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恋は人を臆病にする(4)

 さわさわと白樺の梢の揺れる音がする。日に透けた小さな丸い葉は黄緑色に輝き、ゆらゆらと揺れている。


「じゃあ、僕は貸馬屋と交渉してくるよ。」

「ええ。分かったわ。」


 建物に向かっていくギルバートを見送りながら、湖畔からの風に目を細めた。


 静かだ――。


 聞こえるのは梢の揺れる音と、僅かに鳥の囀りだけ。こんな風に一人っきりでいることは、本当に久しぶりでいつになく心地良い。このところ気が休まる暇もなかったから、こうした何も考えなくていい「空っぽ」な時間が心地いいのだろう。


(ああ、ここにずっと居られたらいいのに・・・・・・。)


 キャロル主催のお茶会だと言うのに、エリザベスはいつになく行く気になれなくて、ギリギリまで出席の返答をするのを引き伸ばしてしまった。

 行けば「姉がわりだと思って」といつも優しくしてくれていたキャロルや、誰に言われずとも婚約者候補と目されていたノアと顔を合わせなくてはならない。

 それが憂鬱でならない。


(一体、どんな顔をして会えばいいんだろう・・・・・・?)


 グレイ侯爵の事を相談した時には、よもやこんな風になるとは思っていなくって、一度お見合いをし終えたら、それでカタが付くと思っていたのに。

 けれども、実際は色んな暗躍蠢く婚約で、自分の身の安全が薄氷の上にあると知ってしまったら、とてもじゃないけどコックス子爵家の面々を巻き込む気にもなれず、ギルバートの愛情に甘えて、ここまでズルズルときてしまった。


(きっとキャロルやノアは『気にするな』って言うんだろうな・・・・・・。)


 何ならノアは「俺の足を踏んづけたじゃじゃ馬なのに、嫁の貰い手があって、良かったな」ぐらいのことは言ってのけそうだ。


「はあ・・・・・・。」


 エリザベスが目を瞑り、重いため息をひとつ吐けば、不意に横から「あら、リジー、ため息なんか吐いちゃダメよ!」と快活な声が聞こえてきた。少し離れて、サムが「はあ、はあ」と息を切らせて坂を登ってくる。


「どうしたの? もしかしてマリッジブルー?」

「マリッジブルー、ですか?」

「そう、結婚が急に嫌になっちゃう症状のこと。何か不安事?」

「あ、いや、そう言うんじゃなくて。ちょっとコックス子爵邸に行くのが気が重くなっちゃって・・・・・・。」


 そう口にして「ほら、今日はノアも来るから」と口篭る。


「ああ、デビュタントはノアと踊ったんだものね。」

「ええ、それでちょっと気まずいなって思って。」


 コックス子爵の令息のノアは、見た目はキャロラインと同じゴールドアッシュの髪に、ヘーゼル色の瞳と、比較的、目立つ顔立ちの癖に、しょっちゅう寝癖をつけていたり、着てるものもどこか野暮ったい色合いのものが多いからモテる口ではない。けれど、幼なじみの気安さを差し引いても、面倒見はよく、根は優しい性格をしている。


「私にとってノアは『お兄さん』みたいな人なんです。」

「お兄さん?」

「ええ、憎まれ口も叩かれるし、しょっちゅう叱ってくるけど、それは心配性の裏返しだから。」

「なるほど、ノアのこと、好きなのね。」

「そうですね、キャロルと同じくらいには好きです。それに大切。」


 自分が幼なじみのノアに嫁いで、コックス子爵夫人になれば、キャロルと三人、穏やかな日々が続くのではと夢見た日ももちろんある。だけど、ギルバートに会って、毎日を過ごす中で「ああ、あれは『憧れ』だったんだ」と気が付かされた。


「この気持ちは『恋』じゃないっていうのも分かっているんです。だって、ノアを思う気持ちは、キャロルをお姉さんみたいに思う気持ちと同じだもの。一緒にいて落ち着くし、楽だけど、それ以上にはなれないと思うから。」


 ステファニーは「じゃあ、ギルは?」と訊ねてくる。エリザベスはツキンと刺し込むような胸の痛みを覚えながらも、わずかに微笑んだ。


「『一番、幸せになって欲しい』人ですね。」

「一番、幸せになって欲しい人?」


 エリザベスはこくりと頷き、遠くにキラキラと光る湖畔を指差す。


「ギルはあの湖畔の煌めきのような方だから・・・・・・。」

 

 誰よりも愛しく、誰よりもそばにいてほしいと願うけれど、みすぼらしい器で掬ったら、きっとあの湖畔の煌めきは消えてしまうに違いない。


 手に入れたいと望むのも烏滸(おこ)がましい――。


 エリザベスの謎掛けにステファニーは首を傾げる。


 と、厩舎から馬の嘶きが聞こえきて、離れて様子を見ていたサムがすっ飛んでいく。それと入れ違いに、建物の中から出てきたギルバートがこちらに近付きいてきていた。


「姉さん、リジー、そろそろ出発の時間だ。」


 少し離れたところから手招くギルバートの様子に、ステファニーはそれ以上を訊ねるのは止めて「また後で教えてね」と言って馬車の方へと向かう。

 エリザベスはそのお願いに曖昧に微笑むだけだった。


 ◇


 三人がコックス子爵の邸に着いたのは、ちょうど昼下がりだった。馬を借りた厩舎からコックス子爵邸は三十分ほどで着き、ノアとキャロラインに出迎えられる。


 いつものようにハグをし、女性同士は親愛の意味も込めて挨拶のキスを交わす。


「やあ、リジー。噂はかねがね。」


 ギルバートと握手での挨拶を終えたノアに声掛けられて、少し気まずさを覚えながらも「あら、ノアと会うのはいつぶりだったかしら?」と惚けてみせる。


「そうだなあ、足を踏まれて以来かなあ? リジーは婚約者殿の足は踏んでないのかい?」

「・・・・・・お生憎様、私、蝶のように舞うダンスの名手なのよ?」

「蜂のようにピンヒールの踵で刺すの間違いだと思うけど?」

「・・・・・・もうッ! ノアったらッ!」


 いつものような軽口に少し安心しながら、揶揄(からか)わないでとむくれていると、ギルバートに「リジー、積もる話があるんだろうけど、ここで立ち話もなんだから向こうに移動してからにしたら?」と手を取られた。


「そうよ、ノア。久しぶりだからって、リジーを揶揄ってないで、今日はステファニー様をエスコートしてって話したでしょう?」


 口を尖らせてキャロルが文句を言えば、「ああ、そうだった」とギルバートに会釈して、ステファニーの元にエスコートをしに向かう。


「未来の王太子妃殿下。今日はエスコート役をさせて頂いても?」

「あら? まだそうと確定したわけじゃなくてよ? 口説いては下さらないの?」

「僕がですか? そんな恐れ多い。」


 この辺りの応酬はいつもの事なのだろう、ふふふっとステファニーは笑いながら、「そのままだと独身貴族が板に付いちゃうわよ?」と軽口を叩く。


「では、リジーに逃げられて可哀想な私に、良縁をご紹介下さいませんか? 麗しいキューピッド様。」

「それは今日の働きによるわね?」


 ステファニーはノアの手を取り、キャロルの先導にくっついて前を進み始める。ギルバートはそのやり取りを見ながら、ちらりとエリザベスを見ると、「僕達も行こうか?」と話した。


 後に続いてお茶会会場に向かうと、途中、様々な草花に出迎えられる。


 ポピー、矢車草、金魚草。


 木道が整備され、足元が汚れにくいようになっているものの、辺りは野の花で溢れている。


 ああ、ホッとする――。


 このコックス子爵邸の庭は、ウィンザー伯爵家のバラ園のような仰々しさはなく、植わっているものも野の花が中心のメドウガーデン仕立ての庭で、可愛らしい草花が色々と咲いている。


 この手の庭は少しでも手を抜けば、酷く荒れた庭に見えかねないものの、コックス子爵夫人がガーデニングに明るい方で、まめに手を入れているからか、いつ来てもこうして可愛らしい草花が出迎えてくれる。


「リジー、キョロキョロしていると足を踏み外すよ?」

「そうですね、気をつけます。ノアにもよく叱られるんですよ。ぼんやり歩いて足を踏まないでって。」


 そう言いながらも、まだどこか気もそぞろなエリザベスの様子にギルバートの歩みがゆっくりになる。


「それは僕も気をつけなくちゃな。リジーは、こういう庭が好きなの?」

「ええ、そうですね。この庭、いつ来ても色々な野の花が咲き乱れるんです。特に今の季節は矢車草が綺麗で。私、あの花が好きなんです。」


 青や紫、白などの花を咲かせる矢車草は、摘んで束ねると涼し気な花束が出来る。それに遠い異国で若き王が亡くなった際に、王妃から手向けられた花だと知ってから、より好きになったのだと話した。


「だから、よくこの時期はこの庭から矢車草を頂いて自室に飾っていたの。」

「そうか、コックス子爵家とも家族ぐるみの付き合いだって言っていたね。」

「ええ。まだ幼少のみぎりから付き合いだわ。」


 気が緩んで口調が崩れていることも気が付かずにエリザベスは懐かしそうにする。と、反比例するようにギルバートのエスコートしてくれていた手の力が強まり、「でも、もうノアからは貰ってはダメだよ」と釘を刺された。


 エリザベスが首を傾げると、ギルバートは「矢車草の別名は独身者の証(バチェラーズ・ボタン)だからね」と話す。


独身者の証(バチェラーズ・ボタン)ですか?」

「そう、矢車草をポケットチーフの所に挿しているのは『婚活中の男性』の証。矢車草を渡すのは『僕と今夜、付き合ってみない?』って言ってるのも同じことだから。」

「そうなんですね、存じませんでした。ああ、でも、ノアにそんな度胸があるのかなあ?」


 そう言ってへらっと笑えば、ギルバートは手を繋いだまま、不意に立ち止まる。エリザベスは急に止まられて、少しつんのめる様にして歩みを止めた。


「・・・・・・ねえ、リジー。リジーはノアと結婚したかったの?」


 いつになく小さな声でポツリと零すギルバートの声に驚いて、少し目線の高いギルバートを見上げる。


「ギルバート様?」


 不思議に思って訊ねれば、ますます傷付いたような顔になる。


「僕は『様』付けのままなのに、コックス子爵の令息はファーストネームを呼び捨てで呼ぶんだね。」

「え・・・・・・?」


 ぎゅうっと握られた手は、少し痛いくらいで、自分に対して不機嫌を露わにしたギルバートの様子に戸惑ってしまう。

 エリザベスはギルバートの手を両手で握り返すと、ステファニーにしたようにして「ノアは私にとってお兄さんのようなものなの」と弁明した。


「私が、二つ、三つの時からの付き合いで。言うならば、王太子殿下にとってのあなたやランスロット卿のようなものなんです。だから・・・・・・。」


 しかし、ギルバートはムッとしたまま、微動だにせず、機嫌をすぐに直しそうにない。


「でも、僕との事がなければ、君は彼と婚約し、結婚し、この庭の主として過ごせただろう? そう夢見たことは一度もないの?」

「一度もないと言えば嘘になるかも。・・・・・・でも、それはごく小さな子が『お父さんやお兄さんと結婚するッ!』と言うようなものだったし、母と死に別れてからは家族の愛に飢えていた状態だったから、この家に居られたらいいと思ってた時期も確かにあるわ。」


 ノアは優しいから、ああやって軽口を叩いてエリザベスの気持ちが昔のように沈んでしまわないように構ってくれる。けれど、エリザベスは彼が本当に恋しているのは別の子だってことも知っていた。


「私にとってノアとキャロルはかけがえのない二人なの。と、言うより、このコックス子爵家自体が、私にとってのシェルターなのよ。」

「シェルター?」

「ええ、本当に()()()()()()()()()の。」


 寂しい時、悲しい時、苦しい時、辛い時――。

 お祖父様やアン達にも話せずに、内側に溜め込んだ弱音をいつだって根気よく聞き出してくれたのはノアとキャロルだった。


「・・・・・・母が亡くなった頃、祖父も具合を悪くしたって話したでしょう? あの時は本当に参ってしまって、私、ハミルトン伯爵の養女になる申し出を受けようとさえ思っていたの。」


 けれど、その気持ちを吐露した手紙を読んだキャロルが、文字通り早馬を使ってまですっ飛んで来てくれて、ノアと共に色々と助けてくれたのだ。


「あの時、祖父の病状を書き付けたメモを握りしめて、国中、ほうぼう走り回って薬を買ってきてくれたのがノアだったんです。あと少し、薬を飲ませるのが遅かったら、お祖父様も亡くなり、伯父夫婦もあんなだったから、私は一人取り残される所だった。」


 今、思い出しても、震えてきてしまう怖い思い出。母の死に目には会えず、祖父の看病にも近付けさせて貰えない。ただ、ひたすら邸の離れで喪服を身につけ、部屋に籠る日々。

 コックス子爵の二人に依存し過ぎだと伯父夫婦にコックス子爵邸に行くことを制限されても、ノアもキャロルも全力でエリザベスを支え続けてくれたのだ。


「彼らの家族になれたなら、それはとても幸せだったかもしれないけれど――。」


 エリザベスはツキン、ツキンと痛む胸を押さえ、辛そうな表情になる。

 しかし、ギルバートもまた酷く辛そうな表情で干上がった喉で絞り出すようにして、「それを奪ったのは、グレイ侯爵とのお見合いのせいか?」と訊ねてくる。エリザベスは僅かに首を横に振った。


(ううん、違う。これは私の気持ちの問題。)


 そう言葉を続けようと思うのに、胸が詰まって声が出ず、俯き、ギルバートの手を握る手に力が入る。

 一方、ギルバートの手からはすっと力が抜けた。


「じゃあ、僕との婚約のせい、だね?」


 違う――。


 弾かれたようにして見たギルバートの表情は酷く辛そうで、エリザベスも言葉を飲み込む。その様子にギルバートはますます悲しそうな表情になると、「リジー、悪かった」と話した。


「・・・・・・君にとって、あの二人のことや、ここがどれほど大切なのか、よく分かったよ。だから、もう、この事は詮索しないし、訊ねない。」


 そして「大丈夫だ」と囁き、「エルガー公爵家としては、君を政治の道具にされないように護りたいだけだ」と話す。


「婚約請願書にサインした後だからって、別に遣り様はいくらでもあるんだ。君を気に入っている母さんやステフは多少文句を言うかもしれないけれど、僕は君の気持ちを尊重する。」


 エリザベスが驚いて、ギルバートを見上げる。しかし、その表情はフィリップと交渉した時のようで、何も読み取れない。


「・・・・・・違う、()()、そうじゃない。」


 これは自分の気持ちのせい――。

 このまま心を許して、何もかもギルバートに預けてしまったら、彼の心が他の女性に移った時に、きっと自分はきっと耐えられないだけで。


「リジー、別に無理に『ギル』って呼ばなくていいよ。」


 淡々と話すギルバートの様子に、何か取り返しの付かない事をしてしまったような恐ろしさが背中を伝って這い上がってくる。


「・・・・・・おーい、二人ともそんな所で何をしてるんだ? キャロルとステファニー嬢が待ちかねてるぞ?」


 エリザベスの気持ちとは相反するように、ノアの暢気な声が聞こえてくると、ギルバートはエリザベスが掴んでいるのと反対の手を挙げた。


「ちょうど良かった。すまないが、リジーも連れてってやってくれないか? 馬車に忘れ物をしてきてしまって。」


 そう言って「ノアと先に行けばいい」と囁くギルバートの様子に、エリザベスはその手を握るのを止めた。

 ギルバートはもう手を握り返してくれない。

 するりと解けた手がどうしようもなく悲しい。


()()()()()、行くんだ。」


 そう言って、踵を返したギルバートの背を目で追う。息が詰まって苦しくなって堪らなくなる。

 だんだんギルバートの背が遠くなる。


 嫌だ、行ってしまわないで――。


 今、手を離されたら迷子になってしまう。


 ねえ、ギル、お願いだから待って――。


 声なき声は頭の中を駆け巡り、ほんの一瞬だけ呼応するようにギルバートが振り返った気がしたものの、だんだんと視界が狭くなり、ふっと明かりが消えたように周りの景色が暗くなった。

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