前篇
あれは、満月の夜───
黒く染まった空に血のように濡らつく紅い月が浮かんでおりました。
人里離れた場所にある歴史を感じさせる荘厳な造りの館。余程の財を成した人の邸宅なのでしょう、庭木一本をとっても素人目に良いものだと分かるほどでございました。その館は紅月によって煌々と照らされておりました。
そして、館の立派な庭の中心に1人の少年がたたずんでおりました。
まだ10代の半ば程度でしょうか? 全身の漆黒の闇に同化させるが如く黒装束を纏ってはおりましたが、僅かに月明かりに照らされた体躯からは、その大人で呼べるであろう要素が欠如しているのが分かります。
只一人、月夜の庭園に立つ少年の周囲は切り裂くような冷気が漂い、吐く息は白く凍てついておりました。
そして、ゆっくりと伏せられていた少年の双眸が開きました。月明かりで照らされた双眸は、血に濡れた深紅色に輝いております。そう、それを例えるならば紅く美しい紅玉の如き色彩とでも申しましょうか。
少年は空を見上げたまま微動だにせず、浮かぶ満月をその紅い瞳で眺めておりました。
異貌と称すべき少年の双眸でありましたが、それをより強調するかのように少年の右手には、身の丈ほどある不釣合いなほど長い刀が握られておりました。そして、その刃からポツリポツリと滴る液体がございました。
血でございます。
それは少年の血ではありません。
それは少年の周囲に臓腑を撒き散らせ朽ちた屍――その返り血でございます。
少年の周囲にいくつもの血の海が広がっておりました。大きな庭園を埋め尽くすように、いくつもの屍が――人間だったものの肉片が、分断され散らばっております。
「ぁ……あ、あ」
幽かな呻きが静寂の庭園にありました。少年の紅眼がゆらりと呻きの方へ煌きます。そこには呻き声を上げながら、地面を這いずる男がおりました。男は脇腹から臓腑をはみ出し、血をドクドクと流しながらも、少年から少しでも離れようともがいております。
その男を少年は、無感動に一瞥し歩み寄ると、右手の長刀を振り上げ――躊躇なく振り落としました。
肉と骨が立たれる鈍い音。
そして、再び静寂が訪れます。
男は短く痙攣をしておりましたが、それもすぐに止みました。
少年は冷徹な表情で周囲を見渡しました。もはや生あるのは己だけと思ったのでしょうか。僅かに安堵の表情を浮かべた少年でしたが、次瞬、紅眼を見開きました。
いつの間にか、少年の視線の先に巨漢が在りました。突然、空間から出現したかのように。いつから、そこにいたかも分かりません。しかし、その巨漢はまっすぐと視線を少年を見据えておりました。
周囲の屍と同じくする軍服を纏い、耳元から顎まで伸ばした髭とスキンヘッドの頭部が印象的な大男です。優に2mを超える長躯に加え、その右手にはその長身に匹敵する双刃の斧がありました。
獣のような双眸の巨漢でございます。
少年と巨漢の距離は、おおよそ15mほどでございましょうか。
彼らの間には、いくつかの屍がありましたが、お互いの視線を遮る物はございません。
お互いに敵を見据えたまま。
時が凍りつきました。
そして――
少年の影が不意に消えました。
常人には残影さえ捉える事が難しいほどの疾駆でございました。
瞬き一つの間に距離が縮まり、地を這うような低い姿勢で少年は、己の斬撃の間合いに入り込みました。
肺腑から短い気合の声と共に、少年は長刀を両手で強く握り、神速の横薙ぎを一閃させます。巨漢の両脚を断たんとする、完璧な軌跡、完璧な斬撃でございました。
次瞬、両脚が斬り飛ばされ地面に巨漢が倒れる筈でございましたが――
キィン
閃光が奔り空間をぱっと明るく照らす金属音が響きました。
少年にとって、予想外の事であったのでございましょう。
目にも留まらぬ高速の斬撃を、巨漢の双刃斧がいとも簡単に受けたのでございます。
その反応もまた、神速といえました。
素早く身を引く少年に、巨漢はまるで遊戯でもするかのように追いつき、双刃斧を振り落としました。それを打ち上げるように長刀で受け止めた少年の足下が、その圧力に地面に沈み込みます。
交える刃を挟み、少年と巨漢の目が合います。
その時、漣のように少年の紅の双眸に恐怖が浮かびました。
生物であれば誰でも持ち得る感情。捕食される側の感じる恐怖。
少年は咄嗟に交える刀を押し出し、その反動で体を後方に跳ばして距離を置くと、刀を構え直し防御の姿勢をとりました。
少年は恐怖に動揺する鼓動に戸惑っている事が手に取るように分かります。
呼吸が浅くなり、嫌な汗が吹き出ている事が手に取るように分かります。
混乱する思考の中で、少年は一つの結論に辿り着いているのは、明らかでございました。
それは眼前の巨漢と今一度、刃を交わせば、己は間違いなく生きてはいないという事です。そして巨漢は己の逃亡を許さない存在である事も理解できた事でしょう。
逃げて死ぬか、闘って死ぬしか少年に道は存在しない結論に、少年は慄き怯えておりました。対する巨漢は気負う風もなく、膝を軽く落とし、双刃斧を腰溜めに構えます。
血生臭い風が吹きました。
お互いに、己の得物に命を託し、地面を蹴ります。
そして次瞬。
二つの影が交差し、そして次にはお互いが背を向けた状態になっておりました。
「我が蛮勇に曇りなし」
巨漢が小声で呟いた瞬間、少年の背に衝撃が走り、鮮血が虚空に美しく羽根が生えたように舞いました。
僅かな苦悶の呻きを上げ、少年は地面にうつ伏せて崩れ落ちます。
巨漢はゆっくりと振り返り、月明かりに照らされる少年を無言で見下ろしました。その双眸に浮かぶは、なんでしょうか?
憐憫? 軽蔑? 嫌悪? それとも?
巨漢はゆっくりと双刃斧を振り上げます。その表情は冷淡であり、まるで能面のようでございました。
大気すら両断する刃が振り落とされました。
ですが――巨漢の双刃斧の切っ先は、少年に当たる寸前で止められておりました。そして思い出したかのように、旋風が巻き起こります。
そして、巨漢は双刃斧の柄に、少年の矮躯を引っ掛けると肩に担ぎ、その場を後にするのでした。