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Starlet――スターレット  作者: 白井かなこ
3/9

3 ゆくえしれずの絵

 

 学校から家へ戻った。どうしても津軽三味線を取りに帰りたかったからだ。

 今日返された数学と化学の答案用紙を、誰もいないリビングのテーブルの上に置いて、着がえて家をでる。

 隣町で母さんの兄夫婦と住むばあちゃんの家についたのは、夕方近かった。


 俺が中学三年のころまでは、まだばあちゃんも元気で、毎日のようにばあちゃんの家に通った。津軽三味線を教えてもらうために。普段はやさしいばあちゃんも、津軽三味線の手ほどきとなると厳しかった。それでも、楽しくてたまらなかった。

 じいちゃんはもう、この世にいない。父さんのほうの祖父母も、俺が小さいころに亡くなってしまった。


 突然の俺の訪問を、おばさんは喜んで迎えてくれた。おじさんはまだ、会社だった。

「賢介くんは、もうすぐ夏休み?」

「来週の土曜日からです」

 いつものトマトジュースがだされた。小さなころから、いついってもトマトジュースだ。子どもがいない家だからオレンジジュースやコーラを常備していないのではなく、「賢介くんはトマトジュースが好き」なんて思っていることを、このあいだおばさんから聞いた。それを知って、なんだか申し訳なく思った。好きじゃない。だされるから、飲んでいるだけだ。

 とにかく、俺はばあちゃんの津軽三味線と、トマトジュースのおかげで大きくなったようなものだ。ろくに会話もない父さんに、育てられたのではなく。


「いきなりすみません。急にばあちゃんに会いたくなって」

 おばさんに言うと、「起きてるかしら」と、和室へ向かった。

 リビングのソファーで待つ。リフォームをしたばかりで、どこもかしこもピカピカ、なのにインテリアのちぐはぐな部屋だ。  

 ガラス扉のついたキャビネットには、ブランドものの洋皿やカップ&ソーサーと一緒に、なんとか焼きの湯飲みがやたらと並べられている。ボヘミアンガラスがあれば、酒の徳利や、お猪口もある。

 その上に置いたガラスケースには、古い日本人形が収まっている。目が細く、顔のふっくらとした着物姿の女の子だ。かと思えば隣には、ミロのヴィーナスの像が飾られている。

 和と洋、ごった煮のそれこそが、ばあちゃんちのイメージそのもので、俺は好きだったりする。


 前におじさんから、母さんの子どものころの写真がでてきたと、見せてもらったことがあった。白茶けた印画紙に収まったあどけない女の子は、とても母さんとは思えなくて、なめていたスプーンをあやまって噛んだときのように、ぞくっとした。


「まあ、こんにちは~」

 その声にふり向いて、「ばあちゃん、こんにちは」とこたえる。表情は乏しくなってしまったけれど、この人が母さんを産んだ人だと思うと、安心する。

「お義母さん、賢介くんがきてくれましたよ。よかったですね」 

 ばあちゃんをソファーに座らせたおばさんが、静かな声で言った。ばあちゃんの手を握って、ばあちゃんの顔の正面で目を見つめて。

 俺もばあちゃんのそばにいって、カーペットの上に座った。

「こんにちは。あのさ、ばあちゃん。俺の父さんが、結婚するって言いだしたんだ」

「結婚!」

 速攻で返したのはばあちゃんではなく、おばさんだった。

「今まで敏巳さん、おひとりでがんばってこられたものね。でも賢介くんは年ごろなのに、大丈夫?」

「いや、それが……相手、三十二歳なんです」

「うそ、そんなにお若いの? 男はいくつになっても若い子がいいっていうけど、いくらなんでもねえ……賢介くんだって、そんなに若いお母さんじゃ、複雑でしょう」

 おばさんの言葉に、ため息でこたえる。

「結婚?」

 ばあちゃんが、逃しまくったタイミングの中でつぶやいた。

「再婚するんですって。賢介くんのお父さん。ほら、敏巳さんよ」

 耳元でされる説明にはおかまいなしに、ばあちゃんの目が空を泳ぐ。やがてその目は俺が持ってきた三味線ケースに止まった。じっと見つめている。

「弾いてみるよ……」

 俺は背筋を正した。

「師匠、聴いてください」


 黒いハードケースを開け、覆っている紫の布を取る。花梨でできた胴の、赤茶色っぽく光る三味線が現れた。

 中学の入学祝いにばあちゃんが買ってくれた、俺の二本目の津軽三味線。高校に入学したら、もっと高価な紅木のを買ってあげると言ってくれた約束は、叶わなかった。

 ソファーに座って撥を持った。撥の先は鼈甲だ。「自分の手になじむ撥を選びなさい」と言うばあちゃんと、時間をかけて選んだものだった。

 一の糸、二の糸、三の糸。糸巻きを操って、ヴェン、ヴェヴェン……何度も繰り返して調子を合わせる。弾いたまま息を整えて、気合を入れて……。


「はっ!」


 大きく発した直後、右手で持った撥で胴を叩く。左手を小刻みに動かす。

「〝津軽じょんがら節〟ね」

 曲のさわりを聴いたおばさんが、ばあちゃんに教えるように言う。いや、言わなくても、ばあちゃんには理解できている。曲が進むにつれて、こわばっていた顔がほころび、皺皺の手で拍子を取りはじめた。

 やがてばあちゃんは言った。

「ダメだよ、それじゃあ」

 おいでおいでと手をふる。俺は三味線と撥、それから指掛けをあずけた。

 ばあちゃんが同じ曲を最初から奏ではじめた。背筋をしゃきりと伸ばし、頬をほんのり紅くさせて。 

 この瞬間、ばあちゃんに生気がみなぎる。それがなによりもうれしい。懸命に叩く撥がだす音も、左手の動かし方も、かつての片鱗さえないとしても。

 曲の途中で、ばあちゃんはぴたりと手を止めた。

「どうしたの?」

 訊いた俺のことは見ないで、ばあちゃんは撥をながめている。

「ノリコの絵は……どうしたかしら……」

 ノリコとは、死んだ母さんのことだ。

「なあに、お義母さん?」

 おばさんが三味線と撥を受け取り、俺にそっとわたしてくれた。

「ほら、ノリコの卒業制作の、あの川辺の絵よ」

 きょろきょろとリビングを見渡す。

「お義母さん、ノリコさんの絵は全部、敏巳さんが持っているんでしょう?」

「いや、あの絵だけは、ノリコと縁のあった、議員さんが気に入ってね」

 指掛けをした手を、なつかしそうにばあちゃんが見つめる。しっかりとした口調で話す。

「議員さんにね、役場に飾らせてくれって言われて、譲ったの。玄関に入るとすぐ、真っ正面にあったじゃない? 名前と一緒に」

「ばあちゃん、どこの役場?」

「なによ、うちの役場っていったらこの近くでしょ。うちから五分もしないでしょうに」

 その言葉に、おばさんが頭を横に振った。

「昔と今とが混同しちゃってるわ。この近くに役場なんてないし。きっとお義母さんが、亡くなったお義父さんと住んでた、岡山の田舎のことだわ」

「もう一度、あの絵が見たいねえ」

 ばあちゃんが、しみじみと言った。俺だって見たい。母さんが描いた絵を、俺は見たことがない。一度も会ったことのない母さんの絵に、俺は出会いたい。

「ばあちゃん、それって、どんな絵?」

「大きな川にね、灯籠がいくつも浮かんでいるのよ。毎年、夏には灯籠流しがあるからね。その川の上を、妖精が飛んでいるの。とっても幻想的な絵」

 そう話すうち、ばあちゃんは部屋を歩きまわりはじめた。

「どこにいったかしらね」

 リビングのドアを開けて、玄関へいく。

「素敵な絵なのに。なくなったら、ノリコに怒られちゃう」

 つっかけを履こうとした。おばさんが言う。

「捜そうにも、もっと手がかりがなくちゃ。議員さんて、名前覚えてますか?」

 ばあちゃんはきょろきょろと、あたりを見わたす。

「さあ。議員さんて、誰だったかしら。あら……今日は投票の日だった? いかなくちゃ」

でていこうとするのを、俺は止めた。

「ばあちゃんは待ってて。見つけてくるから。俺が捜して、見せてあげるから」

「あら、やさしい人なのね。よろしくね。ありがとうね」

 ばあちゃんは俺の手を握った。皺皺のあったかい手で、ぎゅうっと握ってくれた。

 

 

 ばあちゃんたちが住んでいた家のあたりは、今では再開発でビルが建っているそうだ。

 役場から市町村合併で市役所に変わったけれど、問いあわせれば絵の所在はわかるだろう。


 母さんが住みこみで働いていた喫茶店が、今もまだあるんじゃないかとも、おばさんは教えてくれた。その店の、だいたいの場所を訊いた。岡山のばあちゃんの家――母さんの実家があった場所――からは、電車を乗り継いでいくところだった。


 母さんが喫茶店で働いていたことは、はじめて知った。店の名前はわからなかったけれど、田舎にしてはめずらしくアジアンテイストな店だから、すぐにわかるはず、とのことだった。

 とにかく、ばあちゃんの言葉を信じて、絵を捜したい。たとえ見つからなかったとしても、母さんが生きた土地を踏みしめて、その空気を吸ってみたい。


 そうして、俺が母さんの命を奪ってしまったという現実と、きちんと向きあうんだ。

 母さんの死の代償に、俺は生きているという呪縛を、自分で解きほぐす。

 そのために、俺は絵を捜す。今までは逃げたり悲観的になったりで、こんなことを考えたことはない。

 けれど、父さんが再婚するともなれば、俺も蹴りをつけなければいけない。

 これは過去を振り返る一歩なんかじゃない。未来への、新しい一歩なんだ。

 そう、信じたい。

 


 帰りの電車の中で、早速スマートフォンから高速バスのチケットを予約した。

 夏休みに入ってすぐのチケットは、どの日も売り切れ。結局、空席のあった、あさっての金曜のチケットを買った。

 とつぜんのことになってしまったけれど、今すぐ旅立ちたいという気持ちがある。


 家に帰るとリビングには誰もいなかった。ふと、出窓に目がいった。見なれない、青の陶器の鉢カバーが置かれ、その中にはテーブルヤシが入っている。ほとんどの葉を落とし、二枚だけ残った葉も茶色になりかけている。

 俺からの、父の日のプレゼント。もう枯れ果てる運命なのに、どうして父さんは鉢カバーなんて買ったんだろう。


 一階の父さんの部屋の前で足を止めた。ばあちゃんに会ってきたことを話そうか……やめておこう。俺の行動なんか、父さんの気になることでもない。

 自分の部屋で着がえてから、夕飯を、とキッチンへいくと、つくってくれてあった。絹江さんだな。 父さんとふたりで食べたということは察しがつく。

 普段は食器棚の奥のほうにあるお客さん用のお茶碗の位置が、いつもと微妙にちがう。今日、絹江さんは休みの日なのに、わざわざ夕飯をつくりにきてくれたんだ。ありがたいような、胸くそ悪いような。


 キッチンに置いてあった料理をあたためる。ハンバーグに粉ふきいも、舞茸と豆腐の味噌汁。小学生の調理実習じゃあるまいし、と心の中で毒づいてみたものの、おいしい。

 絹江さんはこの家での家事のどこまでを、〝仕事〟と思っているんだろうか。まだ結婚を認めてはいない息子のいないすきに、ふたりでこっそり夕飯を、しかもこの家で食べて帰るなんて、かなり図太いか、ただの鈍感だ。

 絹江さんが家族になるってことは、俺の母親になるってことだ。母さんだなんて、認識できない。それは若すぎるからじゃない。


 母親ってなんなんだ? わからない。俺に、わかるわけがないんだ。

 だったら、どうやって受け入れたらいい?  


 皿を洗い終えて、リビングへふり向いた。

「うっわあっ!」

 思わず大声をあげてしまった。いつのまにか父さんがいた。テーブルになにかの画集を広げて、熱心に見つめている。

「そんなに驚きなさんな」

 口をハンカチで押さえてつぶやく。父さんはたいせつな画集を見るときには、ハンカチか手を口にあてるのだ。

 やがて画集を閉じると言った。

「絹江さんにね、今夜は賢介の好物をつくるけど、なにがいいかと訊かれたんです。でもですね、なにがいいのか、僕にはわからなかったんです」

「俺の好物?」

 なんだろう、突然。点数かせぎか? 母親ごっこなんかして。 

「僕にはきみの好物が、わからなかったんですよ。鶏の唐揚げだったような気もするし、炊き込みご飯のような気もする。迷っているうちに、ハンバーグと言ってしまったんです。だから反省しながら、こうして気持ちを落ち着かせているんです」

 表紙にちらりと目をやると、かなり古そうな、浮世絵の画集だった。

「それから、これですが」

 テーブルに答案用紙を広げる。

「理数系が得意のようですね」

 なんの気持ちも含まれていない声だった。それからまた画集を広げ、見入ってしまった。

 ちゃんと誉めるということを、この人は知らないのだろうか。かまわれることもうざいけれど、かまわれないほうが、もっと最悪だ。


 勉強なんかじゃ、結局は見つけられないんだ。ここにいる自分の、存在理由を。

 これは甘えなのだろうか。いや、ちがう。俺は甘えてなんかいない……!

 あのさ。鶏の唐揚げも炊き込みご飯もハンバーグも、全部俺の好きな食べ物だよ。心の中で言ってから、父さんをぐっとにらんだ。がまんなんて、できやしない。

「俺のいないすきに、絹江さんとふたりで晩飯かよ。信じられねえ」

 俺は二階へ走った。母さんの絵を、見つけてやる。

 ベッドに倒れこんで、目をぎゅうっと閉じた。くうっと奥歯を噛みしめた。

 ――俺の母さんは、たったひとりしかいないんだ。



 七月十日、木曜日。太陽はぎらぎらとはしゃいで、夏を教える。梅雨は早々に明けた。

 朝、登校前にコンビニで、高速バスのチケット代を支払った。

 短縮授業の昼下がり。弁当を食べ終えて、俺と陽一は教室で練習をするところだった。

「あー。天気いいから、母ちゃんに蒲団干されちゃう~~~」

 後ろの席に座った陽一が、おどけた声をだす。

「干したら気持ちよさそうだな。洗濯日和だし」

「さすが、主婦兼高校生。それよか、やべえ。オレ、ベッドの上に、エロ本置いたまんま」

「知らねえよ、そんなん」

「やべえよ。また怒られる~~~! 賢介んとこは、絹江さんくる日でしょ? 干されるの?」

「俺の部屋はいじらないように、前から言ってあるから。自分の蒲団は自分で干すんだ」

「エロ本が見つかるから、立ち入り禁止?」

 誰もいない教室に、陽一の声が響く。

「バカ。陽一と一緒にすんな」

「隠すなよ、オレには。そうだ、大学教授の親父さんは、家にいるの?」

「いるよ。なんかの原稿書いてる」

「ってことは、絹江さんとふたりっきりか……鬼のいぬまに、ってやつ?」

 一瞬、頭が真っ白になった。

「父親の情事なんか、考えたくもないね」

「ムキになんなよ。ま、その苛々だの、鬱々だのをさ、詞に書いてみてよ」

「詞?」

「曲、できそうなんだ。でもさ、歌詞がちっとも。賢介って、現国もよかったよね?」

「現国がよければ詞も書けると思ったら、おおまちがい」

「いいから書いてみてよ。やっぱさ、ボーカルが歌詞を書かないと、説得力ないじゃん?自分が本当に伝えたいことを歌わないと、表現力に乏しいじゃん?」


 陽一の顔を見た。にっこりと微笑んでいる。こいつ、笑顔の魔術師だ。この笑顔を見ていると、なんだかこいつの思うツボになってしまう。

「で? その曲ってやつ、聴かせてみてよ」

 陽一のアコースティックギターが鳴りはじめた。静かで乾いた音色を紡ぎだす。イントロはバラードでも、次第に激しいうねりとなって、耳に残るフレーズを何度も繰り返し、曲は終わった。

「なかなかいいかもよ?」

 俺が声をかけると、陽一の目がきらきらした。

「ありがとー!」

 にっこり笑う。俺は無邪気な陽一に、訊いてみたくなった。

「あのさ、陽一はテストの結果、親になんか言われた?」

「数学がよかったから、昨日は手巻き寿司だった。めずらしく、ちゃんとした夕飯だったよ。賢介が教えてくれたおかげ。マジ、感謝してる。次は歴史のヤマ、当ててよね」


 肩をたたかれ、俺はうなずいた。普通の家庭ならテストの結果に、なんらかのリアクションがあるものなのか。普通のって、なにが普通かはわかならいけれど。

 ――もしかして。絹江さんはテストの結果を知って、そのお祝いに、俺の好きなメニューをつくろうと考えたのかもしれない。母親的なスタンスを、とりはじめたのかもしれない。彼女なりに、考えて。


「ばあちゃん、どうだった?」

 陽一の明るい声。

「俺のこと、誰だかわからなかった」

「そっか……」

 ギターをポロロンと鳴らす陽一に、昨日のことを話したくなった。

「ばあちゃんと、死んだ母さんの話ができた」

 なに? という顔で、俺を見る。

「母さんが学生時代に描いた絵が、どこかにまだ残ってるみたいなんだ。美大にいってたんだけど、その卒業制作」

「美術大学?」

「そう。母さんが学生のころ、父さんはそこの大学教授の助手でいたんだ」

「それでふたりは出会ったんだね」

「うん……あのさ、旅にでるよ。急だけどバスのチケット、やっと取れたのが明日の夜」

「ねえ、もしかして絹江さんも一緒に? 家族旅行?」

「はあっ? あのさ、旅行っていえば誰かとだけど、旅っていったら、ひとり旅だろ? 母さんの絵を、捜そうと思って」

「ねえ、学校だってまだあんだよ?」

「そんなん、どうだっていい」

 興味津々の顔で、陽一は俺を見る。

「ねえ、賢介くん? それって早い話が、家出だったりするのかなー?」

 首をかしげてみせる。

「ねえ、曲の練習はどうすんだよー」

「あ、だいじょーぶ。一泊くらいで帰ってくるつもり」

「ねえ、どこいくのー、ねえ?」

「ねえねえうるさい。岡山のほうだよ」

「そう……ねえ」

「なに?」

「いってくれば?」

 あっけらかんとした口調だった。

「いって、気持ちがすっきりするなら、いいじゃん。母親の痕跡を求めるうちに、父親の存在の大きさも、案外わかっちゃうかもよ? 行動を起こせば、なにかが変わるかもよ?」

「そうかな」

「そうだよ。夏の旅なんて、すっげえ青春だよな! でさ、オレも一緒に、いきたいんですけど」

「へっ?」

「一緒に家出しようよ。ふたりのが、おもしろそうじゃんかー、ねえ?」

「ダメ。俺はひとりでいきたいのっ!」

 津軽三味線をケースから取りだした。指掛をして、撥を握る。一の糸、二の糸、三の糸を調弦してから、背筋を伸ばして撥を叩いた。思い浮かんだまま、左手を棹の上で動かす。なにを弾いているのかわかならい。即興だ。


 俺は家出をするのか。陽一に言われるまでは、気づきもしなかった。

 そういや、そうだ。ばあちゃんの言っていた絵は、家をでる口実だ。絵も見たいけれど、俺は外へでたかった。


 陽一の奏でる、アコースティックギターの音が混ざる。ギターは弾く。津軽三味線は叩く。同じ弦楽器でも、それぞれの特色がある。実際に三味線以外の楽器と合奏するのは、陽一とがはじめてだ。それも洋楽器。

 お互いの目を見あわせ、曲を終えた。


「ひとりでも楽しいけど、陽一の言うとおり、ふたりでも楽しいな」

「だろ? ねえ、早く帰ってきてよ、練習できないじゃん。……でさ、もっとメンバー多いと、さらに何倍も楽しいのかもね」

「え?」

「いや、なんとなく、なんとなくなんだけどね」

 はははと、陽一は笑った。

さっき聴いたオリジナル曲を教えてもらっていると、廊下から足音が聞こえてきた。陽一がそちらに向く。

 足音も、陽一の視線も、教室の入り口で止まった。

「きたね、きたきたきた。さ、こっちおいでよ」

 フレンドリーに陽一が話しかける相手は――笹倉沙知だった。

「なんで?」 

 俺の声に笹倉沙知が、びくりとする。

「……なんでって……このあいだの詫び、するからって、本橋が……」

「あ……そうだった、そう! このあいだは、からかってごめんな。なにが〝怒るとウンコ投げるゴリラ〟だよな? 失礼極まりないよね。ほら、賢介!」

 立ちあがった陽一が、俺の頭に手を伸ばして、強引に下げる。

「ほら、なんか言って。マジ頼むからさ」

 ささやきのとおりに、「悪かった」、口先だけで言ってみる。

「でさ、笹倉、電話でも言ったけど、ピアノ弾けんでしょ? オレたちのユニット、入んない?」

「ちょ、陽一? 俺、聞いてないよ」

「わりい、賢介。おまえに言うと、なんだかんだ文句つけそうだったから。でも、最終的には受け入れてくれんの、わかってるから」

「ちょっと! ピアノが必要だって頼みこんでるの、斎藤のほうなんでしょ?」

「べつに、俺なんも言ってないし」

 素直に言ったまでなのに、笹倉沙知がますます不機嫌になるのが見てとれた。ツッコまずにはいられない。

「笹倉って、すぐにイライラするよな。カルシウムたりてないんじゃねえの?」

 彼女の顔が赤くなってゆく。

「……るさいっ! もうっ!」

「賢介、からかわないの。ほら、笹倉、ごめんて。機嫌直して。でさ、ピアノ弾けるんなら、オレらのユニットに入らない? キーボード、やらない?」

「やらないっ!」

 笹倉沙知は帰っていった。足音を大きくひびかせて。

「あー、失敗だったね。マジ、ダメだったわ。賢介、からかいすぎ」

 陽一は椅子に座ると、後ろにのけぞって天井を仰いだ。俺は言ってやった。

「でもさ。わざわざくるなんて、ピアノ弾きたいんじゃない? あいつ、帰宅部だろ」

「ああ……かもな。だったらまだ、望みはあるってことだ」

 勝気な笑みを浮かべて、陽一はこたえた。



 陽一がどうしてそんなに笹倉沙知にこだわるのか知らない。けれどとにかく陽一は、毎日笹倉の家に電話をして、キーボードをやろうと誘いまくっていたらしい。笹倉のピアノなんて、聴いたこともないくせに。


 次の日の放課後だった。俺は陽一を、まっすぐ見つめた。

「あれなのか、陽一。これは、あれだと思っていいのか?」

「なに言ってんの。これとかあれとか、おばちゃんの会話じゃあるまいし」

「いや、だから、あれって言ったらあれだよ」

「だから、なに?」

「恋なのか?」

 ぶっ。飲んでいたスプライトを、ふきだす陽一。七月十一日、金曜日。午後二時の暑い教室。

「け、賢介くん? もしもし? 誰が誰に、恋してるって?」

「陽一が、笹倉沙知に」

「んなわけ……いや、待てよ」

 陽一は目を閉じた。とたんに静寂。グラウンドからの運動部の声が、大きく聴こえる。

「恋やなんかの前に、話してみたい。理由なんかない。なんとなく、フィーリングで」

「そっか……それって俺んときに感じたのと、おんなじような感じ?」

「ああ、そうそう。おんなじような感じ」

 陽一はそう言うと、ギターを鳴らして「おんなじよーなーかんじー」と歌った。

「今日もくんの? 笹倉沙知」

 訊いてみた。自分の声に期待がこもっていることに気づきながら。

「今日こなかったら、あきらめるって言ってある」

 返事をする代わりに、うなずいてみせた。

 なんとなく押し黙った俺たちの耳に、足音が迫ってきた。俺は言った。

「きたか」

「きたね」

 陽一も返す。

「あの……!」

 息をはずませて、笹倉沙知は立っていた。教室の入口に。

「キーボードって、持ってないんだよね。代わりにピアニカ、持ってきてみた」

「ってことは……」

 言葉につまる陽一に代わって、俺は訊く。

「一緒に、音楽できんの?」

「うん。やってもいいよ……なんていうか、あの……よろしく」

 仏頂面だったけれど、声は笑っていた。なかなかの進歩じゃん。笹倉沙知の声が笑っているなんて。陽一のがんばりに、拍手だ。


 笹倉沙知はなかなか音感がいいかもしれない。流行りのJ-POPをギターで弾く陽一に、ピアニカを吹いてこたえてみせた。そこに俺の津軽三味線を、前にですぎないように乗せてみた。楽しくてたまらない自分がいる。



 今夜、俺は旅立つ。

 家出なら、書き置きも必要だろう。

 悩んだあげく、破ったノートに黒ペンで書き記した。

  

   ほんとうの母さんに、会ってきます。

 

 置き手紙としては、かなりいいハッタリだ。自分の部屋の机の上に置いてみた。

 絹江さんを母親として認めないとまでは、書けなかった。俺は絹江さんをそこまで嫌ってないし、彼女に哀しい思いはさせたくない。俺が苦手なのは、父さんなんだ。

 旅費は学校の帰りに銀行でおろした。食材を買う生活費は父さんから預かっているけれど、それを使うのは気が引ける。だから貯金をおろした。子どものころからばあちゃんにもらっていた小遣いやお年玉だ。ばあちゃんがくれる額が、次第に大きくなっていったのを、認知症が進行しているせいだとは思いもしなかった。今、絵を捜しにいくために使うことで、ばあちゃん孝行ができるような気もする。

 着がえの服は、とりあえず二日ぶん。スポーツバッグに入れて準備は整った。

 七月十一日、午後六時半。バスの時間にはちょっと早いけれど、家をでることにした。キッチンの勝手口で、NIKEのエアマックスを履いていると、ドアが開いた。間の悪いことに、父さんが仕事から帰ってきた。

「どこかへいくんですか?」

 狭い勝手口で父さんが靴を脱ぐから、俺は身体を傾けて、父さんが上にあがれるようにした。

「ちょっと友だちと夕飯食べてくる」

「そんな大荷物で?」

 スリッパを履いて、父さんが座っている俺を見下ろす。

「ああこれ……本、貸す約束してるから」

 嘘が口をついてでる。なんてこった、はちあわせなんて。

「絹江さんは今日から夏休みなんですよ。お友だちと、旅行にいったんです」

 それがどうした。会えないから寂しいとでも言いたいのか。

「僕の夕飯は、どうしましょう」

「どうしましょうって……んなの、知らないよ。コンビニの弁当ですませてくれよ」

 立ちあがってふり返れば、父さんが俺を見ていた。

「いつから冷たくなったんですか、きみは」

「俺は父さんのお手伝いさんじゃないんだ。とっとと絹江さんと結婚でもなんでもして、やってもらえばいいだろ」

 自分の声に怒りがこもっていることに驚いた。父さんがおでこに皺を寄せ、目を大きく見開く。

「なんですか? 絹江さんがやればいいって言うんですか? そういう考えはどうかと思いますよ、きみ」

「なんだよ。父さんは料理もろくにしないくせに、よく言えるよな」

「僕は苦手なんですよ」

 父さんの眉毛が、八の字になる。

 苦手なのは、料理だけじゃないだろう? 俺のことだって……。


「俺なんか、生まれてこなけりゃよかったって思ってんだろ? 俺が母さんを殺したって、ずっとそう思ってんだろ? だから俺によそよそしくて、無頓着なんだろ?」


「……まあ、そうかもしれませんね」

 なんつった? 

 否定しないのかよ!


「ノリコさんがいてこその、僕たちの子どもでした。父親の僕が、こんなことを言うのもどうかと思いますが……彼女なしで子どもがいても、家族とはなんなのか、僕には今でもよくわかりません」

 返す言葉もなく、俺は息を呑んだ。

なんだよ、それ。この世に生まれ落ちた瞬間から、俺という人間は、存在する意味なんかなかったってことかよ……!

「でも、それは僕の立場からの視点です。僕はあえて、きみの生まれてきた意味を、きみの視点で見いだそうとしてきました。父子家庭でも、きみとだからうまくやってこられたんです」

「うまくなんかいってないから、こんな話になってんだろ?」

「ノリコさんは、きみを僕に残して旅立った。向うへ、きみまでつれていこうとはしなかった。そこにちゃんと意味があるんじゃないかと、僕は思うんです。だからこそ絹江さんと結婚をして、新しい家族を立て直してみたいんです。きみと三人で」

「うるせえよ!」


 勝手口を飛びだした。ドアが閉まる刹那、父さんをにらめば、寂しそうな目が俺を見つめていた。

 急いで自転車に乗った。ペダルをこいでこいで、こぎまくった。

 そうするうちに、次第にあるメロディーが、頭の中に鳴りはじめた。

 いい曲かもしれない。でも、どうやって留めておこう。ペンがない。メモ帳すらない。だいたい俺はコードを書けない。それにこれ、スマートフォンに残すんじゃなくて、ギターの音で聴きたい。

 駅につくと、すぐさまスマートフォンから陽一に電話した。

『もしもし?』

 ささやく声が返ってきた。俺は言った。

「陽一、おまえ今、ギターある? ギターの音で聴きたいんだけど」

『あるけど、オレ今、バスの中なんだ』

 バスかよ。なんで今ごろバスなんだ。時間はない。曲が頭から飛んでしまう。

「いいメロディーが浮かんだんだ。降りて、ギター弾いてくれ。早く!」

『なんだよ、突然』

 小言を言いつつも、陽一は次のバス停で降りた。停留所から乗ってくる人がいて、たまたま止まったからしかたなく、といったところだ。

『ギター、だしたよ。それからこの通話、メモリにしたから大丈夫。言っとくけど、住宅街のど真ん中だから。ろくでもない曲だったら、ぶっ飛ばす』

 こっちだって帰宅ラッシュの駅前だ。人目につかないように、改札階へのエスカレーターから、できるだけ離れた。

「じゃ、いくよ」

 メロディーを口ずさんだ。それを追うように、電話の向うからギターの音色が響く。ああ、やっぱりギターの音色で聴いて正解だ。

「……以上。ありがとな」

『へえ。おもしろいかもね……オレさ、おまえのこと、見送りにいくとこだったんだ』

「家出するヤツを見送る人間がいるか。しかもギターまでかついで?」

『ここにいるよ。ギターはファッション。ていうか、餞別の曲でも弾こうかと』

「それ、かなり恥ずかしい」

 けれど俺は、陽一の気持ちがやけにうれしかった。

『賢介さ、ちゃんと帰ってこいよ。今の曲だって、完成させなくちゃならないし。自分探しの旅みたいなとこ、あるんだろ? 親父がどうでも、オレはおまえを待ってるよ?』

 本当にこいつは、思ったことをストレートに言える性格なんだ。それがどんなにむずがゆくなるような台詞でも。

「ああ。待ってろよ。バス、降ろして悪かったな」

『いってらっしゃい』 

「いってくるよ」

 俺は絵を見つけて帰ってくる。実物でも、写真でも、持って帰ってくる。ばあちゃんの家でトマトジュースを飲みながら、ばあちゃんと一緒に母さんの絵を見るために。



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