僕はただのお手伝いです
「ちょっ、ちょっと待ってよ、そこの機材は、あっ、あぁっ、あーッ!」
「おいおいその素材はあまり数がないんだもっと丁重にだなぁ……うわーっ!?」
うーん、中々に地獄絵図。
そう思いながらもミトラはその光景を眺めていた。隣には王立研究所のお偉いさんがいるためか、彼らはこちらに手出しをできないとわかっているので存分に見物できている。
「しかし……本当に良かったのかい? ミトラ君」
「え? あ、はい。何も問題はありません。この結末は彼らが望んだ事なので」
「望んだ、ねぇ……とてもそうは見えないがな」
「あっは、まっさか~。だって彼ら曲がりなりにも自分は優秀であると自負していたんですよ? こうなる事がわからないなんてこと、あるわけないじゃないですか。僕だって簡単に想像つくのに」
くふふ、と小悪魔っぽい笑みを浮かべてみせれば、王立研究所主任であるエルフィンドさんはミトラに合わせてか、笑みを浮かべようとした。とはいえ、その表情はとてもぎこちないものだったが。
エルフィンドたちと一緒にやって来た執行官たちが、次々に建物の中の物を運び出していく。
それらをどうにか止めようと試みている者も数名いたが、屈強な連中にじろりと睨まれて委縮し妨害する以前の者、力尽くで抵抗しようとしたものの、公務執行妨害でしょっぴかれたいのか、と言われ国家権力に屈する者とで、作業はとてもスムーズに進んでいた。
仮にしょっぴかれるの覚悟で彼らに殴りかかったとして。
間違いなく反撃されたら一発でノックアウトされるだろうし、そうならなくとも数日牢にぶち込まれるのは間違いない。たった数日。されど数日。彼らにとっては一日の時間ですら惜しむべきものなのに、24時間以上拘束されて自由に行動できないとなれば、とても困るのだろう。
ミトラたちの目の前の建物は、私設研究所であった。錬金術や魔法薬学など、そこそこ手広い研究がおこなわれている。
この研究所を創立した所長と言うべき男の名はフィンドール。ミトラの叔父にあたる。
ミトラの両親はミトラがまだ幼い頃に馬車の事故に巻き込まれ亡くなってしまった。引き取ってくれるような親族は他におらず、では孤児院行きかと思っていたミトラを引き取ったのがフィンドールである。
ミトラの両親とフィンドールはほぼ交流がなかった。だからこそ、フィンドールがミトラを引き取ると言い出したのはミトラが孤児院に行く直前、本当にギリギリになってからの事だったし、ミトラもまさか父親に弟がいたなんて知りもしなかったのだ。
ただ、フィンドールは父とそっくりな顔立ちだったので身寄りのない子供を奴隷にでも仕立て上げようとして親類を騙る者というわけではないのは理解できた。
そっくりすぎて一瞬だけ、父が生き返ったのかと思った程だ。
けれども、顔立ちが似ていても中身は全然違っていたので父が生き返ったなんて妄想、本当に一瞬で打ち砕かれたが。
フィンドールは研究に人生を捧げているような人間だった。けれども、ミトラを引き取った以上は一応面倒を見てくれてもいた。
最初は興味なんてこれっぽっちもなかった錬金術だけど、今はミトラも錬金術や魔法薬学が好きになっていた。けれども叔父の跡を継ごう、とは考えていなかった。
しかし叔父の手伝いをしたい、とは思っていた。
だからこそ、ミトラは研究所で彼の助手として活動していたのだ。とはいえ、助手とは名ばかりのただの雑用みたいなものだったが。
それでもミトラにとっては毎日が楽しいものだった。
研究所には他にも人がいた。
誰も彼も癖の強い人たちで、大人って駄目な人もいっぱいいるんだな、とミトラに駄目な意味での現実を突きつけてくるような連中だったが、少なくとも少し前までは上手くやっていたつもりだった。
研究所は基本的に王立研究所が国内に複数あるので、私設研究所というのは珍しい。
実際国の定める研究を優先しないといけない、となれば自分の好きな研究ができない。そんなの俺ぁごめんだぜ! というようなのが個人で研究をしたりもするが、研究には金がかかるしましてや研究内容によっては場所だって必要になる。
そういう研究者にとって、この私設研究所はまさに救いの場所であったのだ。
国で率先して行う研究と自分がやりたい内容が一致していればいいけれど、そうじゃなければやりたくもない研究に延々と時間を費やすのだ。数日で終わるような簡単なものならまだしも、そんな研究を国で行うはずもない。最低でも数か月、下手をすれば数年の時間が費やされる。
やりたい研究であればそれはそれで幸せかもしれないが、やりたくもない研究を嫌々やるなら数年とかまさに地獄。仮にその研究が終わって成果が出た後で好きな研究をしていい、というのであればまだ我慢のしようもあるけれど国内外の情勢が変化すればそうもいかない。
フィンドールが創立したこの私設研究所は基本的に他者の妨害をしなければ比較的好きな研究をする事ができる場であった。
だからこそ、国立研究所に不満を抱く研究者たちからすれば、是が非でも入りたいと思える場所でもあったのだ。
他にもいくつかの私設研究所はあるけれど、フィンドール以外が作った私設研究所では研究したいテーマが明確に決まっていたりするので、自由にその時の気分で好きに研究できるというこのフィンドールの研究所は空きがあればすぐさま入りたいという希望者が殺到していた程だ。
国が黙っていないのではないか、と思われるが別に潰そうだなどと思われた事はない。
国で率先して行っている研究とは別方面からのアプローチで新たな発見が、なんて事はよくある話だし、敵対しているわけではないので必要があれば手を組む事だってある。何だかんだ上手く共存していたのだ。
だがしかし、そのフィンドール私設研究所も終わりの時を迎えた。
若い頃からずっと研究研究また研究とばかりにしていたせいか、ある日フィンドールは倒れてしまったのだ。ミトラを引き取ってからは子供の世話をするついでに一緒に食事をしたりだとかしていたけれど、それ以前では研究に没頭するあまり食事を抜いて数日、なんて事はザラだったし徹夜しての作業も当たり前のものだった。
ミトラを引き取ってからは子供の無尽蔵な体力についていくために休息は大事だと学んで、研究に没頭する事そのものをセーブしていたけれど、若い頃のツケはそれでもやってきてしまった。
ばたりと倒れた叔父にミトラは慌てて病院に駆け込んだし、フィンドールは緊急入院をする事になった。
結果は大雑把に言えば疲労。もう少し細かく言うならば栄養失調と睡眠不足、加齢に伴う体力低下。
しっかり休めば回復するもの。医者からそれを聞いてミトラはホッとして思わず泣いた。
だってフィンドールまで死んでしまったら、今度こそ本当にミトラは独りぼっちになってしまう。
ミトラに泣かれてフィンドールもちょっとばかり良心が痛んだ。いや、大丈夫だと思ってたんだけどなぁ……俺ももう年だなぁ……なんてのは言い訳にもなっていない。
しっかり治るまで養生して、と言い聞かせられてしまえば、フィンドールもいや大丈夫だって、なんて言えなかった。自分の事は自分が一番わかってるとかまさか言わないよね? わかっててこれなら信用できるわけないんだよ。そうミトラに言われてしまえば、反論の余地はなかった。
手がけていた研究が今すぐ結果を出さなければならないものであったならまだしも、別にそういうものではない。ただ、ついついのめり込んで寝食を疎かにしてしまっただけで。
叔父さんの大丈夫はもう信用しない。僕がいいって言うまでちゃんとお休みして。
そういうわけでフィンドールの長期入院が決まってしまった。
下手に家に帰るとそっちでまた研究をしてしまいそうなので、ミトラは医者に金を握らせて強制的に入院させたのである。賄賂などではない。入院にかかる費用の前払いだ。
これは十日やそこらで出してもらえなさそうだぞ、と思い始めたフィンドールはいっそ開き直ってゆっくり休むことを決めた。研究所の様子はミトラ経由で聞いていたが、日々穏やかに生活しているうちにフィンドールの心境に変化が訪れる。
「なぁミトラ。お前さん、研究所を引き継ぐ気はないか?」
「は? 本気で言ってる? 僕は研究者としては未熟もいいところだよ。そんなのが所長とかとてもじゃないけど」
「あの研究所は割と皆好き勝手やってるから、所長が誰だろうと問題ないだろう」
「そんなわけない。叔父さんが研究者として有名だから、だから成り立ってる部分もあるよ。それなのに引き継いだのが僕じゃ、下手したら研究所無法地帯になっちゃうじゃん」
「そうだな」
「そうだな、じゃないよ……え、まさか無法地帯にしたいの?」
きょとんとした表情のままミトラは、しかし叔父の真意に気付き始めていた。
他の私設研究所がそれなりにテーマを決めてそれ専門の研究所である、という状態であるのに対し、フィンドールの研究所はそういうのがない。
つまりは、場合によっては国で最優先で研究しているものを、こちらも勝手に研究する事だってある。
表向き共存関係であるけれど、あの研究所にいる研究者たちの中には国を出し抜こうと考えている者もいるらしい。実力はあっても我が強く集団での行動に向いていないようなのばかりだ。国の研究に興味がないわけじゃない。ただ国立研究所でやっていくには向いていない、なんてのもそれなりにいた。
結果を出していても、ミトラから見て特に凄いとは思えなかった。
叔父がそうなった場合はやっぱり叔父さんは凄いな、と思えるだろうけれど、それ以外の研究者がその立場にいたとしてもミトラは尊敬はしなかったであろう。
何故ってそこに至るまでにそれなりに周囲と揉めるからである。
事件と言えるまでの規模にはならないが、それなりに周囲から恨みを買ってそうなのもいる。
それに最近、一部は調子に乗りすぎているようにも思っていた。
フィンドールが入院してたった数日の間に、この研究所は俺の物だとばかりに我が物顔をしている奴まで。
一応そういう相手の事も報告はしていた。いないうちに乗っ取ってやろう、とかやらかすんじゃないかと心配もした。
そもそも、叔父が入院した事を心配しているような奴はほとんどいなかった。勿論、表向きはお大事に、とか言う奴もいたけれど、目の上のたん瘤が消えたとばかりに裏でははしゃぐのだ。ミトラの存在感が薄い事でそれらを見られ、聞かれていたなどとは向こうは思ってもいないだろう。
「考えたんだけどなぁ……確かに研究は好きだ。一生やっても飽きないだろうよ。ただ、ずっと同じ場所に居続けるってのもどうかなって気が最近になって強くなってきてなぁ」
お前さんを引き取ったものの、思えばロクに出かける事もなかったしな。
そう言われてしまうと、何も言えない。
引き取られてから叔父と一緒に出掛けた所なんて、研究資材を買い付けに行くだとか、近場でのフィールドワーク程度。薬草を見分けるのだけは随分と上手になったものだ。
「研究関係なしにどっか行こうかって思い始めてな」
眩しそうに目を細めて窓の外を見る。窓の外から見える風景なんて何の変哲もない街並みだけれど、フィンドールは一体何に、何処に想いを馳せているのだろう。ミトラにはわからなかった。
「今までは好きに研究やってるって思ってたけど、心のどこかでそれを義務だと思い込んでたのもあるかもしれん。こうして長く休んでるとそう思えるようになってきてな。
とはいえ、長期休暇で研究所を留守にしたとして、あいつらがその間大人しくしてくれるかって言ったらしないだろ?」
「それどころか増長してるよ。もう少ししたら誰か研究費用とか横領するんじゃないかなって気がしてる」
「だろうな。以前はそうじゃなかったんだが、ここ最近増長して、うちの研究所は自由を掲げてるようなものだがその自由を履き違えてる連中が増えてきた。
あいつらを野放しにしておけばそのうち何か仕出かして、その責任を取らされるだろうし、それは正直お断りしたい。何がかなしゅうて自分で産んでもいないいい年した大人の尻拭いせにゃならんのだって話だからだ。
きちんとした奴の尻拭いならまだしも、あいつらはなぁ……今なら下手に逆恨みしてきそうだし」
フィンドールの言葉をミトラは否定できなかった。
あぁ、うん。多分やるよ。
むしろそう思ってしまったくらいだ。
自由に研究したいだけだったはずの叔父はしかし、その研究所のせいで自由を奪われかけている。自分の城とも言えるはずだった研究所。かつては同志と呼べたかもしれない研究者たち。けれども、年月は彼らを悪い方へ変えてしまったらしい。叔父がそれでも彼らと共に在るというのであればミトラだってそれに従った事だろう。けれども、叔父は彼らと離れる事でどうやら多少なりとも客観的に現状を把握したらしい。
そうだ。
表向き賞賛されて称えられてちやほやされていたように思えるけれど、実際あいつらはとっくに叔父の事なんて感謝も尊敬もしていない。口先だけで、叔父の研究所に我が物顔でのさばって叔父の金をも好き勝手使おうとしている。食糧庫に忍び込んだネズミよりも性質の悪い寄生虫のようなもの。
だからこそ、ミトラは叔父のために一計を案じたのである。
叔父の体調が思わしくないのだと、ミトラは研究所でそう零した。
今となっては好き勝手やらかしていた連中も、ミトラの沈痛な面持ちから繰り出された言葉の意味を理解できなかったわけじゃない。
もしフィンドールに何かあったら、この研究所はどうなってしまうのだろう。
そんな不安が確かによぎった。
その数日後、叔父が研究所を畳もうとしているとミトラはそっと零した。
我が世の春とばかりに好き勝手できた研究所がなくなってしまえば、彼らにとっても放っておける問題ではない。フィンドールに直訴しようと思った研究者もいたようだが、病院にはしっかりと金を払ってフィンドールの元にはミトラ以外面会させないようにしてある。
今更綺麗ごとを口にして人情に訴えるような物言いで研究所をどうにか続かせようとなど、させるはずもなかった。
面会謝絶であった事でフィンドールの体調が思わしくないというミトラの言葉は簡単に信用された。
そうしてさらに数日後、叔父から生前贈与として研究所を譲られたとミトラは言った。
これからミトラが所長となる。そうなれば研究所は存続する。
どうせ今まで好き勝手やってきた連中だ。今更上の首がすげ変わったくらいで文句など言わなければ良かったのに。
それでも彼らはミトラが新所長になる事に不安を漏らしたし不平を隠す事はしなかった。
それならいっそ自分が所長になった方が、なんて言い出す奴までいた程だ。
一体何を言っているのだろう。
この研究所は国の事業でもなく、また民間であっても会社とは異なる。あくまでもフィンドール個人の所有物件で、会社とは違うのだ。
研究に関する事であればある程度金が支給されたとはいえ、彼らはフィンドールの部下ではない。
自由に研究したい研究者たちのためフィンドールが手を差し伸べただけの場所。
成果が出ずともある程度の援助がされていた。
フィンドールが様々な成果を出し続けてきたからこそ、金に困っていなかったのもあってそんな慈善事業のような真似ができていたのだ。
文句があるならそれこそここを出て、自分で研究所を新たに建てるなりすればいい。
まさかそんな簡単な事すらわからなくなっているのだろうか。この研究所はあくまでもフィンドール個人の資産であり、彼らはそこを使わせてもらっているだけの立場だ。研究の成果で得た金銭を研究所に納めたりしていたならまだしも、手柄はまるっと独り占めしていたような連中がどうしてこの研究所を譲ってもらえると思えるのか。厚かましいにも程がある。
この時点でミトラは彼らの事を肥え太った蛆虫だとしか思えなくなってしまった。
こいつらはいずれ蛆虫から成虫となってブンブンと不快な騒音をまき散らすに違いない。
潰さなければ。
そう、強く確信した瞬間であった。もうちょっと殊勝な態度を見せていれば、そうは思わなかったし互いに歩み寄ろうという考えになったかもしれなかったが、あまりにも手遅れであった。
ともあれ新所長はミトラである。そう伝えれば彼らの不満はあからさますぎるものであった。
自分たちが新たな所長にでもなれば、この研究所もそこに存在する資金も何もかもを好きにできるとでも妄想しているのかもしれない。
とはいえ、ミトラにとっては好都合であった。
異議のある者はと問えば研究員たち全員が挙手した程だ。
それに対し、ミトラは「わかった」とだけこたえた。
別に誰かに所長の座を譲るだとか、そんな向こうにとって都合のいい事を言った事はない。
「嫌なら出ていってくれ」
ミトラの切り捨てるような言葉に困ったのは研究者たちだ。
ここを出たとしても、そうなれば自分たちの研究はどうなる。
研究するだけなら場所があればどうにかなるが、それ以外の資材や機材といった道具を用意する必要が出るしそうなれば金がいる。
ここを出ていくとなると、それらの問題が出てしまうわけで、そうなると研究が滞るのは目に見えていた。
だからこそ、表向きはミトラを新所長として研究所に残る事を決めたようだが、内心納得していないのなんて明らかだった。名ばかりの新所長。まだ幼いと言えなくもない若輩者。
研究に必要だから、と彼らは新たな機材などを申請したが、そこにかかる費用を水増しし始めた。多めに金をもらって、もしかしたらその金を持ってから別の場所へ行こうとでも考えたのかもしれない。けれども、ミトラがそう簡単に騙されるはずもなかった。
叔父と一緒に必要な物を買い付けにいったりしていたのだ。今更物の価値がわからないはずもない。明らかな水増し請求は容赦なく却下していった。
そうして更にミトラに対して不満を募らせる研究者たち。
ある意味で負のループである。
けれども、ミトラにとってはシナリオ通りだった。
このまま業を煮やした誰かがミトラを襲うような事になれば少しばかり困ったかもしれないが、基本は自分たちの研究のために引きこもってるインドア派の連中だ。やるにしてもみみっちぃ嫌がらせと時折ミトラにギリギリ聞こえるかどうかの陰口といったもので、ミトラからすれば鼻で嗤ってしまうくらいに程度の低いもの。
フィンドールの古くからの友人であるエルフィンドさんに話を通してフィンドール研究所の売却の話がまとまったのは、まさにこの頃であった。
どうせミトラの話などまともに聞きやしないだろうと思ったからこそミトラは重要なお知らせがあるのでそちらの掲示板を確認しておいてくださいと事実確認は彼らに丸投げした。
それは、研究所を引き渡す一月前の事だった。
だがしかし彼らはミトラの言葉など軽く扱い、何と恐ろしい事に誰一人としてその内容を確認していなかったようなのだ。ミトラは思った。馬鹿なの? と。
研究に関してはそれなりに成果を出せるし専門的な知識はずば抜けているはずなのに、それ以外はぽんこつとか駄目駄目の極み。人から社会性を失うとこうなるのか……と別の意味での恐怖を与えたけれど、そんな事にも彼らは気付きもしなかっただろう。
さて、そういうわけであっという間に一月が経過し――研究所を引き払う約束の日がやって来たわけだ。
そして冒頭に至る。
お知らせはしていたのだから、自分たちの身の振り方を考えるなり研究に関するあれこれを纏めるだけの時間はたっぷりあったはずだ。昨日今日の話ではない。一月前だ。数日休んでいて休み明けに出てきたらきまっていた、とかでもない。
文字が読めない相手に書面で知らせた、とかであれば問題はあっただろう。けれども彼らは曲がりなりにも優秀な研究者を名乗っているのだ。文字が読めないとか有り得ない。
「結局さ、頭脳がいくら優秀でも人間性がアレだと人として駄目って事だよね……」
「ふむ、彼らの研究成果を見る限りとても優秀だと思っていたし、話し合い次第では引き抜きも有り、と考えていたのだが……」
「やめといた方がいいですよ。大体他人の財産を無関係な赤の他人のくせにもらえると思いこむような馬鹿ですもん。いっくらお勉強ができても常識がなきゃねぇ……
何かそのうち怪しげな宗教とかに勧誘されて騙されてるの知らないで嬉々としてヤバイ武器とか製造させられた挙句聖戦だとかいって争いを引き起こして、最終的に捕まった時に何もかもの悪事の元凶として責任を押し付けられて始末されそうな感じしますもん。
そんなの引き入れたって上手く利用するより敵に利用されてこっちの内側荒らされるだけですよ」
ミトラの言葉は淡々としすぎていて、思わずエルフィンドも口元を引きつらせた。
いやうん、何も知らない馬鹿であれば完全に責任を押し付けられたんだな、とわかるだろうけれど中途半端に賢く優秀であれば何もかもを押し付けられた、とは思われないだろう。むしろ下手な言い逃れをしているように周囲は思うだろうし。
目の前で次々に運び出されていく物をどうにか止めようとして奮闘している研究者たちを、ミトラは大変冷めた眼差しでもって眺めていた。
――実際のところ。
ミトラはフィンドールの雑用係として近くにいたけれど、その程度しかできないお子様ではなかった。
フィンドールは研究者として優秀すぎたし、その背を見て育ったミトラだって優秀に育っていたのだ。ただ、フィンドールとは優秀の方向性が異なっただけで。
研究のためなら多少の事は大雑把な部分もあったフィンドールだが、しかし身の回りの事をミトラがするようになってからは、研究所内の勘定も大分きっちりするようになってきたのだ。だからこそ気付いた。
彼ら研究者が研究費用と銘打って余分に金を横領していたことも。
とはいえ、生活のためであれば多少の目こぼしはしていたのだ。主にフィンドールが。
けれど、彼らはフィンドールに感謝どころかいつの間にやらそんな気持ちも忘れ、都合のいい財布扱いをしていたのだ。
自分にとってもうたった一人の家族。そんな軽い扱いを受けてミトラがそれを良しとするはずもない。
大人のような狡猾さを知らず育てていたミトラは、しかしそれを悟られないようお子様特有の無邪気さを装って彼らに終焉を与えたのだ。
適当におだててミトラを新所長として扱い、資産を吸い出すなんて考えもあっただろう。けれどもそれは上手くいかなかった。彼らの人間性ゆえに。次にミトラに対しての扱いを粗雑にし、居心地を悪くして追い出そうと試みた。仮にミトラが出て行ったとしても、その場合だってサクッと自分の所有物となった研究所を売却してしまえば結果は同じだっただろう。
「なぁミトラ君。きみやっぱりうちの研究所に来ないか?」
「お断りします。立地がとてもいい好物件の研究所をお手頃価格で手に入れられたんだからそれで満足して下さいよ。
僕はね、これから叔父さんと快気祝いの旅行に行くんです。各地で色んな物を見て、美味しい物食べて。そうして英気を養ったら叔父さんのしたいことを手伝うんです。
僕を勧誘したいなら叔父さんを通して下さい」
「手強いな」
はは、と笑う。
ちなみにエルフィンドはかつてフィンドールを国立研究所に勧誘したけれどあっさりお断りされている。勧誘が成功すればフィンドールともどもミトラも来るとわかっているが、その成功率を考えると早々に諦めた方がよさそうだ。
「それじゃ僕、叔父さんを迎えに行くんであとよろしくお願いしまーす」
きゃるん、という効果音でも出てきそうな可愛らしい笑みを浮かべてミトラはたっと軽快に駆けだした。
どう足掻いても止める事ができそうになくて失意のどん底とばかりに落ち込んで、自棄を起こして連行される研究者も、泣き崩れてしまった研究者も、途方に暮れて立ち尽くしている研究者も、全て全て、ミトラにとってはもうどうでもいいものだった。
こいつらどうにかしないといけないのかぁ……とエルフィンドは思ったが、今はともかくそのうち気力が回復したらいらぬ逆恨みを抱きそうだし、他ならぬ友人のためだ。
うっかり溜息が漏れたけれど、遠ざかっていくミトラの背を見送るエルフィンドの眼差しはそれなりに温かいものだった。