おっさん、やらかす(おまわりさんこの人です)
ついにやってしまった。
千晃は朝から通勤電車の中で陰鬱で気だるいため息を吐いた。
もらった本は中身を確認せず、そのまま紅鬼に渡していた。おやつやデザート感覚で、少しずつ食べていた。食べると内容もわかるらしい。『物語を食べる文学少女の話』、『世紀末世界観で、きのこ操ってドッタンバッタンする話』、『実践が過ぎて返って学校の成績はよくない最強おにいさまの話』と、ライトノベル系は聞いてもよくわからないことが多かった。『全部妖怪のせいにしようとするけど、最終的に怖いのは人間だっていう話』と聞かされたときは、妖怪ウォッチのノベライズでも混ざっていたのかと思ったが、かすりもせずミステリ小説だった。
おもしろそうな物があれば読んでみようかと思って聞いていたが、極端な要約のためか、今のところおもしろいかどうかわからないため、購入には至ってない。
さて。紅鬼の異常性はまだ常態化していないが、千晃の日常に組み込まれていった。寝るとき、となりに潜り込んでくることも。枕は買った。室内飼いの犬猫が潜り込んでくるようなものだ。飼ったことがないので、想像だが。
昨夜の紅鬼はぴとりとはりついてきた。時々あることだが、べっとりくっついてくるいつものそれと違っていた。
「ホラー小説でも食ったのか?」
ベッドに入る前、紅鬼は一冊たいらげていた。紅鬼の存在がオカルトやホラーの類なのだが。聞いてみたものの、紅鬼はそんなことで怖がるようなタマでもない。
「ちがう。官能小説」
食べたものが関係していたことは当たっていたらしい。半ば反射的に身を引いてベッドから落ちそうになった。
「それにかぎって実践しようとするな! ああいうのはフィクションだ。実在の人物や団体などとは関係ありません」
「オレもフィクションみたいなもんだし」
「何の免罪符にもなってねえよ!」
一見華奢に見える紅鬼だが、千晃を抱え上げた実績がある。簡単にのしかかられてしまった。ちなみに、千晃は身長が高いため、米俵より重い。
「前にも言ってたけど、お得なことに、オレには棒も穴もある。どっちがいい? オレは千晃を味わいたいから、受け入れたいな」
「まっ──」
──というのが昨夜のハイライトである。なお、千晃の下半身は千晃自身が思っていた以上に馬鹿だった。食われた、食わされた、どういうのだろうか。
それは排泄物にあたるのか、明らかに達した反応をしていた(それが演技だという可能性はゼロではないが)紅鬼からは出るはずのものが出ていなかった。“快”はあるようで、請われるままに愛撫した。震え、跳ねる肢体。苦痛に耐えるようでありながら、溶けるように甘い声。清廉で凛とした顔は、妖艶に笑み、“もっと”と請う。──思い起こされる罪悪感で死ねそうだった。
おっさんは何発も耐えられないため、途中からは紅鬼に“快”を与え続けることになった。そうであるにも関わらず、全身だるく、なぜか背中はチリチリする。性行為翌日の出社や登校などいくらでもあることだが、今日ばかりは全力で休みたかった。通勤電車に乗っているあたり、お察しなわけだが。
「オハヨーゴザイマース」
いつも通りの出社である。一グラムでも身を軽くしたくて、デスクでジャケットを脱ぐ。
「わっ! 名護さん、背中に血! ついてますよ!」
「なっ! マジか。そんなに酷いことになってるのか?」
振り返るように背中をのぞいてみるが、自分の背中は見えない。
「ちょっと動かないでください」
パシャリ、電子のシャッター音。杉浦は撮った写真を見せてくれた。ポツポツと点が散っている。ジャケットの方に血痕はない。原因は千晃の背中だ。
「あぁ……」
背中がチリチリしていたのはそれが原因らしい。たいした傷ではないのだろうが、通勤時に傷がこすれて軽く出血したようだ。
「何かあったんですか?」
「ネコに爪を立てられた」
嘘は言っていない。
「あー、猫って自分で乗ってきたくせに、キレながら下りますよね。……名護さんち、美少年だけじゃなく猫までいるんですか!? 天国じゃないですか!!」
「それ以上は俺の心証が悪くなるぞ」
「ナンデモナイデスー」
今は余計に紅鬼のことをつっこまれたくないので、牽制しておく。
「名護さん、血液はお湯で洗うとかたまっちゃうから水で洗った方がいいですよ。石鹸とか、ボディーソープで下洗いするといいです。血液を落とす洗剤持ってますけど、貸しましょうか?」
と、女性社員に声をかけられた。
「惜しいほどのシャツじゃないから大丈夫。貸せるって、今持ってるのか? 随分準備が……あっ、すまん気を使わせた! 全然大丈夫だ!」
女性は怪我をしなくても出血することがあるのだ。
「いえ! 返って気を使わせてすみませんでした! 私にはいつものことですから!」
軽く謝罪の応酬になってしまった。杉浦は『?』を浮かべていた。
「そういえば、コウキちゃん、本を読んで何か言ってませんでしたか?」
「ん?」
血痕が人目に触れぬよう、ジャケットに再び袖を通す。杉浦を見やると、かすかにいやらしい笑みをにじませていた。時々子どもじみたいたずらを仕掛ける杉浦だ。『官能小説はお前か』と言いそうになったが、飲み込む。そういう反応は、杉浦を喜ばせるだけである。
「かわった本でも渡したのか? へそくりか、四つ葉のクローバーでも挟んでたか?」
「いえいえ、言ってないなら、なんでもないです」
個人的な杉浦への心証はガタ落ちしたのであった。