取引は慎重に、駆け引きは大胆に(1)
氷華の離宮に篭って一週間。
ギルバートが「表に出られるのは今日まで」と言った通り、新聞にはギルバートとエリザベスの駆け落ちの話が一面に乗ってからは連日、二人の名で賑わっていた。
「今日の見出しは『魔性の女、エリザベス=B=スペンサーの知られざる生い立ち』ですって。」
「へえ? ここのところ、リジーの二つ名は『魔性の女』で定着してきたみたいだね。」
「もう! そんな二つ名は要りませんわ。そちらにはなんて?」
「こっち? こっちはありきたりな表現かな。『月光の貴公子、愛の逃避行の行方の予測』だね。」
くすくすと笑いながら、いくつもの新聞を見比べながら「みんな好き勝手に書いてくれる」とギルバートは愉快そうにする。
「でも、今日は僕らに対して否定的なのと、同情的なのが半々ってところだ。明日くらいには逆転すればいいんだけれど。」
そして「思っていたよりリジーの評判の件は根深いみたいだね」と、ギルバートは「母譲りの魔性の女」と書かれた記事を読んでいる。
「・・・・・・私は父親のいない子ですから。どうしたって生まれの部分は言われるんです。」
エリザベスが悲しげな表情でぽつりと零せば、ギルバートは「君は、君を引き取らなかった国王陛下を恨んでいる?」と何気なく訊ねてくる。
しかし、恨んでいるとかいないとか、そう簡単に白黒が付けられるようなことではなかったから、エリザベスは曖昧に微笑んだ。
「その辺は、自分でもどう判断したらいいかよく分からなくて・・・・・・。その事について怒るべき母は、殿下の事を知らないままでしたし。」
「知らない?」
「ええ、アンによれば殿下を王室に引き渡す条件のひとつとして、祖父が母に『記憶の封印』を施すことを盛り込んだって申しておりましたわ。」
「記憶の封印?」
「ええ、一種の催眠術です。母が殿下のことを思い出して苦しまないように。母の作られた記憶には、第一王妃が同じ日に陛下の御子を産んだと言う偽りの認識と、初めから私しか産まれなかったという記憶の植え付けたそうですわ。そして、そのまま何も知らずに死んだ。」
母のお腹の中では一緒だったのに。産みの母にも忘れられたオリバーのことを、姉である自分も、母の死後、アンが教えてくれるまで全く知らずに生きてきた。
「王太子殿下には国王陛下と第一王妃が居たものの、私の弟であるはずの『オリバー』は永遠に存在を消されてしまったんです。それなのにどっちが幸せで、どっちが不幸かなんて比べられないでしょう? どっちもそれなりに不幸だと嘆くんだろうし、どっちもそれなりに幸せだと思って生きて行くしかないと思っていますわ。」
お互い、双子の姉弟としては名乗れぬままに。
「でも、今は複雑な気分です。弟の『オリバー』は私の知らないあなたを知ってるのにと思うと、どうしても妬ましく思ってしまうの。」
エリザベスがくしゃりと笑う。ギルバートは意外な回答に一瞬目を見開き、それから、嬉しそうに目を細めて笑った。
「何、僕の事が知りたいの?」
「ええ。私はまだ数日しかあなたを知らないけれど、王太子殿下はご存知なのでしょう?」
婚約者になる私よりもずっと前から。
そう少し拗ねたように話すエリザベスの様子に、ギルバートは彼女を引き寄せて、ソファーの隣の席に引き寄せて王太子殿下との思い出を語り始めた。
◇
ギルバートは『オリバー』の事を三才の時から知っている。
初めて会ったのは母に連れられて行った第一第一王妃の宮の中庭で、優雅にお茶をしている第一王妃の傍で、たどたどしく歩いているあどけない赤子だった。
金髪碧眼の愛くるしい赤子がよちよちと歩く。途中、転んで、二パッと笑うと半分四つん這いになりながら近付いてくる。ギルバートはその愛くるしい姿に釘付けになっていた。
「ご無沙汰しておりました、妃殿下。こちらは末の子でギルバートと申します。ギル、妃殿下にご挨拶をなさい。」
母の声に意識を引き戻されて、こちらを見つめてくる第一王妃に「こんにちは、僕は公爵家の次男、ギルバートと申します」と一生懸命に挨拶する。すると、母は「よく出来ました」という代わりに、そっと頭を撫でてくれた。
それが誇らしく思えて、上を見上げたところ、第一王妃の冷たい表情と眼差しに息を飲む。
ギルバートは咄嗟に「何か間違っただろうか?」と咄嗟に母のドレスにしがみつき、第一王妃から隠れるようにした。
「少しお窶れになりましたね。」
そういうと母はその場にしゃがみ、よちよちとして歩いているオリバーに手を伸ばして抱きかかえる。
しばらくの間、いやいやとするように、オリバーは足をばたつかせていたが、母がお尻を支えるようにして抱え、背中を撫でて落ち着かせると、ドレスの胸元を掴み、緊張した面持ちで第一王妃を見つめた。
「何をしに来たの、ジェニファー? まだ私に何かしろと?」
絞り出すようにして呟いた第一王妃の様子に、母が首を横に振り「国王陛下の密命を受けて、王子殿下をお預かりに参りました」と話す。
途端、第一王妃の先程までの冷たい表情は沈痛なものに代わり「やはり国王陛下は母親失格だとお見限りになったのね」と嘆いた。
「いいえ、妃殿下。そうではございません。これは国王陛下のご配慮にございます。」
「配慮?」
「ええ、それに母親失格など、とんでもないことにございます。妃殿下は『国母』にございましょう? 祖国、エラルド公国からこうして嫁いで、立派にそのお役目を果たされていらっしゃるではありませんか。」
そして「今回の襲撃で王子殿下の乳母も犠牲になったと伺いました」と母まで沈痛な面持ちになる。
「王子殿下を庇って亡くなったとか。」
そういうとオリバーを抱えてるのとは、反対の手を延ばして「妃殿下・・・・・・、いいえ、姉さん」と第一王妃を慰めるように涙を拭う。
「そんなに気を張り続けていたら、姉さんまで倒れてしまうわ。」
エラルド公国で共に過ごしていた時のように妹の「ジェニファー」として母が声をかければ、第一王妃は堰を切ったように嗚咽し、近くのガーデンチェアに腰を下ろした。
オリバーは第一王妃が泣き出した事に「ふぇぇ」とぐずり始める。しかし、母は慣れたもので「大丈夫ですよ」と、その背をトントンとあやした。
幼いギルバートもその様子に、泣いている第一王妃の元へと行くと、母がよくやってくれるように「痛いの、痛いの、飛んでいけ!」と言って手を伸ばした。
泣いている第一王妃と目が合う。
けれど、その瞳はさっきまでとは違って、母と同じように優しく、一生懸命なギルバートの様子に泣き笑いする。
「ああ、ギル。あなたは優しい子ね。」
それから膝に乗せられたかと思ったら、ぎゅっと抱きつかれる。ギルバートは少し驚きつつも、肩を震わせて泣く第一王妃の様子に、よしよしと撫で続けた。
「姉さん、うちには三人も子どもがいる。もう一人増えるくらいなんてことのない話よ。」
こくこくと頷く第一王妃は「ギル」と囁くと、泣き顔のままで「オリバーをお願い出来るかしら?」と話す。
「『オリバー』の名はね、私がつけたのよ。この子がまだ産まれる前から男の子ならそう付けたいと陛下にお願いして・・・・・・。だから、その子は誰が何と言おうとと私の子。」
平和の木であるオリーブの木から取られた名前。
ギルバートがコクリと頷くと、母のあやしていた手が止まったからか、オリバーが「ふえええ」とさっきより大きな声で泣き始める。
「あら、あら。嫉妬しちゃったかしら。」
小さな手を伸ばして第一王妃の元へ戻ろうとぐずるオリバーの様子に芝生の柔らかい場所に下ろすと、トテトテと歩んだ後、オリバーはドレスの裾に縋るようにして第一王妃に抱き付く。
ギルバートが第一王妃の腕の力が緩んだタイミングで場所を譲れば、よじよじと上って満足そうな顔になった。
母はふふっと笑うと「オリバーもあなたを唯一の母親だと思っているようよ」と笑う。そして、自分に言ったのだ。
「ギルバート。これは公爵夫人としての命令です。」
あなたはその身を呈して殿下をお護りなさい――。
◇
「そんなわけであの日から僕の役目は、オリバー殿下の『影』でもあるんですよ。幼い頃も、そして、今も。」
あれ以来、三日と開けず、自宅と王城を行ったり来たりして、オリバーと寝食を共にし、同じように教育を受け、学び舎にも通ってきた。
だから、こんなに長い間オリバーと離れているのは思い返してみても初めてのことであり、正直、何か仕出かしてやしないかと落ち着かないと笑う。
「王太子殿下の影のような『月光の貴公子』なんて笑えない二つ名まで与えられて、いつだって殿下と比較されてきた二十年間だというのに、あなたはそんな僕が知りたいと可愛いことを仰って翻弄する。『魔性の女』と言う二つ名は、あながち間違っていないのかもしれませんね?」
「もう、また、それ?」
からかわないで、と少し拗ねたような表情の彼女さえ愛おしい。
ギルバートは自分の事を悪し様に書いている新聞を机に置くと、込み上げてくる胸の高鳴りに身を任せるようにしてエリザベスを引き寄せた。
甘いジャスミンの香りが鼻腔を擽る。
すっぽりと自分の腕の中に収まったエリザベスは驚き半分、戸惑い半分の表情で自分を見て、それから恥じらうようにして目を伏せる。
ダメだ、彼女はまだ婚約者じゃない――。
そう思うのに心と行動はチグハグで、もっと彼女が欲しいと思っている自分に意識を乗っ取られる。
柔らかなストロベリーブロンドに手を掛けると、少し上を向いた彼女のさくらんぼみたいな唇に口付ける。
もう少し、あと少しだけ――。
そう思っても息継ぎのため僅かに開かれた唇から、鼻に掛かった甘い声が吐息混じりに紡がれて、胸の奥がジリジリと焼けるように騒ぐ。
それでも理性を総動員させて唇を解けば、エリザベスは頬を薔薇色に染めて、エメラルド色の瞳をとろんとさせて、しばし名残惜しそうな表情をしたものの、彼女も我に返ったのか羞恥に耳を真っ赤に染めて恥じらった。
(ああ、もう・・・・・・。)
その姿が可愛くて、愛しくて、本当に自分はいったいどうしてしまったんだろう。
けれど、もう一度、彼女を抱き締めようとして、まだ彼女からの答えも貰ってないのに、自分の気持ちのままに振る舞ったことに気が付いて表情が強ばる。
そんなギルバートの様子を訝しんだのだろう。エリザベスは顔を強ばらせたギルバートに声をかけた。
「ギルバート様・・・・・・?」
ギルバートは口を一文字に引き結び、引き寄せていた腕を解く。そして、顔を真っ赤にすると「ごめん、少し頭、冷やしてきます」と逃げ出すようにその場を離れた。