マルモ編 第四話
すっかりと綺麗になった体で水場から出ると、今度は全身の水気を大きな柔らかい布で取り除かれた。体中を揉みくちゃにされるような感触に、思わず目を強く閉じる。
それが漸く終わったと思ったら、今度は見た事もないような清潔で綺麗な服に着替えさせられた。人に服を着させられた経験がないのと服の肌触りが良すぎるのとで、とても落ち着かない気持ちになった。
そして最後に髪の毛を丁寧に結われると、やっと私は解放された。一息を吐く私の前に、全身が映る程の大きな鏡が用意される。
「……ぁ……」
思わず、驚きが吐息になって漏れたのが解った。そこに映っていたのは、私と同じ顔をしているのに全く見知らぬ少女だった。
ほんのりと赤みを帯びた白い肌。艶やかな黒く長い髪。それを彩る上品な水色の服。
もしもお姫様というのがいたらこんな感じなのだろう、と思える少女がそこにいた。
「……様、お嬢様?」
傍らからの声に、ハッと我に返る。いつから鏡の向こうに目を奪われていたのか、全く記憶にない。
「あ、ああ、すまない、何だ?」
「……仕方ありませんね。もう一度言いますよ。今からお嬢様を、エンデュミオン殿下のお部屋にお連れします。くれぐれも粗相のないようにお願いします」
「そそう?」
聞き慣れない単語に私がそう問い返すと、周囲の女達が一斉に眉を潜めるのが解った。……何か不味い事でも聞いてしまったのだろうか。
「……行儀の悪い真似をしないように、という意味でございますよ、お嬢様」
やがて女達の一人が、笑みを浮かべてそう言った。しかしそれが本心からのものでない事は、ひきつった口角からすぐに解った。
「解った。行儀良くだな」
「ええ。くれぐれも、本当にくれぐれもお願いします」
そう念を押す女達の顔がやけに真剣なので、私も反射的に頷いてしまう。……この女達は、一体何にそこまで怯えているのだろう?
ああ、そうだ、女達は確かに怯えている。昔一緒に暮らしていた子供達が、いつもこんな顔をしていた。
何を怖がっている? ……エンデュミオンを?
この女達は、エンデュミオンが怖いから従っているのだろうか。私と話をしている時のエンデュミオンは、そんな怖い男には見えなかったのに。
嫌いな人間にすら、従順に接しさせるだけの恐ろしさ。それをあのエンデュミオンが持っているというのだろうか。
「それでは参りましょう。お嬢様の身支度に手間がかかってしまいましたから急ぎませんと」
そんな疑問を抱いたまま。私は足早に歩き出した女達の一人に、遅れないようについていった。
女は大きな階段を上へ上へと登っていき、やがて一つの両開きの扉の前で止まった。そして小さく深呼吸をし、扉を二度ノックする。
「誰だ?」
「お待たせ致しました。お嬢様をお連れしました」
「ご苦労。もう下がって良いぞ」
「で、ですがもし二人きりにして殿下の御身に何かがあれば……」
「マルモはそんな事はしない。これは命令だ。下がれ」
「か、かしこまりました……」
扉の向こうから聞こえたエンデュミオンの声に、女はまた怯えた表情を浮かべその場から急いで立ち去る。最後にバレないとでも思ったのだろうか、凄まじい形相で私を一睨みして。
女の背中が遠ざかり足音が聞こえなくなると、また扉の向こうから声が聞こえた。それは先程までより、幾分か柔らかく感じる声だった。
「すまなかったな、マルモ。腹が減っただろう。食事を用意してあるから、中に入ってくるといい」
「あ、ああ」
女と私への態度の違いに戸惑いながらも、ゆっくりと扉を開ける。途端、美味しそうな匂いが鼻をくすぐり私の腹がまた大きく鳴った。
「……う……」
「はは、本当に正直な腹だ。さあ、早く入って食事にしよう」
そんな私を見て楽しそうに笑うエンデュミオンを恨めしげに見ながら、部屋の中に入り扉を後ろ手に閉める。広い部屋の中央には簡素なのに上等だと解る服を着たエンデュミオンと、これもまた見た事もないようなご馳走が並んだ大きな丸テーブルがあった。
ご馳走を見て、また一つ腹が鳴る。真っ赤になって俯いた耳に、エンデュミオンの可笑しそうなクスクス笑いが響いた。
「……あまり笑うな」
「いや、すまない。ここにいるとそういった素直な反応を目にする機会がなかなかなくてな。つい嬉しくなってしまったんだ」
そう言われてちらりとエンデュミオンを見ると、表情にあの悲しげな色はなくて本当に嬉しそうだった。それを見ていると、何だか怒る気も失せてしまう。
「……もう」
「そういえば、大丈夫だったか? 何か酷い事を言われたり、されたりしなかったか?」
「え?」
唐突にそう言われ再びエンデュミオンの顔を見ると、そこにはまた悲しげな色が戻ってきていた。……何故だろう。エンデュミオンのあの顔を見ると、不思議と胸がざわつく。
「……大丈夫だ。温かい水にはビックリしたけど、皆親切だった」
「そうか、お前は風呂に入った事がなかったのか……しかし、それなら良かった。脅しをかけはしたが、この城の者は貧民街の者を嫌っているから心配だったんだ」
エンデュミオンを安心させたいと思ってそう答えると、エンデュミオンはホッとしたように小さく息を吐いた。その様子に、私も少し安心する。
「エンデュミオンが気にする事じゃないのに。私なら嫌われるのには慣れてる」
「……悲しい事だ。貧しいだけで嫌われる、そんな事はあってはならないのに」
けれど続けた言葉に、またエンデュミオンの顔の悲しげな色は深まった。それにどうしていいか解らなくて、私はついオロオロとしてしまう。
「ほ、ほら! それに、こんなに綺麗にして貰ったんだぞ! こんな綺麗な服を着るのは初めてだから、私は嬉しい!」
私は大袈裟に手を振り、自分は平気だととにかくアピールした。何故こんなに必死になっているのか、自分でも解らないまま。
エンデュミオンは暫く真面目な顔で、私を見つめていた。そして――その顔が、やがて破顔した。
「ああ――そうか。お前は私を励まそうとしてくれているのだな。ありがとう、マルモ。そうだな。折角の食事の席に、暗いのは良くない」
その笑顔を見て、私も何だか嬉しくなる。誰かが嬉しいのが嬉しいだなんて、そんな事今まで一度だって思った事がなかったのに。
「さあ、私の向かいの席に座ってくれ。ここにある物は好きなだけ食べていいぞ」
「本当か!?」
エンデュミオンが笑顔で告げた言葉に、私は駆け足気味にエンデュミオンの向かいの席に着く。しかしそこで、ハッと女達の言葉を思い出す。
「あ……」
「ん? どうした?」
突然動きを止めた私を、エンデュミオンが不思議そうに見る。私は眉を下げ、エンデュミオンに言った。
「その……行儀の良い食べ方というのは、どうしたらいいんだ?」
「行儀の良い食べ方?」
「……お前の前では行儀良くしろと、そう言われた」
こんな事すら聞かないと解らない自分を恥ずかしく思いながら、小さく俯く。そんな私を見てエンデュミオンは優しく、でも悲しげに笑った。
「……あの者達の言いそうな事だ。行儀など気にしなくて良い。好きなように食べろ」
「いいのか?」
「同席する私がいいと言っているんだ。遠慮する事はない」
そう言われ、思わず生唾を飲み込む。こんなご馳走を前にして、もう我慢する事は出来なかった。
一番手前にある肉の塊を、両手で鷲掴む。そして大きく口を開け、思い切りかぶり付いた。
歯と肉の隙間から、肉汁が染み出す。その旨味を舌で味わいながら力を込め、肉を食いちぎる。
それは、今までに食べたどの肉よりも美味しかった。私の知っている肉と言えば、生ゴミの中の腐りかけの肉くらいだった。
こんなに美味しい物が、この世にあったなんて……。私にとっては、まさしく衝撃だった。
「慌てて食べて、喉に詰まらせないようにな。料理は逃げたりしない」
エンデュミオンはそう言うのだが、手が、口が止まらない。もっともっと、この美味しい物を味わいたくて堪らない。
そうして私は服が汚れるのも構わず、お腹が一杯になるまでテーブルの上の料理を食べ続けた。




