山嵐たちのジレンマ(3)
「リジー? いや、でも、まさか・・・・・・。」
困惑の色を露わにして、ギルバートはよろよろと立ち上がる。そして、白昼夢でも見ているような顔付きのままで、部屋の奥にある書斎机から豪奢な応接セットの近くまでやってくると、マジマジとエリザベスのことを見た。
それもそのはず、遠くマナーハウスにいるはずの婚約者が、ウィッグをつけているとはいえ、屋敷のメイドの服を着て、目の前に立っているなんて事、即座には受け入れられないのだろう。
「他人の空似、ではないよね・・・・・・?」
目元に手を宛てがい、疲れ目のせいにしようとするギルバートの前で「間違いではないわ」と言うと、ヘッドキャップとウィッグを剥ぎ取る。
「お帰りが待ち遠しくて。あなたの予定も考えずに、会いに来てしまったの。」
顔をひと目見られれば、声をひと声聞ければ、それだけで満足だと思っていたのに、心は今すぐ彼の胸に飛び込み、抱き付きたいと思っている。それでも、エリザベスがそれをせずに留まったのは、またギルバートに拒絶されるのが怖かったからだ。
『リジー、別に無理に『ギル』って呼ばなくていいよ。』
また、そう言われてしまったら――。
きっと自分は死んでしまいたいくらいに辛くなる。けれど、今、言わなくてはこの溝は取り返しがつかない所まで大きくなってしまう。
エリザベスは唇を一度きつく噛み締めた後、意を決して「ギル」と呼び掛けた。
「・・・・・・あなたを思って刺繍したの。」
感情が上手くコントロール出来なくて、声が震えてくる。鼻の奥がツーンと痛い。それにツキンツキンと胸が針にでも刺されているかのように痛むほど、切ない心地になる。
刺繍入りのハンカチを受け取って貰えたなら、自分の心は他の誰でもなく、目の前にいるあなたにあるのだと伝えよう。そして、虫の良い話だけれど、契約のことなど忘れて、私を受け入れて貰いたいとお願いしてみよう。
しかし、その思いは言葉になる前に、すぐ目の前に立ったギルバートの影によって遮られた。
◇
ウィッグを被るためだろう、ストロベリーピンクのいつもの髪は、三つ編みにされてまとめあげられている。少し俯き、伏し目がちなエリザベスは言いにくそうに、自分を「ギル」と呼ぶと、やや間を置いて「あなたを思って刺繍したの」とハンカチを差し出してきた。
目に入ってきたのは、複雑な図案にもかかわらず綺麗に刺繍された公爵家の家紋。しかも、それを自分のために刺繍してくれたのだと知ると、今まで他の誰に貰ったプレゼントよりも嬉しくて、胸の奥がじんわりと温かくなるような心地になった。
ああ、溢れ出てくるこの感情をなんて呼べばいいのだろう。
感情に従って彼女の前に進み出ると、気が付けば目の前の彼女が夢や幻で無いことを確かめるようにして両肩を掴む。
それなのに、エリザベスは少し当惑したような表情をしただけで、強く自分を拒絶する気配がなかったから、ギルバートは膨れきった愛しさのままに彼女の手首を取り、自分のもとへと引き寄せると、そのまま、その頭を自分の胸元に押し当てるようにして抱き寄せていた。
華奢な肩、線の細い首筋。
普段は下ろしている髪を纏めあげた事で露わになった彼女の項の辺りからは、香水だろうか、甘やかな香りが鼻腔を擽ってくる。
キスをしたい――。
いや、それだけじゃ足らない。手に入れるなら徹底的に、彼女の頭の天辺から足の爪先まで、全てを味わい尽くしたい。いっそ、すぐ傍のソファーに彼女を沈め、覆いかぶさり事に及んでしまおうかとさえ思えてくる。
けれど、あのコックス子爵家のいけ好かない男の顔を思い返すと、ギルバートは何とか理性をフル動員して、溢れ出てくる感情を押しとどめた。
彼女の望んでいる場所は、『安寧と平穏の象徴』となっている、あの矢車草咲き乱れる子爵邸であり、その次期当主と目されている『ノア』の傍だ。
今はたまたま王太子殿下の横槍で足を踏み外してしまって、自分との婚約という命綱に捕まっているだけで、きちんと彼のところに戻れる算段を付けてやれば、彼女は自分の手から離れていくだろう。
ギルバートはそれゆえ、今、口を開いてしまえば、自分でも聞きたくないような酷いことまで口にしてしまいそうな心地になった。
一体、どのタイミングから、自分はこんなにも彼女に溺れてしまったんだろう。
イザベラのお茶会帰りの馬車では確かに彼女を妻に迎えるのは悪くないとは思ったものの、まだ心にも余裕があった。
それに、タウンハウスに連れて逃げた時だって、「このままにはしておけない」と義憤に駆られての行動だったし、サラの時だって、フィリップの時だって、彼女の言動にハラハラとはしたものの、こんな風に彼女を欲するほど切羽詰まってはなかった。
急に抱き寄せられて、でも、そのまま固まり、重々しくため息を吐いたギルバートの様子に、エリザベスは不安そうな顔をしている。ギルバートは意を決すると「ありがとう」と答えた。
「ただ、君には本当にいつも驚かされる。ここへはどうやって来たんだい?」
「アンとサムに協力して貰ったの。あと、たぶんロバートも・・・・・・。」
「ロバートは単に君が来たと伝えない方が面白いと踏んだだけな気もするけど、そうか、ロバートまで君の味方か・・・・・・。」
そして、「本音を言えばね、驚き過ぎて、心臓が止まるかと思ったよ」とおどけるようにして答える。
エリザベスは目を細めてくすりと笑った。
「心臓は大丈夫?」
「ああ、今は煩いくらいに『仕事してる』って主張している。」
エリザベスが笑う。ギルバートはそんな些細なことが嬉しくて、幸せな心地になった。
「刺繍、よく出来ているね。姉さんなら途中で『もうヤダ』って言って、僕に押し付けてきそうなものなのに。」
「ギルが刺繍するの?」
「いや、流石に無理だな。似たように細かい図案を刺していた時は、母さんが仕上げのところを教えていたよ。」
今はノアの事は忘れよう。こうしてエリザベスが近くにいてくれるだけで幸せなのだから。
しかし、ギルバートの葛藤が解けて来ると、今度はエリザベスが緊張交じりの声で「あのね、ギル」と囁いた。
「ん?」
「・・・・・・私、あなたに伝えたい事があって、ここまで来たの。」
その声は尻すぼみに小さくなって、微かに震え始める。
「伝えたい事?」
「ええ。」
やはり、ノアのことだろうか。
そう思ったら抱き寄せる手の力が自然と強くなり、覚悟を決めたようなエリザベスの視線に身体が凍りついていく。
だけど――。
彼女が何かを決断したならば、今度こそ、自分はきちんと聞かなくてはなるまい。
「・・・・・・分かった、話は何? 席に座って聞いた方が良いかい?」
しかし、エリザベスは首を横に振り、それからその嫋やかな腕をギルバートの背に回し、抱き着くようにして「どうかこのまま聞いて」と呟いた。
「ギル、私が好きなのは『あなた』なの。」
そして、自分を抱き締める力が強くなったかと思うと「これだけは疑わないで」と小さな声で囁かれる。
「・・・・・・たとえ、私との婚約があなたにとって『王命』で、従わなければならない義務だとしても。」
緊張からか、絞り出すようにして話す声は震えていて、彼女が精一杯に話してくれているのだと分かる。ギルバートは頭を鈍器で殴られたような衝撃に言葉を失っていた。
「コックス子爵のお邸に行って分かったの。私は彼らとは家族にはなれない。だって、もう、何を見ても、ギル、あなたを思い出してしまうんだもの・・・・・・。」
(リジーはこの婚約が「王命」だと知っていた? いや、それよりも何を見ても自分を思い出すだって?)
だんだん言葉の意味が分かってくると、今度は一気に顔が熱くなる。
ステファニーが「ギルは照れると耳が赤くなる」とからかってきたけれど、きっと今は過去一番に耳が赤くなっている自覚がある。
再び自分を見上げてきたエリザベスは、相変わらず不安げながら、熱っぽい視線で見上げてくるから、さっきまでとは違って完全に理性がどこか遠くに吹っ飛んでしまった。
眉間にギュッと皺を寄せる。
そして、やや性急に「君のせいだ」と呟くと、抱き寄せていた手の位置を腰の方へと滑らせて、さらに引き寄せる。
「ギル?」
状況を飲み込めず狼狽しているエリザベスの少し開いた口を唇で塞ぐ。
そして、思う。
思い知ればいい、と――。
恋に惑い、嫉妬深く、愚かで情けない自分を。
◇
「・・・・・・やはり、出てきませんねえ。」
本日一番の機転の利いた男、ロバートは、エリザベスが中に入ると、合鍵を使ってギルバートの執務室の外鍵をこっそりとかけた。
そして、そのままアンに「この部屋には仮眠室が続きの間としてございます」と話して、「十分ほど待って出てこないようなら、また明日の朝いらした方が建設的かも知れませんよ?」と話していた。
アンは重く息を吐くと「こうしてここまで来る事にしたのです、覚悟はしております」と話しつつ、「ですが、それゆえ事が露見して、更なる噂の種になるような事は避けねばなりませんね」と話した。
「お嬢様は『白百合姫の恋物語』のヒロインとして見なされています。また、ギルバート様はそんな彼女を見出した貴公子。その二人がスキャンダルの種となるのは、誰にとっても良くないことでしょう?」
王宮の壁の防音性を疑う訳では無いが、壁に耳あり、障子に目あり。社交界一の出世頭の一人が仕事場で業務中に、メイド服姿のエリザベスと逢い引きしていたなどと噂になったら困るのだ。
「今のエリザベス様はレベッカとして王城にいますからね。身分詐称に公文書偽造に不法侵入。それだけでも痛いのに、ギルバート様が理性を無くしたら、まずいですね。」
「ええ、公爵家からはメイドが二人来ている事は門番のところで知られています。ならば出ていくのは二人でなくては。」
「・・・・・・なるほど。ならば、そこは私が手を打ちましょう。今日、来たのは確かにメイドが二人。しかし、一人は私の指示で別の門から出した事にします。」
「別の門?」
「ええ、行政部は表門を使わないで、少しばかり特殊な方法で王城を出るルートを確保しております。ともあれ、そちらの門から出した事にすれば納得します。」
そして、渋るアンを城門前まで送り、待ちくたびれていたサムを手招くと、閉門準備をしている門番のいる前で「レベッカはギルバート様より別の用事を任されて遅くなりそうだ。ミセススミスと先に邸に戻るように」と続ける。
「行政部エリントン卿の従者をしている者だが、彼女と共に入ったメイドは遅れる。私が責任を持って別口より外に出すので、退出済みにしておいてくれると助かる。」
そう言って身分証を出して、門番の男が「たしかに承りました」と、一覧表に何やら書き付けているのを確認して、アンは「では、よろしくお願いいたしますね」とサムを連れ立って去っていった。
ロバートは二人が帰っていくのを見送ると、「はあ」とため息を吐いた。
今日は自分も当直確定だ。
しかも、代行しなきゃならない仕事が山のようになるのも確実。
(ギルバート様には、お給料アップ交渉するかな・・・・・・。)
ロバートは仮眠室に運ぶくらいまでは、ギルバートの理性が保たれている事を願っていた。




