1 焼きそばスパイラル
川は光る。青白い蛇の身体のように、寒々と光る。
太陽が西の果てに沈み、大空を金色のライオンが支配するころ。
川は光を発する。空からの残照を受けて――。
川なんて馴染みはないのに、夢の中で川を見ていた。
夕闇の中、俺はひとりだった。
川は光り、空にはライオンみたいな形をした、金色の雲が浮かんでいた。
修学旅行の最終日。いったいどうして消灯前に、集会なんてのがあるんだろう。おかげで居眠りをしてしまった。それで夢を見たというわけだ。
幸い居眠りが教師に見つかることもなく、無意味な会も終わった。さあ、顔洗って、歯磨いて、とっとと本格的に寝てやろう。
顔を洗う、といえば。
俺の父さんは、顔を横に洗う。
がしがしじゃぶじゃぶと、手のひらを横に動かして、こする。これって普通じゃないんだろうか。修学旅行でほかの奴らの洗顔方法を見て、今さらながら気づいたことだった。
「目も鼻も口も、横に広がっています。横に洗ったほうが、効率がいいんです」
それが父さんの口癖で、そう教えられて育った。だから物心ついたときから、俺も同じように洗っている。
父さんのことは、特に好きではない。それじゃあ嫌いなのかと訊かれれば、はっきりそうだともいえない。なんとなく苦手、そんなところだ。
好むと好まざるとに関わらず、同じ家で暮らしている限り、避けては通れない日常があふれている。
毎日一緒に飯を食う。代わる代わる風呂に入る。お互いに距離を保ちながら、会話もろくにない、陰気臭い空気の中で。
父さんに教えられたことは、なにも顔の洗いかただけではい。うちには父さんしかいないのだから。
俺は母さんの顔を知らない。知らないまま、高校二年だ。
とにかく、修学旅行という名目で家を抜けられるのは、ありがたい。父さんとふたりきりの、窮屈な家から解放されるとあっては、集団行動もがまんしないとならないだろう。
消灯時間が迫る前に、俺はいつもの要領で顔を洗いはじめた。汗を流したかった。長崎の旅館の水はひんやりとしていて、指先から背筋にかけて、ぴしりという心地よさが走る。きっと地下水だろう。
六月はじめの夜の中庭からは、カエルの鳴き声が聞こえている。
「おい、ちょっと? なんかさ、変だよ」
男子の声がした。ほがらかに笑っているようなこの声は、同じクラスの本橋陽一だ。
「おかしくない? その洗いかた」
本橋をシカトして、俺は流水で顔をじゃぶじゃぶと洗い流す。顔にあてた手を、横に動かして。けれど、気になっていたことを指摘された俺の心に、すくなからず動揺が走っている。
「ねえ、ちょっと、聞こえてる?」
本橋とは、ろくにしゃべったことはない。なのに今、奴はやけに親しげに、それでいて無遠慮に、俺をじろじろと見ている気配がある。親しくもない奴に声をかけるほどオープンにさせる修学旅行なんて、やっぱり胸クソ悪い。俺がこうして非難されるのは、父さんと修学旅行のせいだ。
「うるせえよ」
顔をあげ、吐き捨てるように言ってやった。タオルで顔を拭きはじめたところで、本橋が言う。
「あのさ、こうやってさ」
本橋は水道の蛇口をひねって水をだした。手で顔を、縦にこすって洗ってみせる。
「ほら、こうだよ。縦に洗うんだよ」
びしょ濡れの顔で俺を見る。目をしばしばさせて。茶色がかった本橋の前髪が、水を含んで束になる。
「ほっとけよ。お前、知らないだろ。目も鼻も口も、横に長いだろ。縦に洗うのなんて、不自然なんだよ」
言ってやった俺の心が波打つ。その波は苛立ちをつれて身体じゅうを駆けめぐる。たかだか洗顔といえど、俺の全部を否定されたようだ。
本橋はにんまりとした。
「鼻の筋は縦に長いでしょ? 顔だって、縦長にできてるでしょ?」
俺の心にはおかまいなしに、本橋が土足で入りこむ。
「つまり、そういうこと。知っているようで、知らないことはたくさんあるってこと。クールな一匹狼の賢介くんには、知らないことが山ほどあるってこと」
本橋が顔から雫をたらしながら、微笑んでみせる。
「タオル貸して」
俺は苛立ちを呑みこみ、脇にはさんでいたタオルをわたしてやった。
「悪いね。タオル、部屋に置いてきちゃってさ」
「忘れたんなら、顔なんか洗うんじゃねえ」
ゆっくりと低い声をだしてはみても、本橋はタオルから顔を離そうとしない。
「おい、なにしてるんだよ?」
「……いい匂いがする」
タオルから顔を離した本橋は、満面の笑みを浮かべていた。
「柔軟剤の、いい匂い。賢介の家って母ちゃんいないのに、ちゃんとしてんだね」
心の中で、あるいは頭の中で、キッ、と、なにかが切れたように感じた。賢介、と、馴れ馴れしく呼ばれることも、母親について触れられたことも、俺を怒りに導くには充分だった。
「なんだよ本橋。喧嘩売ってんのか?」
俺は手を伸ばして、タオルを奪い返した。
「同情してるわけじゃないよ。うちの母ちゃんなんて、ヒステリーは起こすは、家事も放棄するは、ひでえんだから」
持ってきていた歯ブラシを、本橋が水で濡らす。
「歯磨き粉、貸して」
洗面台に置いてあった、俺のチューブに手を伸ばした。こっちの怒りなど、我冠せず。歯磨きが終われば、またタオルを貸せと言うんだろう。
父さんめ。あんたが変な顔の洗いかたを教えるから、ほらみろ、馬鹿にされたじゃないか。タオルだって、貸してやるはめになったじゃないか。
俺は本橋をにらんだ。父さんへの恨みも、一緒くたにして。にらんだところで、事態はなにも変わらない。
歯を磨きはじめた本橋の胸ぐらを、俺はつかんだ。
「ムカつくんだよっ!」
突き飛ばしてやった。近くにいた女子たちの悲鳴が響く。
本橋は歯ブラシを持ったまま、後ろにすっ転んだ。口から白い液体を吐きだしながら、そいつは笑みさえ浮かべて言った。
「素直じゃないよね、おまえ。そんなんだから、ダチのひとりもいないんだよ?」
立ちあがった本橋が、歯ブラシを流しに放り投げた。次の瞬間、殴りかかってきた。かわしたはずみで、俺は洗面台の上によろける。
「痛ってえ!」
俺はなんだって、父さんに教えられた顔の洗いかたなんかを、ご丁寧に守ってきたんだ。馬鹿じゃねえの、俺。
タオルを投げ捨てた。力をこめてふり仰いだ拳は、本橋の顔をそれ、空を切る。それで
もひるまない。
もう一度、拳をふるう。今度はたしかな衝撃が走る。
まわりにいた男子が「やめろよ」と言ったのと、俺の顔に痛みが走ったのとは、ほぼ同時だった。やがてやってきた教師が止めに入り、殴りあいもそれまでとなった。
乱闘のおかげで、俺と本橋は廊下で正座をさせられるはめになった。反省しろという担任の言葉に、正座なんかで反省する奴がどこにいるかと、心の中で毒を吐く。
「賢介って色白で細いから、喧嘩なんかしないと思ってた。けど、いつも目が怖いんだよね。やっぱキレると、なにするかわかんないんだね」
本橋は口元にバンソウコウを貼り、隣でちょこんと正座をしている。
「危なっかしいよね、おまえって。見てらんない」
俺は「知るか」と言う代わりに、鼻で笑ってやった。
「賢介って、美術得意だよね? この前も、なんかの賞、取ってたみたいだし」
「あんなもん、たいしたことない」
なんだよいきなり、そう思いながらも俺は安堵する。美大生だったという母親との、血のつながりを思って。そうして気持ちが浮かんでくる。血筋なのだ、母さんが、俺の中に生きているんだ。
そう、母さんは死んだ。俺を産んだ、そのときに。
「すごいって。アーティスティックな性格、してんだろうな」
「なに持ちあげてんだよ」
中庭からは外灯の明かりが差しこみ、ガラス窓には蛾がへばりついている。ほの暗い廊下の先を見ると、幽霊の顔色を連想させる非常灯のぼんやりとした緑が、不気味に床を照らしていた。知らない土地の、知らない廊下で、時だけがゆるやかに過ぎてゆく。
殴ったことで、気持ちは落ちついていた。なぜ殴ってしまったのかも、うまく思いだせない。
本橋を見ると、しびれた足を持て余し、身体の重みをどこに預けるか探っていた。まだ十分ほどの正座がなんだっていうんだ。
「本橋、おまえ馴れ馴れしい。オレの名前呼び捨てにするなんて、百万年早い」
「そう? じゃあさ、代わりに賢介にも、俺の名前呼び捨てにしていいって権利、あげる」
「いらねえよ、そんなもん」
口の中がすこしだけ切れていて、話すと痛い。
「いいから、陽一って呼んでみてよ。陽ちゃんでも、可」
「そんなの、彼女に呼んでもらえよ」
「しっ! バカ、おまえ、声でかいよ。先生、きちゃうよ」
すこしくらい大きな声をだしたところで、教師が飛んでくる様子はなかった。どの部屋からも、ひそひそと話す野郎どもの声が聞こえ、俺たちの会話もその中にまぎれている。
「賢介さ、一緒にバンド組んでみない?」
「バンド?」
本橋の顔を見ると、真面目な目で俺を見つめ返した。
「さっきも誘おうと思って、近寄ったんだよ。おまえってさ、歌、好きでしょ?」
「……好きかといえば、好きだけど」
「でしょ? 音楽の授業でマジに歌ってるの、賢介くらいだからね。合唱なんて、おまえみたいのがいちばん白けるタイプかと思ったら、違うのね」
「ひとこと、よけいだ」
「楽器はなんかできる? ベースとかキーボードとか。オレはギターなんだ」
にやにやした本橋があぐらをかく。俺も足を崩し、板張りの廊下に投げだした。
「津軽三味線なら」
「え、しゃみ、三味線? ギターとかベースじゃなくて?」
「ばあちゃんが、けっこう腕のいい、津軽三味線の奏者なんだ。大会で入賞したりしてた。俺、ガキのころから教わってて、今でも弾いてるよ」
「三味線て、やっぱ、民謡?」
「ああ。民謡を弾きまくって育ったから」
「すげえな。けど、バンドに三味線て、ありか? ロックも弾ける?」
「津軽三味線はさ、小唄の三味線より、ずっといろんなジャンルの曲が弾けるんだよ。洋楽器とも合わせやすいし。ロックとかJ‐POPとか、たまに弾いてみるよ」
「そっか……うん、いいんじゃん? 和のテイストって、かっこいいんじゃん? ね、バンド組もうよ」
「ほかのメンバーは?」
とくに興味はないけれど、訊いてやった。
うつむくと板張りの床の節目が、人の顔に見えた。にったりと笑っているその顔を見ていたら、なんだか身体に張りつめていた緊張の糸が、ゆるんでいくようだった。
「オレがギターで、賢介はボーカルと津軽三味線ね。ベースとドラム、これから探そう。でさ、秋の文化祭でさ、やってみようよ、ライブ」
「なら、ボーカルも探せよ」
「だから、ボーカルは賢介だってば」
「パス。俺、団体行動嫌いだから。四人もなんて、多すぎ」
「じゃあさ」
本橋が正座になった。俺をまじまじと見つめる。
「オレとふたりでやろう。ユニットってやつ」
ニッと笑って、本橋は俺の肩をたたいた。
「オレさ、賢介の声が好きなんだよ。おまえの声で、ギター弾きたいんだ」
「合唱で歌ったの聴いたくらいで、なんだよ」
「わかるんだよ。オレさ、耳に自信あるんだ」
「かっこつけやがって」
「ねえ、頼むからさ、ライブやろうよ。それでさ、女子からきゃあきゃあ言われんの。オレひとりじゃダメなんだよ。賢介の声と、そのルックスに助けてほしいんだ。ね?」
「知るかよ、そんなん」
「頼む! ねえ、一緒に青春してみようよ。ロックに生きようぜ?」
両手を合わせて、俺を拝む。なんてクサイ台詞を吐く奴なんだ。ロックがやりたいのか、女子にきゃあきゃあ言われたいのか、どっちがいちばんなんだか。
「人の青春なんか、俺には関係ない」
「ちょっとちょっと、待てって。賢介、ストレスたまってんじゃないの? 大声で歌えば、スカッとするよ? そしたら殴りあったり、こうして正座することも、ないんじゃないの?」
俺はため息で前髪を押しあげた。本橋の言うことは一理ある。常に斜に構え、死んだように生きている毎日に、嫌気がさしているのもたしかだ。
この人懐っこい奴についていけば、なにかが変わるんだろうか。それはそれで、楽しいのかもしれない。なんにもしないより、なにかしたほうがマシかもしれない。
人前にでるなんて、俺らしくはないと思う。それでも撥を持って、津軽三味線を好きなだけ叩きまくりたい。ひとりきりの部屋で弾くだけじゃなくて、外の世界へ踏みだしてみたいと、すくなからず考えていた。
「で?」
本橋を見て、俺は言った。
「どんなジャンルやんの? オリジナル? コピー?」
「マジ? 一緒にやれんの?」
身を乗りだす本橋に、俺は笑ってみせた。
「やってやってもいいよ。ストレス解消だよ。なんかさ、おもしろい、かも」
まだ梅雨が訪れる前だった。
修学旅行から帰ってから、お祭り気分でふわふわしていた教室内も、一週間も過ぎれば元通りになっていた。怠惰な高校生活が、再びのさばっている。
教室の中が大嫌いだ。教師が板書する乾いたチョークの文字も、風ではためく薄汚れたカーテンも、ノートを泳ぐシャーペンの芯の音も。
数学の授業中だった。黒板のX軸をにらんでも、未来なんて見えやしない。惰性で生きている、今の俺がいるだけだ。
方程式を説明する教師の声が、いちだんと大きくなった。呪いの暗号でも唱えるようだ。無表情で何度も説明しなくても、俺はとっくに理解している。勉強に励み、優等生を気取ることで学校での居場所を保つことにしている、俺なのだから。
そうでもしないと、生まれてきてもよかったのか、無償に怖くなる。勉強をしたところで、こたえがみつかるわけでもないけれど、しないよりは幾分よかった。
真ん中の席から窓の向うを見やると、夏を装った空が広がっていた。浮かんだ入道雲は真っ白で、梅雨なんか忘れて、青空ではしゃいでいる。
期末テストが終われば夏休み。学校での講習のほかに、バイトでもしようか。まる一日あんな家にいるのはごめんだ。自分の家だというのに、窮屈でたまらない。
父さんとのふたり暮らし。それから週に三日は、絹江さんがくる。うちの何代目かの、ハウスキーパーさんだ。
「斎藤。おもしろいものでも見えるのか?」
名前を呼ばれた。チョークを持った教師が、メガネの奥から冷たい目を俺に向けている。
「よそ見しないでちゃんと聞いとけ。ここも期末の範囲だからな」
おどしの言葉に、教室じゅうからお決まりの「えーっ」という声が響く。大げさにのけぞって嫌がる奴もいる。そうすることで、テストがなくなるわけでもないのに。
「はい、静かに!」
教師の威厳を見せつけたつもりか。自己満足だ、そんなの。
俺は黒板に向かう中年男の、痩せ細った背中をにらんだ。すると隣の席の笹倉沙知が、俺の机をシャーペンで叩いた。むすっとした顔で、折りたたまれたノートの切れ端を差しだす。
笹倉沙知はなんの八つ当たりなんだか、いつだってつんけんしている。三ツ編みに赤縁メガネをかけている彼女とは隣どうしの席だけれど、話したことはない。俺が避けているというよりも、彼女は誰とも話さないのだ。
おっかない笹倉沙知から受け取った手紙には、表に〝けんすけくんへ♪〟と、青いペンで書かれてあった。開けば、今度は緑の文字が現れた。
昼メシ、一緒に食おうぜい! よーいちより☆
俺はふり返って窓際の後ろの席を見た。本橋陽一が、笑顔でⅤサインを送る。まるでガキだ。それでも誘われたことは、なにげにうれしい。俺はうなずいてやって、また前を向いた。
本橋は俺に、つかず離れずといったポジションにいる。現にこうして昼飯に誘われるのは、まだ二回目だった。
クラス替えがあって二ヶ月だというのに、あいつはどこのグループにも属さず、同時に、どこのグループにも属していた。いつも一緒にいる仲間が違う。脳天気でお茶らけている本橋と気の合う奴はいくらでもいても、本橋のほうでは居場所を落ち着かせないのだった。
「賢介の家って、誰が弁当つくるの?」
昼休み。中庭のベンチに腰かけて、焼きそばパンを頬張った本橋に訊かれた。
「自分でつくるよ」
「すげえな、賢介。へえ、料理するんだ」
俺の弁当箱をのぞきこむ。たいしたものは入っていない。レンジでチンしただけの小さな冷凍コロッケ、昨日の残りものの小松菜の炒め物と、豚肉の生姜焼き。卵焼きに、白いご飯に乗せた梅干。
「オレの母ちゃんなんて、オレより朝起きるの遅いから、つくってもらえないんだよね。かといってさ、自分でつくるのは面倒だし」
ため息をついて、本橋が焼きそばパンを見つめた。本橋は毎日のように違う誰かと、ときには女子に混ざって、昼飯を食べる。昼休みを一緒に過ごす相手を、次から次へと変えている。ふいに本橋が入ってきたとしても、誰も拒みはしない。花畑をあっちへこっちへと飛ぶ、蝶のようなものだ。歓迎はされるけれど、いなくなっても追いかけられない。みな、くる者は拒まず、去る者は追わず、といったところだ。
いつも違う誰かと過ごす本橋と、ひとりで過ごす俺と、本質的にはなにも変わりはない。
「あ、笹倉だ」
本橋が小声で言った。ひとりの女子が、弁当を持って歩いている。食べる場所を探しているようだ。
「あいつ、修学旅行のとき、自由行動が楽しみだったんだって。なんでか知ってる?」
本橋の言葉に、「さあ」と、首をかしげてみせる。
「六年つづいてた文通相手が長崎の人でさ、自由行動んときに、会う約束してたんだって」
うわさ話好きのおばちゃんのように、本橋が顔をほくほくさせて話す。
「今どき、文通って思うでしょ? でもそこが、笹倉なんだよね。で、その文通相手、男だって思ってたのに、会ってみたら女だったんだって! うわ、って思うでしょ? もしかして笹倉の、初恋の人かもしれないのにね。かわいそ~」
「そう……んなことよく知ってんな」
「女子たちが何人か、その場にくっついてったんだって。そんで泣きだした笹倉から、訊きだしたんだって、根掘り葉掘り」
笹倉沙知は遠くのベンチでひとり、弁当を食べはじめた。彼女はいつもひとりだ。笹倉沙知だって俺と本質的に、なんにも変わりはない。
中庭のモニュメントを見た。人の顔に見える大きな鉄の塊は、赤茶色に錆びていた。私立だけあって、この高校の施設は立派だ。冷暖房に温水プール、玄関付近は大理石の床、談話室は著名なアーティストによる、色鮮やかな壁画に囲まれている。
校風に加えてこの環境を気に入って、父さんは入学をすすめた。けれど、どんなに立派な外構えでも、その中での生活が充実していなければ、それらはなんの意味も持たないことに、俺はとっくに気がついている。
ストローで紙パックの牛乳を吸いながら、本橋がじゅるじゅる鳴らせる。どこか小動物を思わせる仕草が、なんとも憎めない。
俺は弁当箱の卵焼きを、一切れ取った。箸でつかんだまま、陽一の目の前で泳がせた。黄色い卵焼きは緑の芝が茂った中庭に、鮮やかに映えている。
「食う?」
返事をするかわりに、本橋は卵焼きにかぶりついた。大げさなまでに目を細め、うれしそうに口をもぐつかせる。
「うううう、うまいっ! ふんわりしてるし、こんくらいの甘さ、オレ好き。嫁さんにしてやってもいいよ」
「誰がおまえの嫁になんか」
「なんだー、残念無念……そうだ。顔、横に洗うの、やめた?」
「やめてない」
「意地でもやめないっての?」
「違う。クセになっててさ」
ふうんと言ったあと、本橋はストローでまた牛乳を吸いはじめた。あどけなさを残す本橋に、俺は話してみたくなった。
「うちさ、母親、いないじゃん?」
俺の言葉に、本橋は一瞬ぴくりと反応して、俺を見た。すぐに視線を落とし、ストローで残りの牛乳を吸いながら、パックをたたみはじめた。俺はつづける。
「父親とふたり暮らしだから、ハウスキーパーさんに週三回、きてもらってる。けっこう入れ替わりがあってさ。頼んでおけば夕飯もつくってもらえるんだけど、同じメニューでも、味がやっぱ違うんだよな」
「てかさ、それってお手伝いさん?」
「うん」
「セレブだなあ。でも男ふたりじゃ、大変だよね。で、なに? その人によって、味が違うってこと?」
「べつにセレブってわけじゃないよ。んでさ、たとえば卵焼きにしたって、すき焼きにしたって、味がさ、見事に違うんだ。よく家庭の味って言うだろ?」
「うん、おふくろの味、とか」
「それ。その家庭それぞれの味が、俺の家にはないんだって知ってから、なるべく自分でもつくろうかなって。俺はおふくろの味を知らないから、斎藤家の味は俺が、みたいな」
本橋は食べ終えた焼きそばパンの、透明のビニール袋を細く折って片結びにした。
「賢介の親父さんは、料理しないの?」
「ほとんどしない。皿洗いは、だいたいしてくれるけど。ハウスキーパーさんの味が気に入らないとなれば、俺のわがままになる。だったらさ、母親がいないなら、せめて父親の味を覚えさせてくれてもいいんじゃないかって思う。甘えだっていったら、それまでだけど」
箸箱に漆塗りの箸をしまい、弁当箱ごとバンダナにくるむ。そうして本橋に打ち明けた。
「俺の母親、俺を産んだときに、死んだんだ」
「え! いないのは知ってたけど……てっきり離婚だと思ってた」
「難産だったんだ……こんな俺が生きているのに、どうして母さんが死ななくちゃいけなかったんだろうって、ずっと思ってる。父さんは、俺を憎んでる。いや、たぶんなんだけど。母さんじゃなくて、俺が死ねばよかったって思ってるに違いないって、今でもよく考える」
パンの袋をきつく結びながら、本橋は黙って聞いている。だから俺はまた、話してみたくなる。
「小さいころは玉葱切りながら、そのついでに泣いてた。玉葱が泣かせるんだよ」
「玉葱が?」
「そ、玉葱が。涙ぐんで、カレーとか野菜炒めとかつくってた。そんなふうにつくった料理を、父さんはうまいともまずいとも言わずに、当たり前の顔して食うんだ」
そこまで話して、ふいに我にかえった。どうして俺、こんなに饒舌なんだろう。ふだん人と話すことがないと、こういうふたりっきりのシチュエーションに舞いあがって、いつもの反動でおしゃべりになるんだろうか。
「なかなかどうして、ヘビーだね……」
「ついでに言えばさ、ガキのころ」
誰にも話したことはないけれど、聞いてほしかった、本橋だからこそ。
俺は話した。はじめてつくったカレーを、父さんとふたりで食べた夜のことを。
泣きながら玉葱を切った。カレーの箱の、レシピどおりにつくった。そのはずなのに、どこでどうまちがえたのか、どろどろで味の濃いカレーに仕あがった。
父さんはいつものように、無言でたいらげた。まずければ、残してくれたらいいのに。大人の知恵で、おいしくし直してくれたらいいのに。
完食しようか残そうか迷っている俺にはおかまいなしに、父さんは立ちあがった。自分の皿を下げると、流しに向かって洗い物をはじめた。その背中が妙に遠く感じた。とたんに俺の中に、なにもかもめちゃくちゃにしたいという欲望が染みでた。
本橋はベンチの上で体育座りをして、黙っている。
「父さんなんか、いなくなればいいって思った」
「それって……殺意?」
「よくわからない。衝動的だった。いつも使ってる包丁は、料理をつくるためにあるから、使いたくなかった。父親を刺しても料理にはならない。冷静に考えた。じゃあ、ハサミだなって。父親の後ろから、刺そうと思った」
「……マジで殺ろうとしたの?」
目を見開いたようにして、本橋はベンチの上で体育座りした膝を、両腕で抱えこんだ。驚くその顔を見て、自分が話していることの重大さがわかる。それでも聞いてほしかった。
いや、俺自身が話したかった。もうずっと誰かに、話したかった。
「なんだったんだろうな。小学六年のときだよ。けどさ、刺すに刺せなかった。ハサミを握りしめた俺に、ふり返った父さんが言ったんだ。工作の宿題でもあるんですか、手伝いますか、って。ああ、この人には、なんにも伝わらないと思った」
「工作、ねえ」
「とっさに俺はハサミをつかんで、外へ飛びだした。公園にいって泣きじゃくってたら、猫がすり寄ってきた。黒と白のまだら模様の、ぶさいくな猫だった。俺はそいつの長いヒゲを、握り締めてたハサミで、片方切り落としてやったんだ。そしたらそいつ、さらにぶさいくな顔になってさ、その顔を見て、俺は自分が怖くなったよ。後悔もした。罪悪感が生まれたことに心からほっとしながら、家に逃げ帰った。結局帰るところは、父さんのいる家しかないんだって思い知った。もう涙もでなかったよ。それだけ」
あの夜のことは、今でもときどき思いだす。ヒゲを失くした猫の顔。父さんの遠い背中。できそこないのカレーライス。
「賢介は、自分を責めてるんだな。自分の代わりに死んだ母親への詫びと……あ、ごめん。キツかったよね、今の言い方」
「いや、そのとおりだし」
「悪い。あとさ……生まれてきた後悔、そういうのがいつのまにか、父親への憎しみに形を変えたのかな」
「なんかおまえ、心理学者みたいじゃん」
からかってやったつもりが、本橋は大真面目な顔で言った。
「いろんなもの背負ってんのな。焼きそばみたいだな、賢介って」
「焼きそば?」
「そう。スパイラルな焼きそばの麺みたいに、ぐるぐるにからまってる。そんで、いろんな味が沁みこんでて、ところどころに肉とか野菜とかをくるんでて」
いまいち理解のできない表現だけれど、味のある奴という解釈に留めておこうか。
俺は立ちあがった。
「もう教室いこう。次は古文だったよな」
「そうだ、大事な話をまだしてないんだ」
本橋はベンチに飛び乗ると、身体をくねらせてギターを弾くマネをした。
「なんだよ、エアギター?」
「ちがうよ、賢介くん。ユニット名を決めなくちゃ。それから音楽のジャンルもね。ぼおっとしてると夏が終わって、すぐに文化祭になっちゃうから」
ベンチからジャンプで飛び降りた本橋は、着地のときにエアギターでポーズを決めた。
「……そうだな」
つぶやいた俺は、本橋を置いて校舎に向かって歩きだした。
「ちょっとちょっと、ノリ悪いんじゃね? でさ、今日の放課後、賢介の家にいっていい? いろいろ打ちあわせしないと」
あとからついてくる本橋は、なんとなく子犬を連想させる。
「なんで俺んちなんだよ」
俺は子犬男子に言ってやった。
「そりゃあれですよ。家庭訪問てヤツ」
立ち止まって本橋の顔を見たら、ニタッと笑っていた。しっぽがあったら、振っているだろう。
「ついでに賢介の手料理が食べたいんですけど」
悪びれたふうもなく、言ってのける。
「勝手にしろ。夕飯つくるの、手伝えよ」
俺は早足で教室へ向かった。なんだ、本橋とならふつうに話せるんじゃん、俺。