おっさんはほだされる
土曜の朝である。千晃はソファに転がっていた。朝からシャワーを浴びて、湿布も貼り直した状態で。
『おはよう! まだ寝る? 龍神にきいたら今日は晴れるから、シーツだけじゃなく布団も干そう。オレがやるから』
『洗い物ついでに米もセットしておいた。やり方は炊飯器に聞いたから、大丈夫』
『人の丁度いい味ってまだわからないから、簡単なのしかできないけど、朝ごはん、これでいい? おいしい? やったー!』
『お昼ごはんどうする? 千晃はあんまり動けないから、軽いほうがいい? オレ、甘いの食べてみたい。ホットケーキミックス? 全然、作る!』
『洗濯はしてるけど、掃除は? 掃除ロボいるし、十分動けるように片付けてるから大丈夫なんじゃない? 千晃、散らかさないようにしてるの、偉いな』
「やめてぇ! 独り身のおじさん、そんなに優しく世話やかれたら好きになっちゃう!」
気になる言葉の使い方はあるものの、随分と渾身的だった。千晃は手で顔を覆い、腰が痛まないていどに丸くなる。
「おー、好きになってなって。そういう感情の振れは、経験値として重なって“コク”になるから」
「コク? 何のグルメレポだよ」
「言ってたとおり、オレが食べてるのは日本語ではちょうどいい言葉がないけど、まあだいたい命と情報だ。それが詰まってるのか、」
紅鬼の指が、トンと千晃の額を突いた。
「“脳”だ。この世に出てきたてのピュアなのもおいしさはあるけど、積み重ねてきた人生で深みが出る。コクが出る。せっかく目をつけたんだ。おいしくなってほしい」
いたずらめいた笑みを浮かべる紅鬼は、本当に顔がいい。しゃべっていることは不穏で物騒だが。
「お前なぁ。俺もいい年なんだから、そういう話になると、身体の関係とかも出てくるぞ」
「全然大丈夫。むしろ、身体だけでもいいよ。こっちには、命がつまってる」
千晃の額を突いた指が、今度は股間をなでた。
反射的に腰が引ける。
「いっって!」
腰の痛み。
「まだ無理そうだな。いつでも言ってくれていいから」
「……じゃあ、何で男の身体できたんだ?」
ベッドでベタベタ触って確認したわけではないが、紅鬼の身体にはついていた。他にも男の特徴のある身体をしている。
「棒も穴もあるから、両方対応できるかと思って。実際にオレが見てきたサンプルが、男のほうが多いっていうのもある」
自殺者は圧倒的に男性の割合が多いと聞いたことがある。まさかこんなところで人間の闇を見るとは思っていなかった。
「穴、追加する?」
「えっ、こわっ、やめて」
反射的に断っていた。
「買い物は? お使いくらいできる」
「あー、ちょっと行けそうにないな。頼む。色々頼みたいものが出てくる。メモ、いるか?」
「スマホでメモとるから大丈夫」
言いながら、紅鬼はスマートフォンを立ち上げる。
「どうやってんだ、それ。お前、まともな名前もなかったのに。住所、あるのか?」
「ない! ここ! そこは、いろいろと。現代社会、これがあれば切り抜けられること多いし、つーかオレの持ち物これだけだし」
「大丈夫なのかそれ!? ほんとにそれ使い続けて大丈夫なやつなのか!?」
少なくとも交通系ICカード機能は入っていた。どこかに財が必要なはずだ。“違法”の文字がよぎる。
「これは残り滓の寄せ集めみたいなもの。国内の一人ひとりから1円もらったら1億になるみたいなものだよ。正規ではないけど、違法でもない」
「なんか怖い。やめてくれ。スマホしか持ってないって、服は?」
「これだけ」
「……服も買ってこい。駅前にユニクロ、スーパーの方ならしまむらがあるから」
さすがに諭吉はドブに捨てられる金額ではないが、しみったれたことを言っている場合ではない。
「やりたいなら、ホットケーキにデコするためのホイップクリームとかカラースプレーも買っとけ。ちゃんと買い物してくれるなら、文句は言わん」
送り出し、秒で不安にかられたが、自宅から出かけられそうにない千晃の腰である。もう後の祭りだ。しかたなくやきもきしながら待つ。
小一時間、気が気でなかった。そうしているうちに紅鬼は帰ってきた。
「たっだいまー! 着替えてきた!」
渡したトートバッグとエコバッグをいっぱいにして。
安堵と、うんざりのため息を吐く。
「なんでお前の服のセンスはそんなに治安が悪いんだ」
「なー、千晃。せっかく名前くれたんだから、そっち使えって」
「……紅鬼」
「くひひっ」
「くっそ、七難隠す顔しやがって」
「あっ! 作りたくてフルーチェ買ってきた!」
「はいはい、今日のおやつな。うちに気の利いた器はないぞ」
「うん。食器少ないと思ったから、とりあえず100円ショップで買ってきた。ホットケーキ♪ ホットケーキ♪」
うきうきをフルオープンにしている紅鬼は買ってきたものを広げて片付けていく。紅鬼は千晃宅に住み着くことをまるで疑っていない。千晃もそれをたった半日で受け入れつつあることに気づく。
「湿布も店員さんに聞いて新しいの買ってきてるから、いつでも貼り替えられるぞ」
「ぐっ……どんどんほだされるやめてくれ……」
一人では貼りにくい背中側に的確な位置に湿布を貼ってもらえるのは、地味にありがたいことだった。