日常回が始まりそうで始まらない
週明けのスケジュール確認ミーティングでは、腰の具合がよくないことを正直に告げてできるだけ動きたくない、定時で帰りたい宣言をした。
「名護さん、週明けなのに全然リフレッシュできてない顔してますよ」
と、協力的だった。日頃の行いだ。あるいは、よっぽど悲壮に満ちた顔をしていたのかもしれない。腰痛に効くストレッチも教えてもらえた。
その日はどうにか乗り越えた。日頃の行いのお陰で無事に定時に仕事を終えることはできたのだ。『今週の名護さんの腰痛悪化防止のため、うちのチームは定時退社です』と言って回られたが。中年以降の者にはよく効いたらしく、いたわりの言葉をもらうハメになった。
自宅の最寄り駅。降りた客の流れには乗らず、教えてもらったストレッチをしてから改札へ向かう。こういうときは自分のペースで動くことが大事なのだ。
「あっ、お客様。腰はもう大丈夫なんですか?」
声をかけてきた駅員は、先日の腰痛時の駅員だ。
「お騒がせしました。まだ本調子ではないんですけど、どうにか働けるくらいには」
「腰は大事にしてくださいね。本当、大事ですから」
身近にやらかした人がいるのかもしれない。会釈をして改札を抜ける。
今日はどうにかやり過ごせた。しばらくはこの調子で
「千晃ーっ!」
今日はまだ終わっていなかった。
身構える。紅鬼はぶんぶん手を振っているが、今回は飛びついてこなかった。
「おかえりー。迎えにきた。なんでガードしてんだよ」
「誰のせいで腰やったと思ってんだ」
カバンを盾にしつつ、緊張はまだ解いていない。
「腰のことは悪かったって思ってるよ。何もしないって」
いつまでもそうしているわけにはいかず、少し警戒を解く。
「迎えにきたって、何かあったのか?」
「オレがそうしたかっただけ」
千晃が歩き出すと、紅鬼もならんで足を動かす。
「飯食ってくか? この辺だとファミレスになる」
「晩ごはんの用意できてる。オレの味覚と人間の味覚はちがうものだから、千晃の舌に合ったらいいけど」
「紅鬼のそれは、そもそも味覚なのか?」
「厳密に言うと違う。食べたときの快・不快だから、それはおいしいまずいって言い換えたほうがわかりやすいだろ?」
「本を食べたときもそうなのか?」
「うん。味のバリエーションっていう感じで、食べられないっていうのはない」
「本を食べるのも娯楽か?」
「うん」
「そうか。本も探しておく」
「ふひひっ、ありがと」
飛びついてこなかったが、腕に抱きつかれた。
「くっつくな手をつなごうとするな。なんでそんなに距離をつめてくるんだよ」
「千晃の存在っていう情報だけでおいしい。んー、どっちかというと、気持ちいい」
「理由はわかった。少しは許容するけど、外ではやめてくれ。紅鬼の方からくっついてきても、俺のほうが通報対象になる」
悲しいかな、おっさんというものはそういう場面では信用が低いのだ。
「今日は何して過ごしてたんだ?」
「ちゃんと家事してた。オレは千晃の嫁で、専業主夫だからな」
「スキあらば籍に入ってこようとするな」
「本屋で料理の本見て、今日の晩ごはん作ったんだ」
「そうかそうか」
新婚など、紅鬼が言っているだけで、千晃は何も思っていない。それっぽいと一瞬思ってしまったのも気のせいだ。気のせいなのである。
千晃が目をやると、となりの紅鬼はにこーっと笑う。腹が立ちつつ、それを許してしまうくらいに顔がよかった。
紅鬼が本屋で読んだ本に載っていたというポークソテーは問題なくおいしかった。