18 重なる心
ギルバートがロバートから知らせを受けたのは、離宮の庭園にあるベンチで、ぼんやりと空を眺めていた時だった。
「ギルバート様ッ!」
静寂を切り裂くような声が庭園に響く。
見上げた空は、どこまでも青く澄み渡っている。
(ああ、もう……。)
――どうやら、ゆっくり物思いにふける時間は終わりらしい。
ロバートがこんな声を上げる時は、決まって厄介事が起きた時だ。
(こっちだって、もう、いっぱいいっぱいだっていうのに……。)
またオリバーが何かやらかしたのだろうか。
そんなことを考えながら、「ここにいる」と声を返す。
ほどなくして、ロバートが息を切らせながら駆け寄ってきた。
「大変です。」
「どうした?」
「それが……ウィンザー伯爵家の……イザベラ嬢が。」
「イザベラ嬢が……?」
思いもよらない名前に、ギルバートは眉根を寄せた。
「はい。世を憂いて修道院へ入られたそうです。新聞では伏せられていますが、ギルバート様を糾弾する告発書を残されたようでして……。今、こちらにお兄様のフィリップ様がいらしています。」
「──なんだって?」
脳裏に浮かぶのは、ウィンザー伯爵家で開かれたお茶会だった。
母に頼まれ、何度かエスコート役を務めたことがある。
彼女は簡単に世を儚むような女性ではない。
もちろん、エリザベスを陥れるような悪辣な人柄でもなかった。
「ここにいるならギルバートを出せ、と。さもなくば司法の場に打って出ると仰っています。」
思わず舌打ちが漏れる。
「チッ……。」
イザベラ本人よりも、フィリップの方が厄介だ。
「私も顔が割れていますので、ナターシャに対応してもらっていますが……、隠し立てして追い返そうものなら、その場合も司法の場へ持ち込むと。」
「あいつなら、そう言うだろうな。」
短く吐き捨てる。
「だけど、どうやってこの場所が分かったんだ……?」
ロバートはわずかに表情を曇らせた。
「それなんですが……どうやら先日の『サラ』が絡んでいるようです。」
ギルバートの目が鋭く見開かれる。
「こちらの監視をどうやって掻い潜ったのかは、現在確認中です。ただ、城下ではお二方がこの離宮にいるという噂がまことしやかに広がっていまして……。下働きの者たちも何人か聞き込みを受けたと話していました。」
「記事は?」
「一社だけ差し止めが間に合わず、号外が出ています。それ以外は宰相閣下が『事実無根だ。離宮は王妃殿下がお使いになる前の準備をしているだけだ』と抑えてくださったそうですが……。」
ロバートは苦々しく息を吐く。
「それでも、嗅ぎつけたゴシップ誌がこちらへ押しかけてくるのも時間の問題かと。」
その予測は、おそらく正しい。
分かっている。
分かっているからこそ、腹立たしかった。
(今朝も彼女に嫌な思いをさせてしまったというのに……。)
ようやく穏やかに過ごせると思った矢先だ。
彼女の安寧を脅かす存在が、次々と現れる。
「サラ──、あの女の行方は?」
「まだ掴めていません。」
ハミルトン伯爵の件で探らせたことが、相手を警戒させてしまったのだろうか。
(こんなことになるなんて……。)
ギルバートは立ち上がった。
「とにかく、一度部屋へ戻ろう。」
胸をよぎるのは、ただ一人。
エリザベスのことだけだった。
◇
その頃、エリザベスはナターシャに化粧を整えてもらっていた。
「……上手くいくかは分からないけれど、さっき話した通りにお会いしてみるわ。」
「承知しました。」
鏡越しに頷くナターシャへ、エリザベスはにこりと微笑む。
身支度を終え、元の部屋へ戻ると、ギルバートはすでに戻ってきており、ロバートと何やら話し込んでいた。
扉が開く音に気づいたギルバートが顔を上げる。
そして、その姿を見た途端、一瞬だけ息を呑んだ。
「リジー……、その格好は?」
「聖女をイメージしてみたの。それっぽいかしら?」
エリザベスはくるりとその場で一回転する。
白いドレスの上から羽織った、金糸の刺繍が施された純白のローブ。
胸元には、大粒のトパーズが柔らかな光を宿していた。
エリザベスの動きに合わせて、ふわりとローブの裾が広がる。
その姿は、まるで教会の祭壇画から抜け出してきた聖女のようだった。
ギルバートは息を飲み、ようやく我に返ったように瞬きをした。
「……どういうこと? 聖女をイメージって。」
エリザベスは自分の服を一旦見たあと、にこりと笑う。
「私がここにいる意義を伝えたら、少しは事情が変わるんじゃないかと思ったの。」
「リジーがここにいる意義?」
「ええ。ここは国王陛下のお許しがなければ入れない場所だって話していたでしょう?」
だったら――。
国王が自分をここへ匿った理由を、相手に納得させればいい。
エリザベスはそう考えたと話した。
「教会でお会いした聖女様と、今の私。」
少しだけ首を傾げ、悪戯っぽく笑う。
「どちらの方が、聖女様らしく見えるかしら?」
その一言に、ロバートはぽかんと口を開けたまま固まった。
しかし、ギルバートの表情がみるみる険しくなる。
そして、いつもとは違って低い声で話した。
「聖女の格好で何をするつもりだい? 種明かしをするつもり?」
エリザベスは気圧されて笑みを消す。
「全部、話すわけじゃないわ。」
そう話すとエリザベスは俯きがちに、「お祖父様の影響力を考えたら、私を保護しなきゃならないって判断されたと話すだけよ」と答える。
「この離宮までいらしているなら隠し通せっこないわ。それなら、いっそこちら側へ巻き込んでしまった方がいいと思ったの。」
秘密裏に匿われているギルバートとエリザベスの居場所を見つけ出した人だ。
「だから、国王陛下が直々に保護なさらなければならないと判断された――そう思っていただけるようにしたいの。──彼が社交界きっての『フェミニスト』なのは有名でしょう?」
エリザベスはギルバートを見つめる。
「今はイザベラ様のことで頭に血が上っているかもしれない。……でも、私の事情を知れば、情状酌量してくださるかもしれない。」
しかし、ギルバートの表情は変わらない。
部屋に静寂が落ちた。
ギルバートは小さく息を吐く。
そして、ゆっくりと首を横に振った。
「……駄目だ。」
その一言には迷いがなかった。
「リジーの考えは悪くないとは思う。だけど、これは僕が招いたことだ。」
まっすぐエリザベスを見つめる。
「君を巻き込むつもりはない。」
その言葉を聞いた途端、エリザベスはうまく喋れなくなった。
「……ギル。」
少し上擦った声で静かに名前を呼ぶ。
ギルバートの肩がわずかに震えた。
(――心が決まったら。)
あの時、ギルバートはそう言ってくれたけど。
(その言葉に甘えていたのは、私だ。)
そして、返事をしてない中、彼がこうして線を引くのは当たり前のことだ。
だけど──。
(最初は、王太子殿下の側近として尊敬していただけだったのに……。)
エリザベスはツキン、ツキンと刺し込むような胸の痛みを胸元のトパーズのネックレスを握りしめて紛らわそうする。
(……恋仲の設定でいきましょうと言われた時も、それは利害が一致しただけだと思っていた。)
ううん、違う。
もう、とっくに違っていた──。
誤魔化していたのは自分自身だ。
(こんなにも、この人に惹かれるなんて思わなかった。)
ギルバートを真っ直ぐ見据える。
そして、意を決すると、少し長い沈黙を破った。
「婚約請願書に、サインさせていただけないかしら。」
空気が止まる。
ギルバートは何を言われたのか理解できないように目を見開いた。
「……え、今、なんて?」
「婚約請願書にサインさせて、って。」
その言葉にギルバートはごくりの息を飲む。
そして、ゆっくりと。
張り詰めていた表情が静かにほどけていく。
鳶色の瞳が、嬉しそうに細められていく。
その変化を、エリザベスは不思議なくらいゆっくりと見つめていた。
まるで時間だけが置いていかれたようだ。
「──ああ、もちろん。」
彼が一歩、また一歩と近づいてくる。
そっと腕が伸びてくる。
引き寄せられた肩が、温もりに包まれ、すっぽりとエリザベスはギルバートの腕の中に閉じ込められた。
「嬉しいよ、リジー。」
抱き締める腕だけが少しずつ力を増していく。
そのまま、きつく抱き締められた。
(……温かい。)
ためらいがちに、恐る恐るギルバートの背中へ腕を回す。
何を発すればいいのか分からない。
(私、あなたが好きよ……。)
ただ、その想いを込めるように、小さく抱き締め返す。
「……ねえ、私にも任せて?」
ギルバートは根負けしたように苦笑した。
「分かったよ、僕の聖女様。」
エリザベスはくすっと笑った。
◇
そこからは怒涛だった。
急いで婚約請願書が用意され──。
ギルバートは外出着へと着替えている。
「あの、だいぶお待たせしている気がしますけど、大丈夫でしょうか?」
エリザベスが尋ねると、ギルバートはクラバットを整えながら小さく笑った。
「アポなしの突撃だからね。書類の準備が終わるまで待たせておけばいいよ。」
肩を竦める仕草には、先ほどまでの張り詰めた空気はもうなかった。
「うちの方が爵位も上だから。ここが氷華の離宮でなければ、一日や二日待たせたって大丈夫なくらいだ。」
(そ、そういうものなのかしら……?)
男爵家では、上位貴族を待たせるなど失礼にあたると教えられて育ってきた。
だからこそ、あまりにも余裕のある物言いに思わず目を瞬かせる。
そんな様子に気づいたのか、ギルバートはくすりと笑った。
「リジーは僕の婚約者になるんだ。つまり、公爵家の人間として扱われる。今までとは少し勝手が違うよ。」
「そういうものなのね……。」
まだ実感はない。
けれど、その言葉はどこかくすぐったかった。
ロバートに上着を着せてもらったギルバートは、ナターシャから婚約請願書を受け取り、静かに内容へ目を通す。
「予めエドガー様にサインをいただいておいて良かった。あとは僕とリジー、それから兄さんの承認のサインがあれば問題ない。」
そう言って、自分の名前を流れるように署名すると、羽根ペンをエリザベスへ差し出した。
「ここに名前を書いて。」
エリザベスはそっと羽根ペンを受け取る。
羊皮紙の上に並ぶ名前。
ギルバートの指し示したところに、自分の名前を書けば、もう後戻りはできない。
それなのに、不思議と迷いはなかった。
ゆっくりと、自分の名を書き記す。
最後の一文字を書き終え、小さく息を吐いた。
「……これで、いいのね。」
ギルバートへ請願書を差し出す。
彼はそこに並んだ二人の名前を静かに見つめた。
「うん……。これで、すべては上手くいく。」
安堵したような笑みが、その口元に浮かぶ。
その表情を見た瞬間、エリザベスの胸の奥はじんわりと熱くなった。
一方、ギルバートは請願書を丁寧にシーリングして、懐へと収める。
そして、もう一度エリザベスを抱き寄せた。
「……フィリップの相手を、しばらく頼むよ。時間稼ぎしておいてくれると嬉しい。できるだけ早く戻るから。」
「ええ、任せて。」
エリザベスは静かに頷く。
腕がゆっくりと離れる。
ギルバートは名残惜しそうにエリザベスの肩へ手を置いたまま、ロバートへ視線を向けた。
「何かあったら、すぐに部屋に踏み込んで、リジーを守るように。」
「承知しました。」
ロバートが静かに頷く。
ギルバートは最後にもう一度だけエリザベスを見つめた。
「それじゃあ、行ってくるね。」
「ええ、行ってらっしゃい。」
エリザベスはその後ろ姿をじっと見送った。
やがて扉が閉まる。
部屋には、先ほどまで残っていた温もりだけが、まだほんのりと漂っている気がした。
──これで、すべて上手くいく。
ギルバートがそう言うのなら、きっとそうなるのだろう。
「きっと、すべて上手くいくわ。」
エリザベスは胸元のトパーズへそっと触れて、小さく微笑んだ。




