恋は人を臆病にする(1)
朝、アンに起こされて、湯浴みをして、髪を結ってもらって。そんな日常に戻ったのだと思うと、嬉しいような怖いような複雑な気持ちになってエリザベスは顔を顰めた。
「あら、お嬢様、髪が引っ掛かりましたか?」
「いいえ、そうではないの。ただ、アンにこうして髪を結ってもらっているのが、まだ何だか夢を見ている心地がしてしまって・・・・・・。」
「まあ、昨日は怒涛の如しでしたものね。」
アンがそう言って労うのも道理で、ギルバートが報告書を送ったと話した翌日、エルガー公爵自身からの指示でエリントン子爵領のマナーハウスへ移動するようにと返事がきたのだ。
『まさか父さんが動くとは思わなかったし、このシーズンの真っ只中にマナーハウスに引っ込めと言われるとは思わなかったんだけどなあ。』
そう言ってぼやくギルバートにエスコートされて乗り込んだ馬車は、公爵家御用達のものだったからそうお尻は痛くなかったものの、ほぼグニシアを横断するような距離を移動したから、馬車を降りても暫くの間、まだ馬車に乗っているような感覚に陥るほどだった。
(しかも、玄関前に全員集合なんだもの・・・・・・。)
かつてスペンサーの邸にいた使用人たちの、さらに倍近い人がエリントン子爵邸雇われており、主であるギルバートの出迎えに出ていたから、エリザベスは酷く気を使ったのだ。
「あの時、アンが出迎えに出て来てくれていなかったら、私、今頃、まだ馬車の中に立て籠っていたと思うわ。」
「嫌ですよぉ、お嬢様ったら。」
アンはそう言ってカラカラと笑ったものの、エリザベスにとって、この邸は完全なるアウェイで、唯一見知った顔がアンだったのだから、昨日のエリザベスは筆頭執事を兼ねているハロルドとの挨拶を軽い会釈で済ませると、甘えるようにしてアンの胸に飛び込んでしまった。
『お嬢様、ご無事で何よりでございます。』
ギルバートが気を利かせて「ミセススミスは彼女の乳母なんだ。今夜の彼女のお世話はミセススミスに任せて欲しい」と指示を出す。
『ですが、ギルバート坊っちゃま、お部屋はご一緒でなくてよろしいので?』
『ああ、今日は彼女の休養の方を優先したい。今晩はサンドイッチか何か少しつまめるものを部屋に届けてあげて。』
『承知致しました。』
いったんアンの元から離れて、ギルバートに挨拶をしようとすると、膝を曲げて挨拶する前に捕まり、「いい夢を」とそっとこめかみに口付けられる。
あれには確かに、出迎えてくれた使用人一同がざわついていた。
「昨日、若い子たちはギルバート様の激甘変貌ぶりに一晩中『キャーキャー』騒いでおりましたのよ? ねえ、レベッカ。」
エリザベスが鏡越しに後ろを見ると、同い年くらいのメイドが控えていて「レベッカと申します」と答えてお辞儀をした。とても礼儀正しく素直そうな子だ。
「お嬢様付きのメイドとしてお気兼ねなくお命じください。」
そして、エリザベスが頷き、続きを促せば、レベッカは昨夜、メイド仲間で盛り上がった話について、髪を結い、ドレスを着替えている合間に教えてくれた。
◇
ハウスメイド達の夜は遅い。
しかし、仕えている若旦那様こと、公爵家の末の子で「月光の貴公子」としても名高いギルバートが、このマナーハウスに「白百合姫」だとか「魔性の女」だとか噂されている婚約者を連れて帰ってくると聞かされて、今日は一日中、浮き足立っている状態で、真夜中にも関わらずメイドたちの部屋の中は騒がしかった。
「レベッカはエリザベス様付きに昇格ですって? いいなあ。」
「あら? でも、あのお嬢様、性格がキツイって噂だったじゃない? レベッカ、虐められるんじゃない?」
「『白百合姫の恋物語』読んでないの? 心優しいのに悪評立てられているのよ。噂は当てにならないわ。」
三人の女で「姦しい」とはよく言ったもので、みんな朝から働き詰めで疲れているだろうに同室のハウスメイド達は『白百合姫の恋物語』の愛読者らしく、しまいには話を振っていたのもすっかり忘れて、お話の中の『白百合姫の恋物語』の話を夢中で話し始める。
話の骨格は至ってシンプルで『シンデレラ』だ。
虐められてた継子のエラが、継母と継姉からの様々な嫌がらせからを受けていたが、ひょんなことから上流の娘のお茶会に呼ばれて、断りきれなかった事がきっかけで、お忍びで参加していた公爵子息に見初められ、愛を深めていくお話だ。
「普段のギルバート様の様子からだと、お話を読んでも『嘘だぁ』と思って、全然、信用してなかったんだけど。さっきのあれ、見た?!」
「見たわよ! にわかには信じられなかったわよ、あれは詐欺レベルよね。あ、じゃあ、月夜のダンスシーンでのやり取り、あれもフィクションじゃないのかも。」
「だとしたら、情熱的! 駆け落ちをした公爵子息と男爵令嬢が二人で身をやつして街におりて仮初に安物の婚約指輪を取り交わすシーンや、『愛は簡単には破れない』って両親を説得するシーンなんかも、本当にあったことなのかしら。」
「うわあ、明日、ギルバート様付きのフットマンに探らせようっと。」
ケラケラと笑う同室の子達の話はまだ続きそうだったが、レベッカはウトウトとする。
ウェイティングメイドに五年目にして昇格と言われても、エリザベスは乳母のアンのようには自分を信用するまい。
そんな事を思いながら寝落ちし、今朝は新しいメイド服に身を包んで「エリザベス様」とやらにお目にかかったものの、アンに起こされた姿は不機嫌そうで「ああ、当初に噂された通り、使用人にはキツい性格なんじゃ」と警戒する。
しかし、湯浴みを手伝い、身支度を整え終える頃には、彼女が起き抜けは単に眠くて不満そうな顔をしていただけで、その実、とても常識的で理知的な女性なのだと分かり、ほっと胸を撫で下ろしていた。
「邸でのギルバート様は、品行方正の鑑のような方でして。どうしてもと迫られて、私的なお茶会や夜会で二、三度、幼なじみであるイザベラ様にお願いされてエスコートなさったりもしましたが、もともとそういうのにはお出にならない方なんです。」
どうしても出ないとならないものでも、儀典を総括している立場という事もあるのだろうが、基本は王太子の身辺警護と補佐をしつつ過ごすので、誰かのエスコートなどしていられないというのが本音なのだろう。
ともあれ、そんなわけで知名度の割には浮いた話ひとつなく、貴族としては良い年齢なのに所帯を持っていなかったので、ギルバートはかなりレアな存在だった。
「ギルバート様のご年齢で、爵位持ちの方やご令息でしたら、婚約の有無にかかわらず、大抵は一人か、二人、浮名のひとつや二つは聞こえてくるものなんですが、あまたの令嬢に囲まれても、これという方は定まらなかったんです。」
仕事、仕事、仕事。マナーハウスを訪ねてくるのは、家族と旧知の友人であるランスロット卿ぐらいとなれば、浮いた話ひとつ出てこないギルバートを心配して、ジェニファーどころかマナーハウスの女中頭のミセス・ラッセルさえ、お茶会や夜会への参加を促す始末。
「ですから、我々もこうしてギルバート様の想い人をお迎え出来て一安心ですわ。」
レベッカがそう話せば、ペチコートを身に付けていたエリザベスはぽっと顔を赤らめて、「想い人だなんて」と恥ずかしそうにした。
「あら、昨日のギルバート様を見れば、みんな『想い人』だと思いますよ?」
「もう、アンまで!!」
レベッカの目から見たエリザベスは、気の置けない乳母の前だからか、年相応の可愛らしい人で、直ぐに仲良くなれそうな雰囲気がある。しかし、花柄の少しカジュアルなドレス一式を持ってくるとエリザベスの顔が少し曇った。
「これはいくら何でもカジュアル過ぎやしないかしら?」
「マナーハウスですので、ちょうどよろしいのではないですか?」
「でも、公爵家筋のマナーハウスでしょう? ギルバート様に失礼ではないかしら。」
(・・・・・・ギルバート様。)
ギルバートの寵愛ぶりに対して、一線を引いているようなエリザベスは「もう少しキッチリしたものの方が」と話す。
「お嬢様、それではいくら何でも他人行儀に見えますよ?」
その言葉にエリザベスはレベッカにも目配せしてくる。レベッカは昨日のギルバートの様子を考えて「ステファニーお嬢様もマナーハウスでは、かなりカジュアルなデザインのドレスをお召しになるので、問題ございませんよ」と答えた。
◇
「そう・・・・・・?」
レベッカにまで、カジュアルなもので良いと言われると反論しがたくなる。
「この服もギルバート様のお見立てと伺っておりますし、お召しになったら喜ばれますよ?」
じゃあ、まあ、良いか。
アンにダメ押しされると、そう思えて、先日まとめ買いすることになったドレスのひとつを手にする。
(・・・・・・これ、ギルバート様も気に入っていたわね。)
この家の豪華さに少しばかり気遅れてしていたが、離宮よりはマシだし、ギルバートが普段着るように買ってくれたものだ。この家で袖を通さないとなると、街へのお忍び専用になってしまう。
そう考え直して、小花柄の気取らないワンピースドレスに袖を通す。
「もしお気に召さないのであれば、本日中、馴染みの仕立て屋が参りますから、お申し付けくださいませ」
「えッ?! ・・・・・・あッ?!」
息を吐いてしまったから、思った以上にスタイの紐が締まり、思いっきり噎せる。
「お嬢様ッ?!」
「ああッ! 申し訳ございません!」
アンが結び目を緩めてくれたものの、レベッカは慌てた様子で「すぐにお水をお持ちします」と席を外す。
何とか落ち着いて、背中を摩ってくれたアンに「仕立て屋って、またドレスを作るの?」と半分涙目で訊ねれば、「ええ、近く、王宮からお呼び出しが掛かるでしょうし、婚約式もございましょう?」と返された。
「まあ、そうね・・・・・・。」
「昨夜、お嬢様をお部屋にお連れしたあと、ギルバート様が直々に筆頭執事に命じたようでして、今朝『馴染みの仕立て屋が来るので、その心積りで』と通達がございました。お着替えが終わってからお伝えしようかと思っていたのですが、申し訳ございません。」
「そうだったの。それに別に驚いてしまっただけだから、あまり気にしないで。あとでレベッカにも私の印象が悪くならないように伝えて頂戴?」
先程からレベッカはこちらの顔色を伺っている。
プラスに考えれば単にレベッカが初めて仕える自分に対して緊張感を持って対応しているという事だが、如何せん、今までスペンサー家で散々な目にあってきているから、初めて付くレベッカを信用出来ていない自分がいる。
それにアンも気が付いているのだろう、エリザベスの表情から張り付いたような微笑みが消えたのを確認して「彼女はベスとは違って、気立てのいい子ですよ」と話した。
「ええ、ベスとは違うわね。」
そう答えはしたものの、幼い頃から接しているアンにはお見通しなようで「お嬢様、時に人を信じることも大切ですよ?」と言い含められる。
「分かった、努力はしてみる。」
「いい心構えです。あ、そう言えば、お嬢様、あの小説、私も目を通したのですが、月夜のダンスシーンはフィクションですね。お嬢様が蝶のように軽やかにステップを踏んだだなんて、信じられませんから。」
「う・・・・・・ッ。」
「しかし、きっとみんな注目の的にするかと存じます。ですので、筆頭執事のハロルドさんに相談して、ダンスの時間を毎日入れてましたから、蝶のように軽やかにステップを踏めるように頑張りましょうね?」
「・・・・・・はい。」
はあ、と憂鬱そうなため息を吐いたところで、水差しとグラスを持ったレベッカが戻ってくる。
「お待たせ致しました。」
恐る恐るといった風に差し出された水を受け取る。エリザベスはアンの顔を見たが、そのまま断ることなく口に含み「ありがとう」と微笑んだ。
そこからはポケットを巻き付けたり、パニエを身に付けたりと手伝ってもらい、今日のドレスに合わせたアクセサリーを付ける頃にはすっかりレベッカも緊張が解けたようだった。
「エリザベス様にお仕えできる事、大変嬉しく存じます。御用の際はお気兼ねなくお申し付けくださいませ。」
そう言ってレベッカはテキパキと部屋を片付けて一礼して去っていく。
一方、アンはぐるぐると点検して、リボンの結びが甘いところをもう一度締め直し、「これでどこに出しても恥ずかしくないですよ」と満足そうに口にする。
「さあ、朝食の準備が整う頃です。ギルバート様もお待ちでしょうから、食堂へ向かいましょう。」
アンは既にエルガー家の使用人として馴染み始めているようで、勝手知ったる邸のようにして食堂へと誘導してくれる。
しかし、その事が、かえって自分だけ見知らぬ世界に迷い込んだような心細さを連れてきた。
ああ、早く、彼に会って安心したい――。
エリザベスは急ぎ食堂へと向かった。




