鬼になるのは
洞の中は暗闇だった。
せまい空間、蝉の声は消え、静寂が支配する。真夏なのに強い冷気に体が震える。暑かった外に比べて、なんという寒さだろうか。いや、体が震えているのは寒さのせいだけではない。
この空間がどうにも恐ろしくてならないのだ。
奈津の誘いに乗ったことを早くも後悔しはじめていた。
奈津が、明かりを壁に向けると、岩壁一面にびっしりとお札が貼り付けられていた。
「うっ」
「すごいね」
「無理無理、もう十分、出ようよ」
「待ってよ深雪。せっかく来たのに。親父の話だと、たしか奥にあるはずなんだよね」
がさっと、なにかを蹴飛ばした奈津。
床を照らすと、黒い盆の上に、布で包まれた何かが置いてある。
「これって、違うよね。生きてる赤ん坊なんてことは」
自分ですうっと血の気が引くのがわかる。
「なわけないでしょ馬鹿。キジの肉を赤ん坊に見たててるって言ってたじゃない」
すたすたと前に進む奈津。空間の奥には小さな祭壇。そして壁画。壁に極彩色の絵が描かれていた。
そこに描かれているのは女の鬼だった。鬼は包丁を研いでいる。その足元には。布にくるまれた赤ん坊。
これは鬼女伝説の絵だと私たちは知っていた。
大学四年の夏休みに訪れた奈津の実家は、この洞穴を管理する神社の家だ。県内の鬼に関わる習俗を卒業論文のテーマにしていた私は、サークルの友人であった奈津の田舎に、いつか訪れてみたいと話していたところ、奈津の帰省に合わせて誘ってもらえたのだ。
そもそも奈津は田舎の習俗に興味はなくむしろ毛嫌いしていた節があったのだが、なにかしら心境の変化があったのだろうか。突然に誘ってくれた。
奈津の家では、さまざまな話を聞くことができて、夏祭りに合わせて行われる鬼女供養を一通り見ることもでき、論文の参考になった。
奈津の父は、奈津がやっと家のことに興味を持ってくれた、これも私のおかげだと喜んでくれていた。
この田舎の夏祭りで行われるのは鬼女供養だ。
ここには鬼女の伝説が伝わってる。
昔、都から美しい姫がこの地に流れてきた。姫はやんごとなき貴人の子を身ごもっており、この地で可愛らしい赤子を産んだ。しかし、その赤子は貴人の手の者によって葬られてしまう。女は鬼になった。この洞穴に住みつき、毎晩一人ずつ村の子供をさらって喰らったという。あるとき、旅の修験者が法力により洞穴を岩で塞ぎ呪文を七日七晩唱え続けた。修験者が力尽きた時、岩が割れ、村人が中を覗くと鬼女は木乃伊になっていた。
それから鬼女を鎮めるための鬼女供養が行われるようになった。鬼女を慰めるために、子供に見たてた肉を洞穴に納める。そうしなければ、今でも子供が消える時があるのだと、村ではまことしやかに囁かれているそうだ。
祭事が終わり、一日の成果に満足して就寝しようかという時間に、奈津に誘われた。奈津も足を踏み入れたことのない立入禁止の鬼女の洞穴をこっそり見に行かないかと。
洞穴は、伝説どおりの大岩が割れた間に木製の格子扉が設けられ塞がれている。鬼女供養では、奈津の父が、供物をもって洞穴に入っていくのを見るだけだった。大きな錠前がかけられているが、奈津は鍵を持ち出してきており、がちゃりと開ける。私は、罪悪感を感じながらも、好奇心に負けて奈津についていった。
そして、いま目の前に、鬼女の木乃伊がある。祭壇の前の石棺に納まっているのだ。こんな場所によく保存されているものだ。この寒さといい、洞穴がかなり特殊な条件に保たれているのかもしれない。
その額の部分には、明らかに人のものではない鋭利な突起が視認できた。
「これ角だよね」
「うわ気持ち悪い。作り物に見えないね、よくあるじゃない。人魚だの河童だの木乃伊でさ、動物のパーツで作った偽物」
奈津は軽い口調で答えようとしているが、少し声が震えていた。奈津も怖いのだ。なのによく忍び込もうなんて思いついたものだ。もしかして私のために無理してくれたのか。世話焼きなんだよな全く。
「奈津。声震えてるよ」
「え。ばれた」
「無理してくれてありがと。感謝感激だなあ」
「ふふっ。無理なんてしてないし、別に深雪のためじゃないから。やっぱ、あんたはご機嫌な頭してんのね」
「あ。奈津ひどい」
「さあて、鬼女様にお参りでもしようかな」
奈津は、懐中電灯を床に置くと、木乃伊の前で両手を合わせる。こんなところで、何をお願いするんだろう。
「深雪の子供が、無事、産まれて来ませんように」
「え」
奈津は、笑っていた。これまでに見たことのない邪悪な笑みだった。
「言い間違いじゃないよ。ふふふ、声が震えてたとしたら、笑うの我慢してたからかな。あんたには言ってなかったけど、ここって産みたくない女性とか子供がいらない女性がお参りに来る隠れスポットなんだよ。鬼女が赤ん坊を喰べてくれるってね。だから立ち入り禁止で、普通は外からしかお参りできないの。こんな中まで入ったら御利益てきめんだろうなあ」
咄嗟にお腹を触る。
「何言ってるの。奈津」
「知ってるのよ。妊娠してるんでしょ。吉永先輩の子。夏休み中に両親に紹介するんだってね」
「それは、言ってなかったのはごめん。気を悪くしないで。まだみんなに伝えるには早いかと思って」
「吉永先輩と付き合ってたの。わたしも」
「え」
「吉永先輩から聞いたのよ。あんたが妊娠したから責任取らなきゃいけないって。わたしとはもう会わないって。あんたやり口が汚いのよ。できちゃったなんてずるいじゃん。吉永先輩がかわいそう」
「そんな。健さんだって喜んでくれて」
「なわけないでしょう。先輩優しいからあんたに気をつかって喜んだふりしてんのよ。博士課程に進むのやめて突然就活するのも、あんたのせいでしょ。だいたいあんただって卒論どうすんのよ。就職だって決まってんのに」
「様子見てだけど内定は辞退するよ。高槻教授には相談してて、卒論は出せさえすれば、早めにでも審査してくれるって。だめなら休学を勧められて」
「ああ、あの女教授、あんたみたいな子には甘いわよね。そうやって人の好意にばかり甘えてんのがあんたなのよ。とろいくせにさあ。卒論なんかに張り切っちゃって。今回だって人の実家にまでほいほいよくついてこれたもんね」
「それは、だって奈津が誘ってくれたから」
「迷惑だからって断るのが普通でしょ。でもまあ、今回は来てもらってわかったけどねえ。こんなところに自分で来るなんてお馬鹿な妊婦さんよね」
邪悪な笑みだ。ほんとうにわたしの前にいるのは奈津なのだろうか。
目が涙で滲んできた。声が出ない。ショックだ。健さんが私と奈津と二股かけてたことはいい。だってわたしを選んでくれたんなら問題ない。
それよりも、奈津にこんな直接的な憎しみをぶつけられるのが辛かった。手が震えて足に力が入らない。お腹がきりきりと痛み吐き気がする。
奈津の顔をした何かがしゃべっているが、もうよくわからない。呼吸が浅くなり、頭がぼうっとする。過呼吸かも、と冷静に考える自分もどこかにいる。
うずくまったら頭に痛みを感じた。奈津に頭を足蹴にされたのだ。
鬼だ。わたしの前にいるのは、奈津じゃないんだ。鬼女なのだ。
「ほんとはさあ、なあんにも教えないで、普通に帰る予定だったのよ。それで、もし流れたらラッキー。あんたを表で慰めて裏では笑ってやるつもりだった。流れなかったら、まあ迷信なんてそんなもんだから、諦めようって思った。だけど我慢できなかった。だって、あんた自分が愛されて当然って、人に親切にしてもらって当然って顔してるんだもん。疑いもせずこんなとこまで着いてきて、バカなんじゃないの」
鬼が何かを言っている。
「ほら、いい子ぶってないで、なんとか言いなさいよ」
奈津はたぶんお腹を押さえてうずくまった私をさらに足蹴にしようとしたのだと思う。私は抵抗しようとして、手を前に出して、上げた右足を押された奈津はバランスを崩した。そのまま尻餅をつくのだと思った。
それだけのはずだったのに。木乃伊の入った石棺に足を取られた奈津は、後ろ向きに倒れこみ、その先には、鬼女の頭が。角が。鬼女はなぜ上半身を起こしているのだろう。さっきまでたしかに石棺にまっすぐに納まっていたのに。
奈津のお腹から角が生えていた。訳がわからないという顔の奈津。ぶくぶくと血を吐く奈津。
鬼女の木乃伊の額の二本の角が、転んだ奈津の背中の真ん中を貫いていた。
どうしよう。奈津はまだ生きている。もしかすると助かるかもしれない。ここで何かするべきなのか。人を呼びに行くべきなのか。
迷っている間にも、奈津の血が角を伝い木乃伊に吸い込まれて行く。すると、人の顔かもわからなかった木乃伊の干からびた顔が、まだ骸骨のようだとはいえ女性とわかる顔つきになっていた。きれいな女の人だとわかる。その目がぎょろりと動き私を捉える。
風が、冷たいものが、腹部を通り過ぎたと感じた。その瞬間に、私を支配したのは圧倒的な喪失感だった。
取られたとわかったのだ。私の子が取られた。喰べられちゃった。それがわかった。
木乃伊の口が動いている。なにかを咀嚼し飲み込み満足そうな顔をしている。
ああ、この喪失感は、怒りは、どこにむければいいんだろう。
鬼女か。いや違うのではないか。鬼女はもともと子を取られた側だった。かわいそうな人だ。
奈津を見る。鬼女は私の代わりに奈津をこうしてくれたのかもしれない。人の子を喰らう鬼がそんなことを考えるわけがないけれど、子を無くした者の前で、子が生まれないようになんて願ったものだから罰が下ったのではないか、なんて思ってしまう。
鬼は、奈津の右手を掴むと、自分の口に運んだ。ぽりぽりと音がして、右手の先がなくなっていく。
奈津の顔が苦痛に歪む。
私の赤ちゃんじゃ足りないんだ。だってまだ霞みたいな存在だったんだもの。
奈津は、まだ、生きている。口はぱくぱく動いているが呻き声が聞こえるだけ。目は私に助けを求めている。奈津の口は、たぶん、助けてと、そう言っている。
私のすることは決まった。
鬼女の洞穴で、奈津も鬼になったのだ。それならば、私も、鬼になろう。
冷静だった。奈津の肩にかかった鞄から携帯だけは取り出しておく。最後に誰かに連絡されたりしたら面倒なことになるから。鍵も懐中電灯も放っておく。事故に見えるといいけれど。いや、実際事故だったのだから。奈津の言う通り私はとろいから余計なことはしない方がいい。あとは鬼女にまかせてしまおう。
私は奈津に背を向けて、洞穴を後にする。たくさんのものを失ってしまった喪失感に包まれながら。