忘れて」

「はい……」

 ちょっと涙ぐんだリンさんは、チョコレートを受け取ると、笑みを浮かべた。

 香世ちゃんが店の片隅にある、石の鉢のところへ歩み寄る。

「そうだ、寺崎さん。あそこのザリガニ、お母さんに食べてもらうんですか?」

 俺は鉢を指差して、訊いてみた。

「いや、さすがに病院に、ザリガニの差し入れは……」

「お父さんの、けち」

 口をとがらせて、そっぽを向いた香世ちゃんの、ショートカットの髪が揺れる。

「しょうがないだろ。ちゃんと茹でても、病院の先生がダメだって言うんだから」

「せっかくあたしがつかまえたのに」

 すねる女の子を前にして、俺はなにか言ってあげなければと思った。

「でも無事で、ほんとうによかった」

「……ちょっと?」

 女の子はますますふくれた。

「そんなしゃべり方、やめてよね」

「へっ?」

「賢介くん、ものすごい、猫なで声」

 リンさんに笑われてしまった。俺、たしかに声のトーンを変えている。子どもには、それなりの接し方があると思ってのことなのだけれど……。

「オトナって、小学生を子ども扱いしすぎるんだよね」

 香世ちゃんが言う。

「たしかに、見た目は子どもっぽいのかもしれない。でもね、あたし、もう六年生なの。中身はオトナなの。だからそんなしゃべりかた、やめてください!」

 俺は小さくうなずいてやった。六年生ったって、ガキはガキだ。ガキの扱いなんて、俺にはわからない。

香世ちゃんの隣では寺崎さんが、居心地の悪そうな顔をしていた。リンさんは、くすっと笑った。

「香世、機嫌直して。ね、ミルクセーキ飲むでしょ?」

「うん。リンねえのミルクセーキ、大好き」

「じゃ、一緒につくろう」

 ミルクセーキなんて、やっぱガキじゃねえか。

リンさんは香世ちゃんと手をつないで、カウンターの奥へまわった。ふたりの仲もとてもいいことが見て取れた。まるで姉妹だ。


「ちょっと、いい?」

寺崎さんが俺を外へとつれだした。香世ちゃんのことで、なにかあるんだろうか。

店のドアは農道に面していた。ドアを開けて左側の、砂利の敷かれた駐車場で、寺崎さんの言葉を待つ。駐車場のまわりは畑、そして農道をはさんでカフェの正面は、一面の田園だった。

寺崎さんは空を仰いだ。一見痩せていても、Tシャツからでた腕には、ほどよく筋肉がついている。背丈は俺よりも高い。

 真夏の太陽が容赦なく身体じゅうに降りそそぐものの、俺の住む街に比べたら涼しい。ここは過去。温暖化の影響が、まだそんなにはないのかもしれない。


「崖から落ちたなんて、身体は、なんともない?」

「まだたまにくらくらしますけど、たいしたことないです」

「病院つれてこうか? 頭打ってたら、ヤバイよ」

「ありがとうございます。けど、平気です。頭は打たなかったです」

「そう……あのさ、なにか困ったことがあれば、僕に相談してくれてかまわないから」

 アブラゼミが大きく鳴きはじめた。駐車場の片隅、店のドアの近くに植えられた、百日紅の木にとまっている。寺崎さんの背丈ほどのその木は、濃いピンク色の花で咲き満ちている。

「なんといっても、きみは香世の命の恩人だ。なんでも話してくれて、かまわない」

 なんでもと言われても、タイムスリップしてきました、とは言えない。信じてもらえやしないだろう。転落したときに、やっぱり頭を打ったとでも思われるのがオチだ。

寺崎さんは深く息を吐いた。それから首の後ろを、何度も手でかきむしった。

「……きみがリンちゃんの従兄弟っていうのは……ほんとうなの?」

 探るように見つめられる。

「……え……?」

 アブラゼミの鳴き声が、耳につんざく。

「あのさ、僕は君の味方だから。話して、ほんとうのことを」

 寺崎さんが真摯に俺を見つめる。その目は、なんの疑いも警戒もなかった。

 俺は大人の寺崎さんのまなざしに、負けた。

「えっと、あの……俺、旅行中っていうか、家出中っていうか…………つまり……従兄弟じゃ、ないです……」

「そうか、やっぱり。いや、なんとなく、そんな気がしたんだよ」

 アブラゼミが百日紅から飛び立った。とたんに辺りが静寂に包まれる。

 いくらなんでも、タイムスリップのことは言えないだろう。そう、これは俺だけの問題で、俺だけでなんとかしなければならないのだから。

 じりじりとした気持ちで、店の外観を眺めた。農道から奥まったところに佇む、赤い屋根に白い壁の二階建て。花壇にはヒマワリやインパチェンスが鮮やかに咲いている。店のドアの左脇のポストは、緑色の三角屋根をしている。ポストの後ろに立てられた棒の上には、風見鶏がいた。俺の家にある風見鶏とそっくりだ。

 寺崎さんが煙草に火をつけた。煙草の煙は灰青色にたなびいていく。

 煙草の似合う寺崎さんは、やっぱり大人の男、そのものだった。その筋肉質な背中に、頼ってみたくなる。そう実感したとたん、急激に心細くなった。誰も身内がそばにいない、今の俺の状況。未来へ還る方法もわからない。

 会いたい――父さんに、会いたい。ばあちゃんに、陽一に……。

 いったい俺はどうしたんだ。

 なんでこんな時代にいるんだ。

 黙ってはいられない。誰かに支えてほしい。

「寺崎さん……俺、どうしたらいいか、わからないんです。本当は還りたいんです……家出しておきながら、すっげえかっこ悪いんですけど……」

「どうした?」

「信じてくれますか、俺のこと」

「きみは香世の命の恩人だ。力になりたい。話してよ」

 やさしい声だった。そのやさしさに、すがりたくなる。

「……あ……でも……すみません、やっぱいいです」

 信じてもらえるわけがない。それに、たやすく人に言っていい問題でもないだろう。

 俺は煙草の煙の流れる先を目で追った。じんわりと、胸にこみあげるものがある。

 泣いたら負けだ。大きく息を吸いこんで、吐いた。

「なんだい? 訊かないわけにはいかないな。僕は驚かないよ。たとえきみが、少年院から抜けだしてきたと言っても、自殺を図るところだったと言っても」

 ……え?

 俺の顔を見る寺崎さんは、真剣そのものだった。

 なんだか突拍子もない方向に話が進んでいる。少年院? 自殺? 

だけどこの人が俺を、心底心配してくれていることは、よくわかる。

だったらその心配をやわらげてあげるのが、俺の役目ってわけだ。

「いや、なんていうか、その……そういう犯罪とか、事件系じゃ、ないです……」

「え? じゃあ、なんだろう……ごめん、僕の妄想力、乏しくて」

 おどける寺崎さんに、やっぱり打ち明けたい、ほんとうのことを。

 寺崎さんの目を見る。

 風が吹いて、寺崎さんの長めの前髪が揺れた。

 百日紅の木に、今度はミンミンゼミがとまって鳴きだした。煙草を投げ捨てた寺崎さんが、足でもみ消す。俺はつばを呑みこんだ。

「……未来からきたんです。崖から自転車で落ちたら、この世界にきてました」

「未来! ……いったい、何年だ?」

「二〇一四年です」

「二十一世紀か……」

 俺は寺崎さんに、崖から落ちたときのことを詳しく話した。まさか信じてはもらえないだろうと思いながら。

 寺崎さんは「それで?」、「どんな感じだった?」、好奇心のままに俺を質問攻めにした。「マジで? すげえ」と何度も言うのが陽一を連想させるものだから、話しながら寺崎さんに、ものすごく親近感を憶えた。 

 俺の顔を、寺崎さんはまじまじと見つめた。それから深くため息をつきながら、うなずいた。

「……信じるよ」

「え?」

「どうしてすんなり信じるのかって?」

「はい……」

「いや、おかしいなって思ってたんだよ。そこに干してある靴は、きみのNIKEでしょ? あれを見ればわかる」

「え……どうして?」

「僕はNIKEが大好きでね。あのエアマックスは、まだ見たことがないよ」

 そうだ、エアマックスは、この時代でいう去年、一九九五年に大ヒットした商品だったはず。俺が履いてきたのは今年の――二〇一四年の世界での――春に買ってもらったばかりなんだ。父さんからの、誕生祝いだ。

「信じるよ、NIKEにかけて」

「ありがとうございます!」

 頭を下げた俺の肩に、寺崎さんが手を置いた。

「考えよう。どうやったら還れるのかを」

「還れるって?」

 顔をあげて、寺崎さんを見る。

「僕はね、昔から特殊能力を持つ人に興味があるんだ」

「特殊能力? 超能力とかのことですか?」

「うん、そう。きみが時空を超えたのも、超能力のひとつかもしれない。超能力、それにタイムトラベルに関する本だって、読みあさった時期があったよ」

「まさか、超能力って……」

「賢介くんがここに、過去の世界にいるってことは、真実でしょ? タイムトラベルが起きてしまったんだから、いろんな可能性を探ってみないと、きみは還れないんじゃないかな。だったら頭ごなしに、超能力を否定はできないよ」

 寺崎さんは、何度もうなずいた。

「うん、信じるよ。まず、その自転車を見せて」

 俺たちは、乗ってきた自転車を取りにいった。まだ落ちたままの状態で、崖の下にあった。

 自転車はブレーキを直すために、寺崎さんが引き取ってくれることになった。

「話を総合すると……賢介くんのタイムトラベルは、満月が持つ力と、自転車での加速に、きみの潜在能力が結びついたのかもしれない」

「潜在能力……」

 俺に、そんな力が……? 

 けれど、俺が過去にいることは事実だった。そして俺が自分自身を信じないと還れないということも、どうやら事実のようだった。

「次の満月に、還れるといいね」

 寺崎さんは、胸ポケットから手帖を取りだした。

「満月は、来週か……八月二十九日だ」

 ……あと九日。還れるだろうか、未来へ。


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