弁当を忘れるというイベントが発生してしまった
紅鬼は千晃の日常にすんなりと溶け込んでいた。それどころか、千晃の日常を確実に快適にしていた。
朝食は、弁当も作るので、千晃が作っている。夕食はあれこれ調べつつ、紅鬼が作っている。レシピ通りに作っているらしいので、今のところ外れはない。
千晃が仕事に出ている間に、マメに家事を片付けている。駅まで迎えにくるかは、そのときに気分らしい。人ではない紅鬼に気分や気まぐれがあるのかと、なにか不思議な気がする。
コストはかかっている。しかし、外食が減ったため、食費はあまり変わっていない。生活費全体で見ても、誤差と言うには大きいが、目をみはるほど上がっているわけでもない。快適さを思えば、全体的にプラスになっていると思っている。
ただ、紅鬼の存在はオカルトである。目をつぶるにはあまりにも常軌を逸していた。
考えても無駄で、諦めて受け入れているが、ふとその異常性を思い出しては背筋が冷える。異常の恒常化は案外難しいらしい。とはいえ、前述の通り、ほとんど受け入れてしまっている。異常はすでに千晃の中にも発生しているのだ。
千晃はほぼ毎日弁当を作っている。週末に作り置きしたものや冷凍食品を詰めただけだと、千晃は言っているが。いつも朝食ついでに作っている。作った直後はつめたご飯を冷ますためにカバンに入れるのは家を出る直前だ。たまに忘れることもある。
というわけで、昼休みに入ろうとカバンを探った千晃は弁当がないことに気づいて肩を落とした。
「……外にいくか」
自宅に取り残されている弁当は紅鬼に処分してもらおう。スマートフォンの定位置であるポケットに手をつっこみ、
「あれ?」
手応えがない。
デスクのひきだしを開けた。ちかちかと通知ランプが光っている。ミーティング前に入れたまま忘れていた。
「名護さん」
「ん?」
顔を上げる。部下に当たる杉浦が受話器を持っていた。
「ナゴコウキさんが、忘れ物を持ってきたって、お電話です」
スマートフォンの画面をつけると、履歴に紅鬼の名前が並んでいた。
「こっちに回してくれ」
転送された電話を手元の電話で受け取る。
「はい、名護です」
反射的にいつものように出てしまった。
『よかった、千晃につながった。お弁当忘れてたから、持ってきた』
「あぁ、スマホの方、気づけてなかった。悪い」
『うん。反応なかったから、携帯してなかったのかなって。だから、持ってきちゃった』
「どこまで来てるんだ?」
『ビルの前まで』
「わかった、すぐにいく。ロビーまで入ってて大丈夫だぞ」
『うん、待ってる』
職場の連絡先も紅鬼には教えている。名刺を渡しているので、所在地も知っている。スマートフォンにつながらなければ、そちらから連絡を取るのはごく自然なことだろう。
「昼、出てくる」
電話を回してくれた杉浦に告げる。
「いってらっしゃい。親戚の方ですか? 名護って、このへんだと聞かない名字ですよね」
「ちょっと親戚の子を住まわせてるんだ。“子”って言っても、もう二十歳過ぎてるけどな」
あまり厳密に決めていないが、そういう設定にしている。
スマートフォンを確実にポケットに。財布も持って、席を立つ。
「──……いってらっしゃい、じゃなかったのか、杉浦」
「気になるじゃないですか、親戚の方」
昼休憩は11時から13時の間で好きに一時間取っていいことになっている。杉浦がついてくることに問題はない。
「言ってた活字中毒って、その子のことですか?」
「あぁ、そうだ」
紅鬼は本を食べることを娯楽の一つとしている。職場でも以前にいらない本はないかと募ったのだ。本であれば、活字であればなんでも読みたがるから、分野は問わない、と。体よく押し付けられたものもあったが、紅鬼は特に文句は言わなかった。古くてもなんでも、味のバリエーションが異なるだけで、まずいというものはないそうだ。今も時々もらっている。
「見ても、おもしろいことなんかないぞ」
「おもしろいかどうかは、僕が決めることですから」
人の親戚の顔を見ておもしろがるようなやつに見せたくはないが、強く拒否もできない。杉浦もただ昼食を食べに行くだけなのだから。
千晃の勤め先はオフィスビルに入っていた。エレベーターで一階まで降りる。総合ロビーに出ると、気づいた紅鬼が駆け寄ってきた。オフィスビルのロビーという会社員ばかりの中を『千晃ーっ』と無邪気に手を振りながら。
「えっ、名護さんあれなに、ねえ名護さん」
「俺の親戚だが?」
ベシベシ叩いてくる杉浦の手をはねのける。
贔屓目ではなく(そもそもそんなものはないが)、紅鬼は顔がいい。もうとっくに三日以上たっているが、飽きていない。ざわつく周囲の空気に、己の目が節穴でなかったと確信する。頼むからシンプルな格好をしてくれと、ジーンズか黒スキニーに適当なシャツ+αくらいの服装をさせているが、治安が悪いままのセンスを継続させたほうがよかったかもしれない。治安の悪いファッションは、目立つにしても悪目立ちだ。今のようなユニクロで数千円の格好は、返って顔面を引き立たせてしまう。
「お前、地下だろ」
「あっ……財布持ってきてない」
「とっとと行け」
地下には食堂があり、オフィスビルに入っている会社でそのシステムを利用していれば、セキュリティのために情報が付与されているIDカードで後払いで食べられるのだ。外部の人間も利用できるが、オフィスビル利用者の方が割引が効いている。スマートフォンを持っているだろうから、外に出ても電子マネーを使えるだろうが、杉浦はそれ以外は手ぶらだ。地下の食堂で食べるつもりで降りてきている。
「あ、こんにちは! うちの千晃がお世話になってます」
千晃としゃべっていた杉浦を勤め先の関係者だと推測した紅鬼はペコンと頭を下げた。
「いえいえ、こちらこそ、お世話になってます。名護さんと同じチームの杉浦です」
杉浦はツラにデレデレをにじませていた。
「地下、混むぞ。早くいけ」
「エーン、名護さんいじわるー」
杉浦はしぶしぶ地下へ降りるエスカレーターへむかってくれた。
「旦那さんの同僚に挨拶する嫁!」
「籍に入ってこようとすんな。紅鬼は、昼はどうするつもりなんだ?」
「オレはなくても大丈夫だし」
「外に弁当も売ってるし、キッチンカーもあっただろ。それくらいの甲斐性はある」
促して先を歩く。
「やった! ありがと、千晃」
腕に抱きつかれそうになって危うく避ける。
「外ではやめてくれ。ここ、俺の職場なんだから、余計に」
不惑のおっさんが美少年を侍らせるのは、あまりにも事案がすぎる。
「じゃあ、あとで」
不機嫌そうにつぶやかれたが、千晃とて社会的な死に近づきたくなどないのだ。
オフィス街の昼食の時間帯はにわかに騒がしくなる。近くの飲食店はランチ営業だけでなくテイクアウトの弁当を店頭で売っている。オフィスビルの前まで売りに来ている店もある。ビル前の広場にはキッチンカーも並び、よりどりみどりである。
「好きなもん買っていいぞ」
紙幣を渡す。
「わーい!」
受け取った紅鬼は、キッチンカーへむかってうきうきステップを踏んでいた。
買ったものはオフィスに持ち帰り食べる者がほとんどだが、そのまま外で食べる者もいる。紅鬼をオフィスに入れるわけにはいかないため、外で食べるしかない。探すと、ちょうど空いたベンチがあったので陣取っておいた。
「買ってきた! 変わったもの色々売ってておもしろい」
「おっさんはああいうのはあんまり買わないから、ふるってないかもしれないな」
キッチンカーに並んでいるのは若者や女性ばかりだ。キッチンカーでなく売られている弁当は、◯◯弁当とその名の通り味の想像がつくものばかりだ。おっさんはそういう物を選びがちなのである。
「これ、千晃の好きそうな味してる」
紅鬼はさっそく買ってきたものにかじりついていた。
「何買ってきたんだ?」
半円でポケットのようになっているパンに、野菜や肉が詰め込まれている。ソースもかかっているようで、舌が唇を拭っていた。
「ジャーキチキンサンド」
「ジャーク?」
「ジャマイカだって」
差し出されたので、一口もらった。かわりに弁当の卵焼きをとられた。
いかにもスパイスまみれのジャークチキンなるものは、スパイスも効いているが、レモンの爽やかな香りもした。胡椒と唐辛子と、何か他にも、なかなかパンチのある味だ。口の中を洗い流すようなぐいぐいいけるビールやサワーがほしい。
「貴族焼きにレモンかけたような味だな」
「エスニックが急に居酒屋になった」
「おっさんの味覚は、あればご家庭の味、なければ居酒屋・小料理屋メニューでできてんだよ」
「ふひひっ、居酒屋ドリンクはないけど、これ飲んだらスッキリする」
今度はストローの付いた蓋付きプラカップを渡してきた。中には黄色と緑の何かが漂っている。結露ではっきり見えないが、レモンとミントあたりだろう。飲むと、およそだいたいそんな味がした。
「そのジャークチキンに合わせるにはいいけど、ごはんの弁当の合間に飲むものじゃなかったな」
「オレが食べてるのと交換する?」
「そこまでじゃない」
千晃は自分の弁当にもどった。
「ミニサイズのフルーツサンドも買ったから、はんぶんこしよう」
デザートまでついてきた。
そんな予感はしていたが、オフィスにもどると早速詰め寄られた。
「名護さん、美少女とイチャイチャランチってなんですか!?」
「私も外出てたんでちらっと見ましたけど、それでもわかりましたよあれ現実ですか??」
「ちょっと事案じゃないですか、おまわりさんこの人です!」
「……杉浦」
「はーい」
「杉浦くん、何て言ったのかな? 聞かせてくれる?」
一人で食べたからだろう。千晃が戻るより先に、杉浦はすでにオフィスに戻っていた。元凶はおそらくそこだ。
「えーっと、すみません、盛りました。コウキちゃんのことは盛ってないです!」
「何が紅鬼ちゃんだ、あいつは男だぞ、そもそも」
「性別超越した顔をしてましたよ。僕は間近で見ました。間違いないです」
そう言いたい気持ちはわかるが、下手に肯定すると面倒なことになりそうなのでスルーしておく。
「大学と下宿の関係で、俺のところに住まわせてる親戚だ。それ以外の何者でもない。俺が弁当を忘れたから、届けてくれた。そのついでに昼飯奢ってやっただけだ」
「写真ないんですか、美少女美少年めっちゃ見たいんですけど!」
「ねえよ。なんで持ってると思った。事案っていったのはどの口だ」
「すみません……」
「活字中毒ってその子のことなんですね! 文学美少年!」
「“文学少女”って言いたいんだろうけど、原型のとどめ方が微妙だぞ」
「本、貢ぎますから、写真を一度でいいから見せてください。生でもいいです」
「そこまでして本はいらねえよ! ちょっと聞け!」
パンパンと手を鳴らす。
「紅鬼はあの顔だから、そういうトラブルに巻き込まれやすいんだ。今、俺のところに置いているのも、下宿先で何のいわれもないのに勝手な人間関係のもつれに巻き込まれたからだ」
大嘘である。
「引きこもったり、自分の顔を厭って傷つけようとしたりしたこともあった。本人がいなくても、騒がれるのは看過できない」
もちろん大嘘である。
「やっと元気になって大学生を謳歌してるんだ。静かにしてやってくれ」
言うまでもなく大嘘である。
「コウキちゃん、そんな……」
「“ちゃん”言うな」
「そうですね。アイドルでもないのに騒ぐのはよくないですね。アイドルとかモデルとかやらないんですか? 最近の仮面ライダーも狙えると思います」
「やる気があるならとっくにやってる。そろそろ俺の心証が悪くなっているんだが、続けるか?」
解散になった。
後日、『貢物ではないです』と前置きされた古本が集まった。