2 雨
学校から家まではバスと電車を乗り継ぐ。そのあいだ、本橋は音楽の話をしまくった。
「オレ、UKロックが好きなんだ」
聴かせてくれたi‐podからは、俺の知らないバンドの曲が流れていた。嫌いなタイプではなく、むしろ好きなほうだと言ったら、本橋は目を輝かせて喜んだ。
家の最寄り駅から自転車を押し、住宅街のゆるい上り坂を並んで歩く。陽はまだ高くて、頭の上をツバメが飛んでいる。
本橋が一年の終わりにバスケ部をやめ、それから入った軽音楽部も今年の五月にやめたこと――身長が高くはない上に体育会系のノリについていけず、バンドの道を選んだものの、音楽性の違いから退部したという、もっともらしい理由――を、熱く語ってくれた。
途中でスーパーに寄って、夕飯の食材と、棒アイスをふたつ買った。
スーパーをでると、夕陽がマーマレード色に街を染めていた。
高台のここから見る、夕暮れどきの空が好きだ。その色も、雲の形も、同じときは二度とない。
「ありえない」
本橋はそう口にした。おもしろいものを見つけて、喜びと驚きのまざったような表情で。
「ありえないっすよ? オレの、っていうか男子高校生の日常で、鰯なんて買わないよ、フツー。しかも開いてあるのじゃなくて、まるごと! すげえ、賢介、おまえすげえな!」
隣を歩きながらしきりに感嘆の声をあげた本橋は、俺の自転車のかごのレジ袋を開けると、アイスを取りだした。水色の、ソーダ味。袋を破ってかぶりついたとたん、「うめえ」とうなった。
俺は自転車を押して歩く。
追いかける本橋は、アイスをなめていたかと思いきや、「あっ!」と、大きく発した。
「ひらめいた! 賢介が焼きそばなら、オレは素朴なパンだよな。ふたりで焼きそばパンだ。焼きそばとパンて、運命的な出会いだよな……ユニット名、焼きそばパンてのはどう?」
「それはもちろん、却下でしょう」
そうこうするうちに家についた。ガレージに自転車を止めて、門を開ける。
「うわあ、庭に風見鶏がある! オシャレな洋風の一戸建てなことで」
またしても大げさに感動してみせる本橋は、もはやレポーターのようだ。
「あれは父さんの趣味。昔からあるんだ」
「風見鶏のある家なんてオレ、はじめて。すげえ」
玄関へ通すと、本橋は「失礼しまぁす」と、礼儀正しくつぶやいた。ローファーをきちんとそろえて、けれどもアイスはくわえたままで、家にあがった。
リビングへ入ろうとしたら、ドアガラスの向こうに、父さんとハウスキーパーの絹江さんがお茶を飲んでいるのが見えた。楽しそうに、笑いあっている。声をかけるタイミングをはかっていたら、本橋が先にドアを開けた。
「お邪魔します。父上ですね。賢介くんの同級生の本橋陽一です。はじめまして」
「ああ、そう、お友だちですか、そう……おかえりなさい、賢介」
あわてて立った父さんが、俺を見た。
「ただいま」
口先で俺はつぶやく。絹江さんも俺を見ているのがわかったけれど、目は見ずに会釈だけ返した。
なんだかこのふたり、ただならぬ気配がするような、しないような。そう考えては、背中がぞくぞくとする。
「おかえりなさい、賢介くん。私、今日はもうあがりの時間なので、これで失礼しますね」
絹江さんの声を聞きながら、冷蔵庫に鰯とミニトマトと、本日お買い得のまぐろの角切りを入れた。
本橋はアイスをなめている。湯呑みを洗い終えた絹江さんは、頭のてっぺんで結んでいた髪をほどく。茶色がかった彼女の長い巻き髪が、ふわりと背中に落ちる。この人が髪をほどくのは、本当に仕事が終了したという合図だ。
父さんたちは、リビングで別れのあいさつをしている。関わるもんか。
二階へ向かおうとする俺の耳に、本橋の愛想のいい声が届いた。
「お仕事、おつかれさまです。夕飯は賢介くんとつくるんで、安心してお帰りください」
絹江さんは「そうなんですね」と、ほがらかな声で受けている。俺はリビングに戻って本橋の腕を引っ張り、二階の部屋へとつれていった。
「ちょっと、今の女の人って、お手伝いさん?」
「そう、ハウスキーパーの絹江さん。去年の夏くらいからきてる」
「お手伝いさんて、おばちゃんばっか想像してた。あんな若い人もいるんだね。いくつ?」
「三十二歳って言ってた。じゅうぶん、おばちゃんだよ」
「いいねえ……賢介、萌えねえ?」
「も……! なにおまえ今なんつった?」
「だって、結構きれいじゃんよ」
たしかに顔立ちは悪くもないが、あれは化粧のごまかしだ。化粧が見せるマジックだ。
俺がすすめた椅子に座ると、陽一はにんまりとした。
「女の人との出会いは、瞬間が勝負だよ。あのふんわりした長い髪なんかもう、大人のオンナって感じで、いいじゃん」
俺はベッドに座り、アイスの袋をやぶって口に入れた。とけかかった水色のアイスは、なつかしい味がする。ソーダ味の爽快感を伴った甘さが、口に広がる。それにしても、絹江さんか……。
「あの人、どうかと思うよ」
「否定的ですな、賢介くん。どうかって、なに?」
本橋はアイスを食べ終えていて、棒をしゃぶっている。俺はアイスをすすってから言う。
「あの髪の毛、最後まで結んどけって、いつも思う。ここから自分の家に帰るまでが仕事なんだっての。仕事場で色目使ってどうすんだよな」
「なんか、小姑みたいだね」
本橋はアイスの棒をくわえたまま、またしても、にんまりとする。
「いやあ、運命ですよ、マジ運命。オレ、明日から毎日遊びにくるわ」
「いいよ、こないで。てかなに、運命って。陽一、年上が好みなの?」
下の名前で、はじめて呼んでみた。自然だったろうかと顔を見ると、にかっと笑ってくれた。
「好みっていうのはさ、好きになったら、その人が好みなのだよ」
椅子の上で、本橋……陽一があぐらをかく。
「やめとけよ。俺あの人、なんか好きじゃねえ。さっきだって父さんと親しげにしてて、あれじゃあ仕事、サボってるみたいだし」
「そういや、お父さんてなにしてる人? 平日の夕方に家にいるなんて」
アイスの棒をようやく捨てようとする素振りを見せた陽一のそばに、ゴミ箱を置く。
「美術史が専門の、大学教授。今日は講義、午前中で終わったんじゃないか? 本だしたり、たまにだけど、テレビでたりもしてる」
「すげえ。なんか、かっこいい」
「よくない。全然、よくないね。料理のできる俺のほうが、よっぽどかっこいいね」
「ま、そうともいえるな。それにしても、お手伝いさんつきなんて、いいなあ」
「それはな、幼稚園のころ、俺ってば飢え死にしそうになったからなんだ」
「へ?」
「父さんてさ、原稿にかかると、トイレも風呂も忘れて机に向かっちゃうんだよね。もちろんメシだって忘れる。原稿に向かいあってたあるときさ、俺を部屋に置いたまま、遠くの美術館かなんかに確認することがあっていっちゃって、俺、まる一日放っておかれたんだよ」
「わ、けっこうなぼんやり系? てか、もはや育児放棄」
「だよなあ、ネグレクトってやつ。父さんはそれからハウスキーパーさん、頼むようになったんだ」
「親父さん、反省したんだろうな」
「どうだか」
「そうだよ、ぜったい」
そうだろうか。世間へのメンツのためだと思うけど。俺が腹すかせてぎゃーぎゃー泣いていたから、近所の人が警察へ通報したらしい。
「よっ!」
陽一がスナップをきかせ、アイスの棒をゴミ箱にシュートした。
「おっ? おおっ! 賢介、これっ!」
とたんに叫びだす。
部屋の片隅の、一丁用の三味線桐立箱に目がとまっている。三味線を立てかけたまましまえる、桐の箱だ。
「ね、弾いて弾いて! なんか弾いてよ!」
俺はせがまれるまま、アイスを急いで食べ終えて、津軽三味線を手に取った。左手の親指と人差し指に、紫色の指掛けをつける。ベッドに座って構える。
〝津軽おはら節〟を弾こう。それなら〝本調子〟だ。
サワリを一の糸につけ、だいたいのところで調節した。調子笛を吹いて一の糸の音をとって、またサワリを調節しながら、一の糸を鳴らしていく。ヴィーン、ヴィーンと響かせて……そう、ここだ、音をうならせるにはここがいい。
それから一の糸より二の糸を四度高く、三の糸は八度高く取った。これで相対音はド、ファ、ド。
ヴィヴィーン、ヴィヴィヴィン……ヴェンヴェンヴェン……。
うん、いい音がでている。ちゃんと共鳴している。調弦からつづけてこのまま曲に入ろう。目を一瞬つぶって、開く。
静かなでだし。やがて軽快に左手で絃をはじく。細かい旋律……。
夢中になって弾いた。
思えば誰かの前で津軽三味線を弾くのは、ばあちゃんに教わらなくなってからは、はじめてのことだった。このすこしの緊張と高揚感、ずっと忘れていた。だいじな感覚を、取り戻した気さえしてくる。
津軽三大民謡のひとつを弾き終えると、陽一が目をきらきらさせて俺を見つめていた。
「……ありがとな」
俺は礼を言った。素直に気持ちを伝えたかった。
「へっ? いやいや、すげえ。かっこいい、すげえよ! ね、オレにも触らせてくれる?」
「いいよ。ギターが弾けるなら、慣れるのも早いんじゃないの」
指掛けと撥をわたし、基本的な演奏法を教えた。はじめて触れる三味線に、陽一はしきりに感動している。
「うわあ、フレットがないんだ。ギターと全然ちがう」
苦戦しながらも、飲みこみはわりと早いほうだろう。
「やっぱ、かっこいい。すげえな。うわー、なんか鳥肌!」
「昔は盲目の人が、生きるために弾いてたんだ。魂こめて弾かなきゃ、そういう人たちに申し訳ない。だから……」
「だから?」
「かっこいいって言ってもらえるの、ちょっとむずがゆい。俺、津軽三味線がかっこいいって思うより先に、小さいころから弾いてたんだよな。流行りの歌を憶える前に、民謡弾いてた」
「それもすごいな。オレにとってのギターって、そういうかっこいいレベルじゃないや」
「かっこよくないって、べつに」
「そうやって言えるところが、かっこいいって。ね、ばあちゃんから教わったって、どっちのばあちゃん?」
陽一が撥と三味線を、俺に預けた。
「母親のほう」
「いいなあ。オレも教わりたい」
紫の指掛けをはめた人差し指と親指を、陽一はくっつけたり離したりする。
「無理だよ、認知症になっちゃってね。中三になってから俺、教わってない。だから今は自己流なんだ、津軽三味線」
「……そっか。賢介さ、そっちの道に進もうとか、思わないの?」
「ばあちゃんが、どんなにすごい三味線弾きだったっていっても、俺は三味線で生きていこうって腹はくくってない。楽しく弾ければ、それでいいんだ」
ひとしきり指掛けをながめた陽一が、「ありがと」、返してくれた。どうやら落胆しているようだ。もしかしたら俺が津軽三味線の道に進まないことを、ばあちゃんに教われなくなったから〝進めない〟と思っているのかもしれない。焼きそばのイメージに、俺をさらに強く結びつけてなければいいけれど。彼の考える、焼きそばの。
「いいよね、津軽三味線て。なんか、新鮮」
陽一が、しみじみとした口調で言った。
「そうか?」
「そうだよ。津軽三味線を弾くなんて、おばあちゃんは青森の人?」
「出身はそうだけど、死んだじいちゃんの仕事の関係で、ずっと岡山に住んでた。でさ、俺が幼稚園入るころ、じいちゃんとこっちへ越してきたんだ。おじさんたちと住むために」
「そうなんだ。津軽三味線てなんとなく、青森だけだと思ってた」
「今じゃ全国に奏者はいるよ。でも青森は原点だし、やっぱ俺、東北に親近感ある」
「津軽、っていうくらいだもんね。賢介の弾いてきた民謡だって、東北のなんでしょ?」
「うん、東北民謡がほとんど。俺さ、人とどう向きあえばいいのかわからないけど、ひとりで津軽三味線を弾いてると、癒されるんだ」
そう。わけのわからない閉塞感や孤独感から解放される。俺と三味線は常に一対一でわかりあえ、ときに反発しあいながら、お互いを必要としている。
三味線を再び調弦し、メロディーを奏ではじめた。ポップスふうな、明るめの曲調。即興だ。その音色に合わせ、陽一がラララと歌いはじめた。俺の声がどうのと言ってはいたけれど、陽一だってなかなかだ。高めの、どこかせつない、いい声をしている。ふたりででたらめに歌いあい、最後は立ちあがって曲を終えた。
顔じゅうに笑みをほころばせ、陽一が言った。
「ほら。ふたりなら、もっと楽しいでしょ?」
首をかしげた俺に、陽一は続ける。
「ギター弾いてると、俺もかなり癒される。おまけに楽しい。ひとりで楽しい音楽なら、ふたりでやれば、二倍楽しめると思うのだ」
かなりクサイ台詞だったけれど、素直に同感してしまった。陽一は、はにかんでいる。
ユニット名は結局決まらず、それでも日本語の歌詞のオリジナルをつくってみようということになった。
英語よりも日本語の詞が伝わるという見解からだけれど、実際のところ、陽一も俺も、英語がそれほど得意ではないことが判明した。
陽一に教えるように米をといだ。ドライハーブを使った鰯のハーブ焼きと、まぐろとアボカドのわさび醤油あえ、それにワカメと卵のスープをつくっているあいだじゅう、父さんは自分の部屋にこもっていた。調べものをしているのだろう。俺が料理をするときには、いつだって姿を見せない。
鰯の手開きのしかたは、小学生のときにきていたハウスキーパーさんに教わった。皺の入った手で、やさしく教えてくれた。世の中の子どもが、こういうふうに母親に教わるのなら、この人は俺の母さんとでもいうべき人だ、そんな甘ったれたことを考えていた。
そうなんだ、生魚にぎゃあぎゃあ騒いで鰯のはらわたを取りだしながら、俺は甘えてもいた。
ずっと世話になりたかったけれど、身体を壊して辞めてしまった。あのおばさんが教えてくれた鰯の開きかたを、今日は陽一に教えた。
陽一はおいしいと言ってくれ、ご飯をおかわりした。
父さんは相変わらず料理の感想は言わなかったけれど、陽一の世間話に相槌を打ちながら、全部たいらげた。
食器の後片づけまでしてくれた陽一を、駅まで送って帰る。
「賢介」
リビングで新聞を読んでいた父さんが、俺を呼び止めた。
「友だちをつれてくるなんて、実にめずらしいですね」
俺は向かいの椅子の背もたれを握った。座ろうとしたけれど、父さんがため息をついたとたん、拒絶反応で身体が強張る。そばには座りたくない。
けれど、俺の新しい挑戦を聞いてもらいたい。そうして俺を、ちょっとでも受け入れてほしい。
「文化祭で、津軽三味線弾くよ。あいつが、陽一がギターなんだ。ユニット組んだ」
父さんは肩をすくめ、苦笑いをした。
「あんなちゃらちゃらした子は、どうかと思いますよ。友だちは、ちゃんと選びなさい」
テーブルの下で組んだ足を揺らしながら、父さんが言う。敬語だから、なおさら威圧感がある。この人がつくづく苦手だ。やっぱり言うんじゃなかった。それでも、ひるむものか。
「あのさ、選んだんじゃないよ。選ばれたんだよ」
「どっちだって同じですよ。きみね、もうちょっと大人だと思っていたんですけどね……あんな調子のいい子と、ミーハーなバンドまがいのことをするんですか?」
「ちょっと、ミーハーって」
「だってそうでしょう? 流行りに飛びつく、人に言われたことにほいほいついてく。付和雷同ってやつですよ」
父さんがさかんに貧乏ゆすりをする。眉毛を下げて、眉間に皺を寄せて、俺を見る。
なんでこんなふうに、邪険なものの言い方しかできないのだろう。
「もう、ほっといてくれよ!」
話しても無駄だ。俺はリビングのドアへと向かった。
「賢介。そういえば、父の日にくれた観葉植物ですが……」
「あのテーブルヤシがなんだよ。すぐに枯らしちゃってさあ。あんなもん、あげんじゃなかったよ」
なにが大学教授だ。タレント気取りの、インテリ親父め。
白い花を白いとしか思えない人間に、水色にも見えると言っても理解してもらえないのと一緒だ。
よく見ようとしなければ、色なんてわかりはしない。すくなくとも俺は、そのことを知っている。
実の親子でありながら、わかりあえることはない。そんなこと、いちいち確認することもなかったのに。俺、とっくに、わかっていたじゃないか。知っていたじゃないか。
放課後、陽一と教室でセッションをする日がつづいた。ときどき一緒に宿題をしたり、陽一の苦手な数学を教えたりした。
やがて期末テストがはじまった。勉強をすれば、結果がでる。そうすることで、自分の存在感を味わえる。
だから古典の文法を覚えるのも数式を解くのも、好きではないけれど、それほど苦でもない。
父さんは俺の勉強の理由なんか露知らず。「僕の血筋です」と言うけれど、母さんの血のほうが濃いと思いたい。
美大生だったという、母さんの絵の素質。それから母方のばあちゃんの、津軽三味線の腕。
とはいえ俺は、なにをやりたいのかわかならい。進むべき道が、なんにも見えない。
この今でさえ、罪悪感と窮屈さの上にある。生まれてきたことに、いつだって疑問を感じているんだ。
母さん――そう想い呼びかけるとき、いつでも母さんの顔は、白くぼんやりとしている。
俺の知っている母さんの顔は、遺影の白無垢姿だけだ。
厚化粧をして綿帽子をかぶったその姿からは、母さんの素顔はわからない。
俺は知りたくてたまらない。どんな顔で笑うのか。どんな声をしているのか。どんな絵を描くのか。どんな津軽三味線を奏でるのか。
願っても、叶うことはない。とうの昔に母さんは、この世からいなくなったのだから。
母さんのほかの写真も絵も、父さんがみんな持っている。それも、うちの納戸に鍵をかけて。
だから俺は一度も見たことがない。父さんだって、もうずっと見てはいないだろう。母さんのことを、記憶の向こうに追いやっているんだ。
そうして俺を母さんと比べている。津軽三味線を、ミーハーまがいのユニットに使って、と。
もともと父さんは、俺が津軽三味線を弾くことを、よく思ってはいない。だからこそ、陽一とユニットを組んだことを反対するんだ。
苦手といえど、父さんは父さんであり、ただひとりの俺の家族だ。だから毎年、父の日にはなにかしらプレゼントを贈っている。去年はハンカチ、その前は靴下だった。
今年は駅前に花屋がオープンして、はじめての父の日だった。看板犬の、なんとかいう種類の子犬に招かれるように店に入って、父さんに小さなテーブルヤシを買った。
なのに、半月ほどで枯れてしまった。枯れているのにまだ、リビングの出窓に置いたままだ。どうでもいいんだ、俺からのプレゼントなんて。
雨が降っている。七月の、物憂い雨が。
期末テストも終わり、短縮授業でまだ昼下がりの、放課後の教室。俺の前の席でノートに向きあう陽一に、訊いてみる。
「さっきから、なに書いてんの?」
「あ? これ新曲。てか、頭に浮かんだコード、書きなぐってんの。いいから話、つづけて」
「あのさ、ちゃんと俺の話、聞いてんの?」
「うん、聞いてんの、ちゃんと」
「そう? ……でさ、絹江さんは、家事をきっちりやってくれる。なんだけど、そこに母性を感じないんだよな。やっぱ、家に〝勤務〟してるからなんだろうな」
ノートから顔をあげた陽一がこっちを見るから、俺は釘をさす。
「マザコンとか言うなよ」
「んなことわかってるよー」
陽一が俺になにかを投げつけた。キャッチしてみれば三角の、紅いスイカの断面型をした消しゴムだった。おろしたてで、まだ角ばっていて、皮はちゃんと緑色だ。
「あのさ、母親を知らない賢介が、母親を乞うのはあたりまえだと思うよ。あれだよ、絹江さんに母性ってのを感じないのは、あの人がオンナそのものだからだよ」
「陽一じゃあるまいし、そんなこと思ってないよ」
今度は俺が陽一に、スイカ消しゴムを投げつけてやる。
「ふうん。じゃあ……」
キャッチした消しゴムを見ながら、陽一が言いかけた。俺は訊く。
「じゃあって、なんだよ」
「ライバルは、ひとり減ったって思っていいんだね、賢介くん?」
「あったりまえだよ。てか、あれ? ひとり減ったって、まさか」
「そう。おまえの親父さんだよ」
絶句した。やっぱり陽一も、そう思うのか。
「親父さん、賢介の母さんと死別してから、ずっと独身だったんでしょ? 寂しかっただろうな。今ならひとり息子も大きくなって、おまけにいい大学へ入れそうともなれば、自分の身の上を考えるころなんじゃない?」
梅雨の雨が、いちだんと激しく降る。このところ、ずっと雨だ。雨は気分を憂鬱にさせる。気持ちが閉じてしまう。だから今日の練習曲は、そんなのを吹き飛ばそうと、レッチリに決めた。俺は津軽三味線、陽一はギターで、濃いロックをセッションした。
父さんが絹江さんと? やめてくれよな、気色悪い。
「あ」
教室の入り口で、女子の声がした。笹倉沙知だ。
「どした?」
陽一が声をかけると、彼女は小さく、「忘れ物」とつぶやいた。
俺の隣の席まで駆け寄ってきて、机の中をのぞきこむ。
「文通相手からの手紙?」
からかうというよりも、悪い冗談で言った陽一だった。
そのとたん、笹倉沙知は持っていた鞄を、陽一の顔めがけて投げつけた。
「うっわ、なんなの、おまえって。怒るとなんか、投げつけたくなる性格なの?」
椅子から立ちあがった陽一は、拾った鞄を笹倉沙知にわたした。
むすっとした彼女の顔が赤くなっていく。前髪が眉毛の上に、重たくかぶさっている。
けれど赤いメガネの奥の瞳は、ぱっちりしていて、つくづくメガネがよく似合う。化粧すれば、かなり化けるタイプなんじゃないだろうか。なのに、どこかもっさい。厚みのある真っ黒な前髪と、三つ編みのせいだろうか。思わずからかってやりたくなる。
「怒るとウンコ投げる、ゴリラみてえ」
俺がつぶやくと、笹倉沙知はぎろっと視線を投げつけた。
「う……るさいっ! だいたいなんなのよ、あんたたち。ギターと三味線? カッコつけちゃって。どうせ形だけなんでしょ? どんだけ弾けるんだか!」
「じゃあ、笹倉は弾けんのかよ」
怒るでもなく、陽一がきく。
「もちろん弾ける。ピアノならねっ!」
笹倉沙知は机の中から英語の辞書を取りだすと、帰っていった。
「……ピアノねえ。キーボードに誘ってみる?」
「陽一、おまえマジ? それはないっしょ」
「だよね」
雨はまだ強く降りつづいている。俺は雨をながめながら、そういえば笹倉沙知が笑ったところを見たことがないことに気がついた。
「なあ。笹倉さ、笑ったらどんな顔だろ」
「ん? ああ、オレも気づいてた。笑ったら、それなりにかわいいと思うんだよね。てか、賢介の笑った顔だって、話すようになるまで見たことなかったよ」
陽一は、にっこりと笑ってみせた。太陽みたいな明るい笑顔で。
家に帰ると、テーブルの上に広げた新聞から、父さんは目だけをあげた。うわ、もういるんだ。今日も帰りが早いなんて、学生さんてば、ちゃんと父さんをつかまえて、もっと熱心に質問攻めにでもしてくれたらいいのに。
「ここに置いてあった古文のテスト、なかなかよかったですね」
そう言った父さんのそばに、絹江さんが麦茶をだす。今日は絹江さんが夕飯をつくってくれることになっている。
それで、ええっと……俺は今、父さんに褒められたのか?
「……でもさ、テストの結果がいいだけで、俺、将来どうしたいのか、まだ見つからない」
「なにをやりたいのか、どうやって生きていきたいのか、とりあえずは大学に通いながら見つければいい。うちの学生も、そんな連中ばかりですよ」
父さんは麦茶をごくりと飲んで、さらにつづけた。
「まあ、たいていは就職活動を手当たり次第にして、受かった企業に就職するんですけれどね」
父さんがテーブルの下で組んだ足を、ゆらゆらと貧乏ゆすりする。テーブルが揺れる。きしきしきしきし。俺の心まで揺さぶる。癪に障る。俺の中を、小さな虫が何匹も飛びはじめる。
「……そんなの嫌だ。目的もなしに大学いって、なんになる? なにかを見つけたいんだ。それがなんなのか、まだわからないけど」
「わからないなら見切りをつけて、せめて学部くらいは決めておきなさい。五月の三者面談でも、決まらなかったですよね?」
父さんの声と一緒に、貧乏ゆすりが激しくなった。俺の心のソフトな部分を虫が刺す。刺された痛みに耐えかねて、俺の心に火柱が立つ。
「見切りってなに? 俺にはどうせなんの才能もないっていう見切り? いい大学へ入って、いい会社へいけって言うのかよ?」
眉毛を八の字に下げた父さんは、大きくため息をついた。
「そうです。勉強が人よりちょっとはできるということ、それが今のきみのすべてなんです。絵も三味線も、真面目にやる意思もないようですから。ま、真面目にやったところで、それで生きていける人間なんて、一握りですけどね」
「真面目にって……」
「今さら本腰入れても遅いでしょう? きみは会ったこともない、母親の面影を追うばかりですね。絵にしたって三味線にしたって、きみの母親の、ノリコさんの影響じゃないですか。もう高校生なんだし、ちゃんと自分を見つめなさい」
「ちがうっ! 俺は自分を見てるから、やりたいことやってきたし、将来だって考えようとしてんだよ。たくさんの学生を相手にしてるからって、わかったふうなこと言いやがって!」
「なんです、その口の利きかたは」
虫は今、大きな群れとなって、心いっぱいを飛びまわる。出口を探すように。
「ムカつくんだよ!」
「賢介っ!」
「ちょっと、やめてください!」
絹江さんだった。俺は怒鳴った。
「あんたは黙っててくれ、関係ないだろっ?」
「関係あります!」
絹江さんの大声。彼女は、ぐっと俺を見つめている。
え、なんだって、なんで関係あるんだ? これは俺と父さんの問題だ。他人に口だしなんかしてほしくない。
「私……」
一瞬目を伏せ、再び俺を見すえた。強い瞳だった。
「私……賢介くんと家族になりたいんです!」
家族? 今なんつった、家族かよっ?
こんなときになんの冗談を……けれど絹江さんは真剣な表情のまま、黙りこんだ。無言の懇願から逃れようと、俺は父さんの顔を見た。父さんは俺をまじまじと見つめると、こともあろうに、うなずいた。
「もうすこし先になってから、言おうと思っていたんですが」
かしこまったふうに、父さんが言う。
「絹江さんと、結婚しようと思うんです」
ゆっくりとした口調だった。
唐突な話の展開に、俺の頭はついていかない。心の中を飛びまわっていた虫が、急速に落下する。火柱だって、鎮火してくすぶっている。
なんだよ今、俺の進路の話じゃなかったか? 結婚て、父さんが? 絹江さんと?
「お手伝いさんじゃなく、僕の奥さんとして、この家に迎えようと。つまり、きみにお母さんができるんです」
……そりゃ、父さんはずっと独身だった。ずっとひとりで、陽一の言うように寂しくないはずもない。
けど、父さんはいくつだ? 五十二歳だ。絹江さんは、二十歳も年下だ。
「僕のような年齢に、若い絹江さんはふさわしくないと、やっぱり思いますかね?」
俺は大きくうなずいた。陽一がきたときに、調子がいいとか、俺たちがユニットを組んだことをミーハーだとか言ってのけたけれど、それ以前の問題だ。
「賢介くん。私は敏巳さんとの結婚を望んでいるんです」
うへ。絹江さんが父さんを名前で呼んだ。信じられない。絹江さんにしてみたら、父さんは年の離れたオヤジだ。どうかしている。
「たしかに、私はいきなり賢介くんのような大きな子どもができるということに、戸惑ってもいます。でもね、賢介くんが賛成してくれるなら、私、頑張れると思うの」
「絹江さんは、なかなかたいした娘さんですよ」
父さんが目を細い線のようにして、にやついた。心ここにあらず、そういった感じだ。いい年をして、恋に溺れている。なにを言っても聞く耳を持たないだろう。
「賢介も年ごろだ。いろいろと複雑だとは思うけれど、どうかいい方向に考えてください」
父さんが言うと、絹江さんが頭を下げた。
「そう……ちょっと、今はなんて言っていいか……とりあえず、着がえてくる」
それだけ言うのがやっとだった。
「急がないから、よく考えてください」
父さんの声が、俺を追いかけた。なにが考えろだ。さっきまでの、俺の進路の問題はどこにいったんだか。結局、俺のことより、自分のことがだいじなんだ。
父さんも〝男〟だったということがショックでたまらない。あの父さんにしても、ただの人間だったんだ。人並に恋をする、人間だった。ばあちゃんが知ったら、なんて言うだろう。
「親ってさ、はじめて接する大人だから、まっとうだと思っちゃうけど、ちがうんだよね」
放課後、教室のベランダで陽一が言った。再婚の話を打ち明けると、陽一は冷静に聞いてくれた。大げさに感嘆詞を使うことも、にやつくこともなく、真摯に受け止めてくれた。
手すりの向こうでは、雨が降っている。生暖かい風に乗った雫が、顔に触れる。
「本当はオレたちと、たいして変わらないんだ。あちこち欠けてて、傷もあって、それでもなんでもないように見せてるだけなんだよ」
「陽一、なんか悟ってない?」
雨音の中で、俺はささやいた。陽一はしばらく雨を眺めたあとで、話してくれた。
「オレ、思ったもん、うちの母ちゃん見てて。父ちゃんがリストラされたとたん、昼も夜も酒飲むようになったりして、家事もできなくなって。それでもなんとか立ち直ってさ、パートから正社員になったんだ」
「知らなかった。おまえんちの家庭の事情」
「まあ、しょんぼりしてても、はじまらないし。今は父ちゃんも、やっと仕事につけて平気だけど。去年の今ごろは、オレ、この学校やめようかと思ったりもした」
「私立だから?」
「うん、学費キツいからさ。高校やめて、働かなきゃと思ってた」
俺なんかより、陽一のほうがよっぽど焼きそばだ。ぐるぐるにからまった運命。
手すりから手をだして、陽一が雨を受ける。
「親だって、普通の人だと思ってやらないとならないんだよね。親は特別な人間だって思うから、思いがけないことを言われたりすると、いちいち気に障る」
その声に耳を傾けながら、俺は陽一の柔軟性をうらやましく思った。
雨が強くなった。この空は雨でできているんじゃないかと思うほど、次から次へと雫を落とす。
昨日の父さんとふたりの夕飯は、いつもと同じ、無言だった。ただラジオが流れていた。これもいつもと同じ、父さんの好きなクラシック音楽の番組。
教室に入った陽一は窓際の自分の席につくと、ギターを手に取った。「オレ、失恋かよ」と言いながら、ギターをかき鳴らす。めちゃくちゃにコードを押さえていくだけでも、それなりのギターテクを持っていることはわかる。その音色を聴いているうちに、ぼんやりとしていた思いがかたまってゆく。
俺は陽一の前の席に座った。
「あのさ、俺、今日ばあちゃんに会ってくる」
ギターを奏でる手が、ぴたりと止む。
「津軽三味線、教えてくれた人?」
「うん。会話にならないかもしれないけど、顔が見たくなった」
「甘えてこいよ。ついでに愚痴もこぼしてこい。若い母ちゃんができますって」
「若すぎるって。親父、マジムカつく。俺の進路の話をしてたのにさ、いきなり再婚の話になるし。陽一とふたりでつくった料理も、うまいともなんとも言わないし、最悪」
「けど」、陽一が髪をかきあげる。
「親父さん、いただきますと、ごちそうさまって、ちゃんと言ってたよ。それって、だいじなことなんじゃないかな」
「言ってた?」
「うん。ちゃんと言ってたよ」
言われてみれば、そうかもしれない。いつもそれだけは、必ず言っているかもしれない。
だからって、それがなんだっていうんだ。
銃弾のような雨粒が、外の世界を激しく打ち抜いていく。もっと降ればいい。世の中、どうにかなればいい。
そうして明日なんか、なくなればいい。