3 ゆくえしれずの絵
学校から家へ戻った。どうしても津軽三味線を取りに帰りたかったからだ。
今日返された数学と化学の答案用紙を、誰もいないリビングのテーブルの上に置いて、着がえて家をでる。
隣町で母さんの兄夫婦と住むばあちゃんの家についたのは、夕方近かった。
俺が中学三年のころまでは、まだばあちゃんも元気で、毎日のようにばあちゃんの家に通った。津軽三味線を教えてもらうために。普段はやさしいばあちゃんも、津軽三味線の手ほどきとなると厳しかった。それでも、楽しくてたまらなかった。
じいちゃんはもう、この世にいない。父さんのほうの祖父母も、俺が小さいころに亡くなってしまった。
突然の俺の訪問を、おばさんは喜んで迎えてくれた。おじさんはまだ、会社だった。
「賢介くんは、もうすぐ夏休み?」
「来週の土曜日からです」
いつものトマトジュースがだされた。小さなころから、いついってもトマトジュースだ。子どもがいない家だからオレンジジュースやコーラを常備していないのではなく、「賢介くんはトマトジュースが好き」なんて思っていることを、このあいだおばさんから聞いた。それを知って、なんだか申し訳なく思った。好きじゃない。だされるから、飲んでいるだけだ。
とにかく、俺はばあちゃんの津軽三味線と、トマトジュースのおかげで大きくなったようなものだ。ろくに会話もない父さんに、育てられたのではなく。
「いきなりすみません。急にばあちゃんに会いたくなって」
おばさんに言うと、「起きてるかしら」と、和室へ向かった。
リビングのソファーで待つ。リフォームをしたばかりで、どこもかしこもピカピカ、なのにインテリアのちぐはぐな部屋だ。
ガラス扉のついたキャビネットには、ブランドものの洋皿やカップ&ソーサーと一緒に、なんとか焼きの湯飲みがやたらと並べられている。ボヘミアンガラスがあれば、酒の徳利や、お猪口もある。
その上に置いたガラスケースには、古い日本人形が収まっている。目が細く、顔のふっくらとした着物姿の女の子だ。かと思えば隣には、ミロのヴィーナスの像が飾られている。
和と洋、ごった煮のそれこそが、ばあちゃんちのイメージそのもので、俺は好きだったりする。
前におじさんから、母さんの子どものころの写真がでてきたと、見せてもらったことがあった。白茶けた印画紙に収まったあどけない女の子は、とても母さんとは思えなくて、なめていたスプーンをあやまって噛んだときのように、ぞくっとした。
「まあ、こんにちは~」
その声にふり向いて、「ばあちゃん、こんにちは」とこたえる。表情は乏しくなってしまったけれど、この人が母さんを産んだ人だと思うと、安心する。
「お義母さん、賢介くんがきてくれましたよ。よかったですね」
ばあちゃんをソファーに座らせたおばさんが、静かな声で言った。ばあちゃんの手を握って、ばあちゃんの顔の正面で目を見つめて。
俺もばあちゃんのそばにいって、カーペットの上に座った。
「こんにちは。あのさ、ばあちゃん。俺の父さんが、結婚するって言いだしたんだ」
「結婚!」
速攻で返したのはばあちゃんではなく、おばさんだった。
「今まで敏巳さん、おひとりでがんばってこられたものね。でも賢介くんは年ごろなのに、大丈夫?」
「いや、それが……相手、三十二歳なんです」
「うそ、そんなにお若いの? 男はいくつになっても若い子がいいっていうけど、いくらなんでもねえ……賢介くんだって、そんなに若いお母さんじゃ、複雑でしょう」
おばさんの言葉に、ため息でこたえる。
「結婚?」
ばあちゃんが、逃しまくったタイミングの中でつぶやいた。
「再婚するんですって。賢介くんのお父さん。ほら、敏巳さんよ」
耳元でされる説明にはおかまいなしに、ばあちゃんの目が空を泳ぐ。やがてその目は俺が持ってきた三味線ケースに止まった。じっと見つめている。
「弾いてみるよ……」
俺は背筋を正した。
「師匠、聴いてください」
黒いハードケースを開け、覆っている紫の布を取る。花梨でできた胴の、赤茶色っぽく光る三味線が現れた。
中学の入学祝いにばあちゃんが買ってくれた、俺の二本目の津軽三味線。高校に入学したら、もっと高価な紅木のを買ってあげると言ってくれた約束は、叶わなかった。
ソファーに座って撥を持った。撥の先は鼈甲だ。「自分の手になじむ撥を選びなさい」と言うばあちゃんと、時間をかけて選んだものだった。
一の糸、二の糸、三の糸。糸巻きを操って、ヴェン、ヴェヴェン……何度も繰り返して調子を合わせる。弾いたまま息を整えて、気合を入れて……。
「はっ!」
大きく発した直後、右手で持った撥で胴を叩く。左手を小刻みに動かす。
「〝津軽じょんがら節〟ね」
曲のさわりを聴いたおばさんが、ばあちゃんに教えるように言う。いや、言わなくても、ばあちゃんには理解できている。曲が進むにつれて、こわばっていた顔がほころび、皺皺の手で拍子を取りはじめた。
やがてばあちゃんは言った。
「ダメだよ、それじゃあ」
おいでおいでと手をふる。俺は三味線と撥、それから指掛けをあずけた。
ばあちゃんが同じ曲を最初から奏ではじめた。背筋をしゃきりと伸ばし、頬をほんのり紅くさせて。
この瞬間、ばあちゃんに生気がみなぎる。それがなによりもうれしい。懸命に叩く撥がだす音も、左手の動かし方も、かつての片鱗さえないとしても。
曲の途中で、ばあちゃんはぴたりと手を止めた。
「どうしたの?」
訊いた俺のことは見ないで、ばあちゃんは撥をながめている。
「ノリコの絵は……どうしたかしら……」
ノリコとは、死んだ母さんのことだ。
「なあに、お義母さん?」
おばさんが三味線と撥を受け取り、俺にそっとわたしてくれた。
「ほら、ノリコの卒業制作の、あの川辺の絵よ」
きょろきょろとリビングを見渡す。
「お義母さん、ノリコさんの絵は全部、敏巳さんが持っているんでしょう?」
「いや、あの絵だけは、ノリコと縁のあった、議員さんが気に入ってね」
指掛けをした手を、なつかしそうにばあちゃんが見つめる。しっかりとした口調で話す。
「議員さんにね、役場に飾らせてくれって言われて、譲ったの。玄関に入るとすぐ、真っ正面にあったじゃない? 名前と一緒に」
「ばあちゃん、どこの役場?」
「なによ、うちの役場っていったらこの近くでしょ。うちから五分もしないでしょうに」
その言葉に、おばさんが頭を横に振った。
「昔と今とが混同しちゃってるわ。この近くに役場なんてないし。きっとお義母さんが、亡くなったお義父さんと住んでた、岡山の田舎のことだわ」
「もう一度、あの絵が見たいねえ」
ばあちゃんが、しみじみと言った。俺だって見たい。母さんが描いた絵を、俺は見たことがない。一度も会ったことのない母さんの絵に、俺は出会いたい。
「ばあちゃん、それって、どんな絵?」
「大きな川にね、灯籠がいくつも浮かんでいるのよ。毎年、夏には灯籠流しがあるからね。その川の上を、妖精が飛んでいるの。とっても幻想的な絵」
そう話すうち、ばあちゃんは部屋を歩きまわりはじめた。
「どこにいったかしらね」
リビングのドアを開けて、玄関へいく。
「素敵な絵なのに。なくなったら、ノリコに怒られちゃう」
つっかけを履こうとした。おばさんが言う。
「捜そうにも、もっと手がかりがなくちゃ。議員さんて、名前覚えてますか?」
ばあちゃんはきょろきょろと、あたりを見わたす。
「さあ。議員さんて、誰だったかしら。あら……今日は投票の日だった? いかなくちゃ」
でていこうとするのを、俺は止めた。
「ばあちゃんは待ってて。見つけてくるから。俺が捜して、見せてあげるから」
「あら、やさしい人なのね。よろしくね。ありがとうね」
ばあちゃんは俺の手を握った。皺皺のあったかい手で、ぎゅうっと握ってくれた。
ばあちゃんたちが住んでいた家のあたりは、今では再開発でビルが建っているそうだ。
役場から市町村合併で市役所に変わったけれど、問いあわせれば絵の所在はわかるだろう。
母さんが住みこみで働いていた喫茶店が、今もまだあるんじゃないかとも、おばさんは教えてくれた。その店の、だいたいの場所を訊いた。岡山のばあちゃんの家――母さんの実家があった場所――からは、電車を乗り継いでいくところだった。
母さんが喫茶店で働いていたことは、はじめて知った。店の名前はわからなかったけれど、田舎にしてはめずらしくアジアンテイストな店だから、すぐにわかるはず、とのことだった。
とにかく、ばあちゃんの言葉を信じて、絵を捜したい。たとえ見つからなかったとしても、母さんが生きた土地を踏みしめて、その空気を吸ってみたい。
そうして、俺が母さんの命を奪ってしまったという現実と、きちんと向きあうんだ。
母さんの死の代償に、俺は生きているという呪縛を、自分で解きほぐす。
そのために、俺は絵を捜す。今までは逃げたり悲観的になったりで、こんなことを考えたことはない。
けれど、父さんが再婚するともなれば、俺も蹴りをつけなければいけない。
これは過去を振り返る一歩なんかじゃない。未来への、新しい一歩なんだ。
そう、信じたい。
帰りの電車の中で、早速スマートフォンから高速バスのチケットを予約した。
夏休みに入ってすぐのチケットは、どの日も売り切れ。結局、空席のあった、あさっての金曜のチケットを買った。
とつぜんのことになってしまったけれど、今すぐ旅立ちたいという気持ちがある。
家に帰るとリビングには誰もいなかった。ふと、出窓に目がいった。見なれない、青の陶器の鉢カバーが置かれ、その中にはテーブルヤシが入っている。ほとんどの葉を落とし、二枚だけ残った葉も茶色になりかけている。
俺からの、父の日のプレゼント。もう枯れ果てる運命なのに、どうして父さんは鉢カバーなんて買ったんだろう。
一階の父さんの部屋の前で足を止めた。ばあちゃんに会ってきたことを話そうか……やめておこう。俺の行動なんか、父さんの気になることでもない。
自分の部屋で着がえてから、夕飯を、とキッチンへいくと、つくってくれてあった。絹江さんだな。 父さんとふたりで食べたということは察しがつく。
普段は食器棚の奥のほうにあるお客さん用のお茶碗の位置が、いつもと微妙にちがう。今日、絹江さんは休みの日なのに、わざわざ夕飯をつくりにきてくれたんだ。ありがたいような、胸くそ悪いような。
キッチンに置いてあった料理をあたためる。ハンバーグに粉ふきいも、舞茸と豆腐の味噌汁。小学生の調理実習じゃあるまいし、と心の中で毒づいてみたものの、おいしい。
絹江さんはこの家での家事のどこまでを、〝仕事〟と思っているんだろうか。まだ結婚を認めてはいない息子のいないすきに、ふたりでこっそり夕飯を、しかもこの家で食べて帰るなんて、かなり図太いか、ただの鈍感だ。
絹江さんが家族になるってことは、俺の母親になるってことだ。母さんだなんて、認識できない。それは若すぎるからじゃない。
母親ってなんなんだ? わからない。俺に、わかるわけがないんだ。
だったら、どうやって受け入れたらいい?
皿を洗い終えて、リビングへふり向いた。
「うっわあっ!」
思わず大声をあげてしまった。いつのまにか父さんがいた。テーブルになにかの画集を広げて、熱心に見つめている。
「そんなに驚きなさんな」
口をハンカチで押さえてつぶやく。父さんはたいせつな画集を見るときには、ハンカチか手を口にあてるのだ。
やがて画集を閉じると言った。
「絹江さんにね、今夜は賢介の好物をつくるけど、なにがいいかと訊かれたんです。でもですね、なにがいいのか、僕にはわからなかったんです」
「俺の好物?」
なんだろう、突然。点数かせぎか? 母親ごっこなんかして。
「僕にはきみの好物が、わからなかったんですよ。鶏の唐揚げだったような気もするし、炊き込みご飯のような気もする。迷っているうちに、ハンバーグと言ってしまったんです。だから反省しながら、こうして気持ちを落ち着かせているんです」
表紙にちらりと目をやると、かなり古そうな、浮世絵の画集だった。
「それから、これですが」
テーブルに答案用紙を広げる。
「理数系が得意のようですね」
なんの気持ちも含まれていない声だった。それからまた画集を広げ、見入ってしまった。
ちゃんと誉めるということを、この人は知らないのだろうか。かまわれることもうざいけれど、かまわれないほうが、もっと最悪だ。
勉強なんかじゃ、結局は見つけられないんだ。ここにいる自分の、存在理由を。
これは甘えなのだろうか。いや、ちがう。俺は甘えてなんかいない……!
あのさ。鶏の唐揚げも炊き込みご飯もハンバーグも、全部俺の好きな食べ物だよ。心の中で言ってから、父さんをぐっとにらんだ。がまんなんて、できやしない。
「俺のいないすきに、絹江さんとふたりで晩飯かよ。信じられねえ」
俺は二階へ走った。母さんの絵を、見つけてやる。
ベッドに倒れこんで、目をぎゅうっと閉じた。くうっと奥歯を噛みしめた。
――俺の母さんは、たったひとりしかいないんだ。
七月十日、木曜日。太陽はぎらぎらとはしゃいで、夏を教える。梅雨は早々に明けた。
朝、登校前にコンビニで、高速バスのチケット代を支払った。
短縮授業の昼下がり。弁当を食べ終えて、俺と陽一は教室で練習をするところだった。
「あー。天気いいから、母ちゃんに蒲団干されちゃう~~~」
後ろの席に座った陽一が、おどけた声をだす。
「干したら気持ちよさそうだな。洗濯日和だし」
「さすが、主婦兼高校生。それよか、やべえ。オレ、ベッドの上に、エロ本置いたまんま」
「知らねえよ、そんなん」
「やべえよ。また怒られる~~~! 賢介んとこは、絹江さんくる日でしょ? 干されるの?」
「俺の部屋はいじらないように、前から言ってあるから。自分の蒲団は自分で干すんだ」
「エロ本が見つかるから、立ち入り禁止?」
誰もいない教室に、陽一の声が響く。
「バカ。陽一と一緒にすんな」
「隠すなよ、オレには。そうだ、大学教授の親父さんは、家にいるの?」
「いるよ。なんかの原稿書いてる」
「ってことは、絹江さんとふたりっきりか……鬼のいぬまに、ってやつ?」
一瞬、頭が真っ白になった。
「父親の情事なんか、考えたくもないね」
「ムキになんなよ。ま、その苛々だの、鬱々だのをさ、詞に書いてみてよ」
「詞?」
「曲、できそうなんだ。でもさ、歌詞がちっとも。賢介って、現国もよかったよね?」
「現国がよければ詞も書けると思ったら、おおまちがい」
「いいから書いてみてよ。やっぱさ、ボーカルが歌詞を書かないと、説得力ないじゃん?自分が本当に伝えたいことを歌わないと、表現力に乏しいじゃん?」
陽一の顔を見た。にっこりと微笑んでいる。こいつ、笑顔の魔術師だ。この笑顔を見ていると、なんだかこいつの思うツボになってしまう。
「で? その曲ってやつ、聴かせてみてよ」
陽一のアコースティックギターが鳴りはじめた。静かで乾いた音色を紡ぎだす。イントロはバラードでも、次第に激しいうねりとなって、耳に残るフレーズを何度も繰り返し、曲は終わった。
「なかなかいいかもよ?」
俺が声をかけると、陽一の目がきらきらした。
「ありがとー!」
にっこり笑う。俺は無邪気な陽一に、訊いてみたくなった。
「あのさ、陽一はテストの結果、親になんか言われた?」
「数学がよかったから、昨日は手巻き寿司だった。めずらしく、ちゃんとした夕飯だったよ。賢介が教えてくれたおかげ。マジ、感謝してる。次は歴史のヤマ、当ててよね」
肩をたたかれ、俺はうなずいた。普通の家庭ならテストの結果に、なんらかのリアクションがあるものなのか。普通のって、なにが普通かはわかならいけれど。
――もしかして。絹江さんはテストの結果を知って、そのお祝いに、俺の好きなメニューをつくろうと考えたのかもしれない。母親的なスタンスを、とりはじめたのかもしれない。彼女なりに、考えて。
「ばあちゃん、どうだった?」
陽一の明るい声。
「俺のこと、誰だかわからなかった」
「そっか……」
ギターをポロロンと鳴らす陽一に、昨日のことを話したくなった。
「ばあちゃんと、死んだ母さんの話ができた」
なに? という顔で、俺を見る。
「母さんが学生時代に描いた絵が、どこかにまだ残ってるみたいなんだ。美大にいってたんだけど、その卒業制作」
「美術大学?」
「そう。母さんが学生のころ、父さんはそこの大学教授の助手でいたんだ」
「それでふたりは出会ったんだね」
「うん……あのさ、旅にでるよ。急だけどバスのチケット、やっと取れたのが明日の夜」
「ねえ、もしかして絹江さんも一緒に? 家族旅行?」
「はあっ? あのさ、旅行っていえば誰かとだけど、旅っていったら、ひとり旅だろ? 母さんの絵を、捜そうと思って」
「ねえ、学校だってまだあんだよ?」
「そんなん、どうだっていい」
興味津々の顔で、陽一は俺を見る。
「ねえ、賢介くん? それって早い話が、家出だったりするのかなー?」
首をかしげてみせる。
「ねえ、曲の練習はどうすんだよー」
「あ、だいじょーぶ。一泊くらいで帰ってくるつもり」
「ねえ、どこいくのー、ねえ?」
「ねえねえうるさい。岡山のほうだよ」
「そう……ねえ」
「なに?」
「いってくれば?」
あっけらかんとした口調だった。
「いって、気持ちがすっきりするなら、いいじゃん。母親の痕跡を求めるうちに、父親の存在の大きさも、案外わかっちゃうかもよ? 行動を起こせば、なにかが変わるかもよ?」
「そうかな」
「そうだよ。夏の旅なんて、すっげえ青春だよな! でさ、オレも一緒に、いきたいんですけど」
「へっ?」
「一緒に家出しようよ。ふたりのが、おもしろそうじゃんかー、ねえ?」
「ダメ。俺はひとりでいきたいのっ!」
津軽三味線をケースから取りだした。指掛をして、撥を握る。一の糸、二の糸、三の糸を調弦してから、背筋を伸ばして撥を叩いた。思い浮かんだまま、左手を棹の上で動かす。なにを弾いているのかわかならい。即興だ。
俺は家出をするのか。陽一に言われるまでは、気づきもしなかった。
そういや、そうだ。ばあちゃんの言っていた絵は、家をでる口実だ。絵も見たいけれど、俺は外へでたかった。
陽一の奏でる、アコースティックギターの音が混ざる。ギターは弾く。津軽三味線は叩く。同じ弦楽器でも、それぞれの特色がある。実際に三味線以外の楽器と合奏するのは、陽一とがはじめてだ。それも洋楽器。
お互いの目を見あわせ、曲を終えた。
「ひとりでも楽しいけど、陽一の言うとおり、ふたりでも楽しいな」
「だろ? ねえ、早く帰ってきてよ、練習できないじゃん。……でさ、もっとメンバー多いと、さらに何倍も楽しいのかもね」
「え?」
「いや、なんとなく、なんとなくなんだけどね」
はははと、陽一は笑った。
さっき聴いたオリジナル曲を教えてもらっていると、廊下から足音が聞こえてきた。陽一がそちらに向く。
足音も、陽一の視線も、教室の入り口で止まった。
「きたね、きたきたきた。さ、こっちおいでよ」
フレンドリーに陽一が話しかける相手は――笹倉沙知だった。
「なんで?」
俺の声に笹倉沙知が、びくりとする。
「……なんでって……このあいだの詫び、するからって、本橋が……」
「あ……そうだった、そう! このあいだは、からかってごめんな。なにが〝怒るとウンコ投げるゴリラ〟だよな? 失礼極まりないよね。ほら、賢介!」
立ちあがった陽一が、俺の頭に手を伸ばして、強引に下げる。
「ほら、なんか言って。マジ頼むからさ」
ささやきのとおりに、「悪かった」、口先だけで言ってみる。
「でさ、笹倉、電話でも言ったけど、ピアノ弾けんでしょ? オレたちのユニット、入んない?」
「ちょ、陽一? 俺、聞いてないよ」
「わりい、賢介。おまえに言うと、なんだかんだ文句つけそうだったから。でも、最終的には受け入れてくれんの、わかってるから」
「ちょっと! ピアノが必要だって頼みこんでるの、斎藤のほうなんでしょ?」
「べつに、俺なんも言ってないし」
素直に言ったまでなのに、笹倉沙知がますます不機嫌になるのが見てとれた。ツッコまずにはいられない。
「笹倉って、すぐにイライラするよな。カルシウムたりてないんじゃねえの?」
彼女の顔が赤くなってゆく。
「……るさいっ! もうっ!」
「賢介、からかわないの。ほら、笹倉、ごめんて。機嫌直して。でさ、ピアノ弾けるんなら、オレらのユニットに入らない? キーボード、やらない?」
「やらないっ!」
笹倉沙知は帰っていった。足音を大きくひびかせて。
「あー、失敗だったね。マジ、ダメだったわ。賢介、からかいすぎ」
陽一は椅子に座ると、後ろにのけぞって天井を仰いだ。俺は言ってやった。
「でもさ。わざわざくるなんて、ピアノ弾きたいんじゃない? あいつ、帰宅部だろ」
「ああ……かもな。だったらまだ、望みはあるってことだ」
勝気な笑みを浮かべて、陽一はこたえた。
陽一がどうしてそんなに笹倉沙知にこだわるのか知らない。けれどとにかく陽一は、毎日笹倉の家に電話をして、キーボードをやろうと誘いまくっていたらしい。笹倉のピアノなんて、聴いたこともないくせに。
次の日の放課後だった。俺は陽一を、まっすぐ見つめた。
「あれなのか、陽一。これは、あれだと思っていいのか?」
「なに言ってんの。これとかあれとか、おばちゃんの会話じゃあるまいし」
「いや、だから、あれって言ったらあれだよ」
「だから、なに?」
「恋なのか?」
ぶっ。飲んでいたスプライトを、ふきだす陽一。七月十一日、金曜日。午後二時の暑い教室。
「け、賢介くん? もしもし? 誰が誰に、恋してるって?」
「陽一が、笹倉沙知に」
「んなわけ……いや、待てよ」
陽一は目を閉じた。とたんに静寂。グラウンドからの運動部の声が、大きく聴こえる。
「恋やなんかの前に、話してみたい。理由なんかない。なんとなく、フィーリングで」
「そっか……それって俺んときに感じたのと、おんなじような感じ?」
「ああ、そうそう。おんなじような感じ」
陽一はそう言うと、ギターを鳴らして「おんなじよーなーかんじー」と歌った。
「今日もくんの? 笹倉沙知」
訊いてみた。自分の声に期待がこもっていることに気づきながら。
「今日こなかったら、あきらめるって言ってある」
返事をする代わりに、うなずいてみせた。
なんとなく押し黙った俺たちの耳に、足音が迫ってきた。俺は言った。
「きたか」
「きたね」
陽一も返す。
「あの……!」
息をはずませて、笹倉沙知は立っていた。教室の入口に。
「キーボードって、持ってないんだよね。代わりにピアニカ、持ってきてみた」
「ってことは……」
言葉につまる陽一に代わって、俺は訊く。
「一緒に、音楽できんの?」
「うん。やってもいいよ……なんていうか、あの……よろしく」
仏頂面だったけれど、声は笑っていた。なかなかの進歩じゃん。笹倉沙知の声が笑っているなんて。陽一のがんばりに、拍手だ。
笹倉沙知はなかなか音感がいいかもしれない。流行りのJ-POPをギターで弾く陽一に、ピアニカを吹いてこたえてみせた。そこに俺の津軽三味線を、前にですぎないように乗せてみた。楽しくてたまらない自分がいる。
今夜、俺は旅立つ。
家出なら、書き置きも必要だろう。
悩んだあげく、破ったノートに黒ペンで書き記した。
ほんとうの母さんに、会ってきます。
置き手紙としては、かなりいいハッタリだ。自分の部屋の机の上に置いてみた。
絹江さんを母親として認めないとまでは、書けなかった。俺は絹江さんをそこまで嫌ってないし、彼女に哀しい思いはさせたくない。俺が苦手なのは、父さんなんだ。
旅費は学校の帰りに銀行でおろした。食材を買う生活費は父さんから預かっているけれど、それを使うのは気が引ける。だから貯金をおろした。子どものころからばあちゃんにもらっていた小遣いやお年玉だ。ばあちゃんがくれる額が、次第に大きくなっていったのを、認知症が進行しているせいだとは思いもしなかった。今、絵を捜しにいくために使うことで、ばあちゃん孝行ができるような気もする。
着がえの服は、とりあえず二日ぶん。スポーツバッグに入れて準備は整った。
七月十一日、午後六時半。バスの時間にはちょっと早いけれど、家をでることにした。キッチンの勝手口で、NIKEのエアマックスを履いていると、ドアが開いた。間の悪いことに、父さんが仕事から帰ってきた。
「どこかへいくんですか?」
狭い勝手口で父さんが靴を脱ぐから、俺は身体を傾けて、父さんが上にあがれるようにした。
「ちょっと友だちと夕飯食べてくる」
「そんな大荷物で?」
スリッパを履いて、父さんが座っている俺を見下ろす。
「ああこれ……本、貸す約束してるから」
嘘が口をついてでる。なんてこった、はちあわせなんて。
「絹江さんは今日から夏休みなんですよ。お友だちと、旅行にいったんです」
それがどうした。会えないから寂しいとでも言いたいのか。
「僕の夕飯は、どうしましょう」
「どうしましょうって……んなの、知らないよ。コンビニの弁当ですませてくれよ」
立ちあがってふり返れば、父さんが俺を見ていた。
「いつから冷たくなったんですか、きみは」
「俺は父さんのお手伝いさんじゃないんだ。とっとと絹江さんと結婚でもなんでもして、やってもらえばいいだろ」
自分の声に怒りがこもっていることに驚いた。父さんがおでこに皺を寄せ、目を大きく見開く。
「なんですか? 絹江さんがやればいいって言うんですか? そういう考えはどうかと思いますよ、きみ」
「なんだよ。父さんは料理もろくにしないくせに、よく言えるよな」
「僕は苦手なんですよ」
父さんの眉毛が、八の字になる。
苦手なのは、料理だけじゃないだろう? 俺のことだって……。
「俺なんか、生まれてこなけりゃよかったって思ってんだろ? 俺が母さんを殺したって、ずっとそう思ってんだろ? だから俺によそよそしくて、無頓着なんだろ?」
「……まあ、そうかもしれませんね」
なんつった?
否定しないのかよ!
「ノリコさんがいてこその、僕たちの子どもでした。父親の僕が、こんなことを言うのもどうかと思いますが……彼女なしで子どもがいても、家族とはなんなのか、僕には今でもよくわかりません」
返す言葉もなく、俺は息を呑んだ。
なんだよ、それ。この世に生まれ落ちた瞬間から、俺という人間は、存在する意味なんかなかったってことかよ……!
「でも、それは僕の立場からの視点です。僕はあえて、きみの生まれてきた意味を、きみの視点で見いだそうとしてきました。父子家庭でも、きみとだからうまくやってこられたんです」
「うまくなんかいってないから、こんな話になってんだろ?」
「ノリコさんは、きみを僕に残して旅立った。向うへ、きみまでつれていこうとはしなかった。そこにちゃんと意味があるんじゃないかと、僕は思うんです。だからこそ絹江さんと結婚をして、新しい家族を立て直してみたいんです。きみと三人で」
「うるせえよ!」
勝手口を飛びだした。ドアが閉まる刹那、父さんをにらめば、寂しそうな目が俺を見つめていた。
急いで自転車に乗った。ペダルをこいでこいで、こぎまくった。
そうするうちに、次第にあるメロディーが、頭の中に鳴りはじめた。
いい曲かもしれない。でも、どうやって留めておこう。ペンがない。メモ帳すらない。だいたい俺はコードを書けない。それにこれ、スマートフォンに残すんじゃなくて、ギターの音で聴きたい。
駅につくと、すぐさまスマートフォンから陽一に電話した。
『もしもし?』
ささやく声が返ってきた。俺は言った。
「陽一、おまえ今、ギターある? ギターの音で聴きたいんだけど」
『あるけど、オレ今、バスの中なんだ』
バスかよ。なんで今ごろバスなんだ。時間はない。曲が頭から飛んでしまう。
「いいメロディーが浮かんだんだ。降りて、ギター弾いてくれ。早く!」
『なんだよ、突然』
小言を言いつつも、陽一は次のバス停で降りた。停留所から乗ってくる人がいて、たまたま止まったからしかたなく、といったところだ。
『ギター、だしたよ。それからこの通話、メモリにしたから大丈夫。言っとくけど、住宅街のど真ん中だから。ろくでもない曲だったら、ぶっ飛ばす』
こっちだって帰宅ラッシュの駅前だ。人目につかないように、改札階へのエスカレーターから、できるだけ離れた。
「じゃ、いくよ」
メロディーを口ずさんだ。それを追うように、電話の向うからギターの音色が響く。ああ、やっぱりギターの音色で聴いて正解だ。
「……以上。ありがとな」
『へえ。おもしろいかもね……オレさ、おまえのこと、見送りにいくとこだったんだ』
「家出するヤツを見送る人間がいるか。しかもギターまでかついで?」
『ここにいるよ。ギターはファッション。ていうか、餞別の曲でも弾こうかと』
「それ、かなり恥ずかしい」
けれど俺は、陽一の気持ちがやけにうれしかった。
『賢介さ、ちゃんと帰ってこいよ。今の曲だって、完成させなくちゃならないし。自分探しの旅みたいなとこ、あるんだろ? 親父がどうでも、オレはおまえを待ってるよ?』
本当にこいつは、思ったことをストレートに言える性格なんだ。それがどんなにむずがゆくなるような台詞でも。
「ああ。待ってろよ。バス、降ろして悪かったな」
『いってらっしゃい』
「いってくるよ」
俺は絵を見つけて帰ってくる。実物でも、写真でも、持って帰ってくる。ばあちゃんの家でトマトジュースを飲みながら、ばあちゃんと一緒に母さんの絵を見るために。