行って来ます
薬を服用させ、傷口の洗いも済ませ、縫合までも慣れた手つきでこなすアズナに、バレッタはただただ感嘆の声を漏らしていた。
「あ、あんた……従軍看護婦でもやっていたのかい……」
「……裁縫が得意だから。あとは医学書を読み漁って独学で……。
あくまでもあたしは支配階級の身でしたから、
同じ身分の者の尻拭いをしたくて。でも結局……、
そんな殊勝なことをするのは、あたしだけでしたけどね」
この国の医療機関は、薬学に精通する魔女や魔導士たち、つまりは支配階級の者と癒着が激しい。もとより、薬と毒が表裏一体のように、人を癒す術も、呪い殺す術もこの世界では表裏一体。それはちょうど、治療と称して祈祷が行われていたものに通じる。そんな中で差別されてきた庶民たちが満足のいく治療を受けられるだろうか。かろうじて民間の中でも、独学で薬学や医学を修める者は少しはいた。だが程なくして支配階級の者に目をつけられ、賄賂をして庶民よりも兵士たちの治療を優先するように交渉される。もとより金銭的に豊かなはずがない民間人が、金に流れるのはごく自然の摂理だ。したがって、残酷にも差別によって痛めつけられた傷は野放しにされ、挙句の果てには死体でさえ、野放しにされていた。死人を弔う聖職者も、支配階級との癒着が激しかったからだ。なにしろ、この国を治めるのは聖職者の頂点たる教皇なのだから。
そんな中で同じ身分の者の尻拭いと称して、アズナは庶民のものの治療をしていたという。もちろんそれが御法度とは知りながら。患者には無償で治療をする代わりに、口外を禁じるよう願い出ていた。それを幾度となく重ねて、腹に開いた大穴を縫合するまでになったのだという。それを聞いてバレッタは、感嘆のため息どころか、感慨の涙さえ流す始末。
「……あんた、本当に……立派だよ……。本当に」
「やめてください。褒められる謂れなんてありません。
支配階級の、ましてや王家の生まれなんて、あたしにとっては
原罪以外の何物でもありません……」
それでもアズナは、バレッタの言葉を素直に受け取れずにいた。アズナの中では今も二日後に控えた凱旋式が、目の前で惨殺された死骸の山と重なってしまうのだろう。その罪の意識は薄まるどころか、より一層アズナの中で濃くなってしまった。その死骸の中に、ハワードの姉がいたという事実とともに。どう足掻いても拭い去れるものではない。そうつらつらと語るアズナに、バレッタは唇を噛みしめる。
「……アズナ、あんたはあんただよ。あんた以外が犯した罪まで
背負ってやる必要はないさ」
「そうですよね」
「え?」
「この革命が成功すれば、階級なんてくだらないものは無くなる。
そうなれば皆が皆、自分の罪は自分で償える平等な社会が生まれる。
だから……、あたしはこの革命に賛同したんです。
自分にぶら下がっている頸木を取り払うためにもね」
アズナにとって原罪たる支配階級という制度をなくすことで、この革命に転覆される側の立場でありながら、益を見出そうとする心意気には、気丈というにも程がある。だがそんな考え方をする彼女だからこそ、彼女の中でこの革命は絶対に成功をさせなければならないものとなっていた。加えて、今この居場所が革命前夜までの仮住まいであること。その上、ヴィンセントの策略により、自分の居場所がばれてしまい、今や敵に泳がされているだけの状態であるということ。このふたつの事実が、彼女の小さな背中にどれだけの重圧を与えているのだろうか。それでもその重みに彼女は平気な顔で抗い続けている。かに見えたが、バレッタの目の前で彼女の顔は曇り始めた。
「……無理すんじゃないよ」
「……あたしのことじゃありません……。ハワードさんのことです」
その暗雲の原因はハワードの、何かを隠しているような言動だというアズナ。バレッタは、この期に及んで自分以外の心配をするアズナに、もはや呆れのため息しか出ない。
「気になるんだったら、行って来な」
「……え……」
「もう、粗方治療は終わったろ?あとはこっちでやるからさ。
自分の守りたいものを守るってんなら、どんな恥も外聞も捨てて行動することさ」
それを聞いてアズナは、小さく頷き、ハワードとドクが黙々と作業を続ける作業場へと走っていた。その後ろ姿にバレッタは再び、呆れのため息を漏らす。
「……まったく、若いもんは惚れた腫れたで忙しいもんだよ」
作業場は、地底湖のほとりにあった。ちょうど昨日アズナとハワードが並んで、グロウワームの星空を眺めたすぐ近くだ。作業場の天井にもグロウワームの光のネックレスがぶら下がっている。天井から遥か下の地面に置かれたランタンの弱い灯では、その化けの皮を剥がせないのが救いだ。まだ天井は幻想的なタペストリーとして見ていられるのだから。
アズナは、何も食べずに作業を続けているであろうふたりに、差入れの食糧庫からのなけなしのパンを携えて歩みを進めていく。地面に置かれたランタンの灯はかなり遠慮をしていた。今朝の塗装作業のときは、もっと煌々と照らしていて、手元もはっきりと見えるほどにしていたのに、心もとないぐらいの光量しかない。自分が今持っているランタンの灯をそこに加えたいくらいだ。なにせ、作業途中の機体はシルエットでしか見えていないのだから。加えて作業を進める音も聞こえないほどの静寂。休憩でも取っているのだろうかと考えながら近づいていくと、不可解にも背後から仄明るい光が伸び、背後にあったはずの影が、自分の前に躍り出た。それとともに灯の主が声を上げる。
「……アズナ、ここには来ないでくれと」
「言いましたか?そんなこと」
灯の主のハワードに声域めいっぱいに下げたアルトボイスで呼びかける。思わずハワードもたじろいでしまうほどの気迫だ。
「差入れ持ってきたのよ。あなたたち何も食べていないでしょうから」
「……、そうか。ならばそこに置いておいてくれ、ありがとう。
引き続きクラウガの予後を頼む」
そっけない態度で、自分の右隣を通り過ぎるハワードに、アズナは振り返り、再び身中の大筒に火を点けた。
「はぐらかさないでくださいっ!」
「……、あなたには……関係のないことだ……」
「関係ないことなんてありません!」
「フライトは私だけで行う。
私を見送る役目もドクに頼んである。
だから、あなたは自分の役割に集中してほしい」
「それに……、あなたの声を聞くと決心が鈍る……」
ハワードはなぜか手元の灯を吹き消し、シルエットだけを見せる青い鳥の前で立ち尽くす。その姿をアズナに見せまいとしているようだ。そこまで頑なな意思で見せまいというのなら、少し尊重したい気分にもなる。ハワードのプライドを守るためにも。しかし、そこでバレッタに言われた言葉を思い出し、拳を握りしめ、ハワードの立つ境界線へとずかずかと切り込んでいく。ここで歩みを止めれば、一生拭い去れない後悔になるような気が、アズナにはしていたのだ。
「待ってくれっ!」
ハワードの右手が、アズナの左手を引っ掴み、パンの入った籐の籠が地面にはたりと落ちる。ぐらりと大きく揺れるアズナの右手の灯が、青い鳥の全貌を露わにした。そこに横たわっていたのは、出来上がった翼を、いかだのような急づくろいの胴体にくっつけただけのお粗末な機体だった。確かに翼の一部を動かし舵を取れるようになっているのも分かる。風を受け流す流線型をその粗造りの胴体が保っているのも分かる。しかし、それが全て外から丸裸になっている。こんなもので崖の上から空を飛ぶなど、崖の上から身投げをするに同じようなものだ。
「……こ、これは……」
機体の全貌とともに、悪い胸騒ぎも、自分が感じていた疎外感も、ハワードとドクの浮かない表情も、すべての理由が明らかになった。だが、アズナはそれを受け止めきれず背中を震わせる。その背中にハワードの言葉が投げかけられた。
「プロトタイプだ……」
「正確にいうと、私が一番初めに書きあげた設計図。
ドクに見せた途端、死ぬ気かと言われて取りやめにしたものだ。
……、だが万が一製作途中の機体が壊され、早急な完成のために
フライトの安全性を犠牲にしなければならないときのために取っておいた。
だから、私とドク以外は誰も知らない」
「誰も知らないようにしておきたかった」
全貌を見せれば、ハワードが自ら死に急ぐようなフライトをするということがバレてしまう。革命の士気を保つためにも、それを極力仲間には知られたくなかったというハワード。アズナの背中の震えは、徐々に怒りを表す方の震えへとその震源地をずらし始めた。
「な……で……、……なんで言ってくれなかったんですか!
あたしに!なんで!なんで!こんな大切なことをみんなに!
どうして……どうして言ってくれなかったんですかっ!」
「……、仲間だからだ。私を黙って死なせてくれない、仲間だから。
私がこの革命に命を捧げる気でいると知れたら。
私は……、仲間を傷つけてしまう」
「……ただそうならないように、したいだけだっ」
言葉の端をアズナは平手で叩き折った。ハワードのひょろ長い背に向かって、目いっぱいに手を伸ばし、鋭くその頬を打った。
「……嬉しくなんかないですっ!
そんな救い方されたって、嬉しくとも何ともないです!
なんで、なんで……ひとりで勝手に決めるんですか!
なんで、あたしたちを置いていくようなことするのっ!
本当に仲間と……、仲間と思っているなら、仲間を信じているなら
自分が決めた覚悟を隠さないでっ!」
「……分りますか……、仲間が……あたしが……本当に一番悲しいのは
あなたが何も言わずに行ってしまうこと。
あなたが、みんなの思いに恐れを抱く気持ちも分かります。
あたしだって、あなたを失いたくありません。
でも……、あなたを信じる心はもっと失いたくないっ!」
「……それが仲間じゃないんですか……。
それが仲間を信じるってことじゃないんですか……」
ハワードの口元が密かに緩む。アズナを笑ったのではない。他でもない自分自身を笑った。死を覚悟して空に飛び立つというのに、自分よりも小さな背中に励まされた、甲斐性のない自分を。
不眠不休の作業の後、凱旋式当日の朝を迎えた。皆が皆目元にクマをつくりながら、ブルーバードを枕木によりかかるようにして寝息を立てる八人。意識をとり戻したクラウガも、作業の手伝いをしたらしい。その中でハワードがいち早く起き上がり、すぐ近くの地底湖の冷たい水で顔を洗い、うがいをする。その音で目を覚ますアズナ。湖岸であぐらをかいてあくびをするハワードの横でアズナもまた、顔を洗い、口をゆすぐ。
「おはよう、相変わらず早いんですね」
「おはよう。早起きは市場街の通いで慣れていますから」
「……ウインチに革バンドを巻く作業があるのですが、手伝ってくれますか」
まだ朝陽が顔も出さないかという時間。一昨日に崖の上に設置されたウインチと、それの相方となる固定器。その間に強靭な水牛の革で作られたバンドを渡して固定し、ウインチを巻き取って負荷を加える。青い鳥を大空に向かって撃ち出す装置作りだ。アズナは、革バンドの束を背負って、海に向かって突き出た尾根の先端に向かって歩いていくハワードのあとをついていく。
「……、とうとう来ちゃいましたね」
「……そうですね」
「どうですか、大空に飛び立つ前の心境は?」
「どうですか、人生最大の親子喧嘩を仕掛ける気持ちは?」
なんでこっちの素直な質問に、そんな捻くれた質問を返すのかとアズナは、ふくれっ面を差し向ける。ハワードはそれを屈託のない笑みで笑う。もう、つなぎ目なんて違和感はどこにもない。痩せた頼りない体格には似合わない、勇ましい決意を固めた笑みだ。
ウインチにしっかりと革バンドの端をひっかける。アズナがそれを確認すると、固定器の方まで革バンドのもう一端を引き伸ばし、しっかりとひっかけた後、ウインチを少しずつ巻いていく。走って戻ってきたハワードの腕も加わって、いよいよ革バンドは、ふたつの端点の間でぴんと突っ張り、その硬度を高めていく。ふたりで息を合わせて力を込めながら、革の線維が鈍い悲鳴をあげる限界にまで負荷を強める。革が青い鳥を撃ち放つ力を十分に蓄えたかという頃合いで、水平線から紅い陽が顔を出し始め、群青色の水面を、薄紫色の空を染めていく。
「……、覚えていますか……。あなたの声を聞くと決心が鈍ると
そう言ったことを……」
「でもそれが今じゃ、あなたの声を聞くたびに、決心が固まっていくのを感じる。
……不思議なものです。あなたに叱られるまで、
ひとりで飛べた気でいたというのに……」
「……、何よ。らしくないですよ。そんなこと……。
もうそれ以上、弱み見せることなんで言わないでください。
よりにもよって、こんな日に」
「……、こんな日だから、言えることだってあるんです」
ハワードの笑顔に陽の光が重なったとき、がばりという音に、アズナの中で時計の針が止まった。生ぬるい朝の風、決して凍えるような温度ではないというのに身体は凍り付くとともに、身体に暖かく大きな何かがまとわりついている。彼の体温が映るようにして、血脈に熱い潮が満ちると、アズナの胸はイルカが鳴くような声を上げた。
「……、は……、ハワード……」
背中に回される彼の腕が解かれる。その温もりを覚えてしまった肌が切なく歌う歌が、頭の中で海猫の声とともに響く様だった。
「私が帰ってこないなら。こんな間違いもチャラになるでしょうから」
目をつむり、屈みこんでアズナの顔に、自分の顔をゆっくりと近づけるハワードの額をアズナが悪戯っぽい笑みを浮かべながら突き返す。
「ダメですよ。後悔がなくなったら……、本当にあなたが帰ってこないみたいで
……寂しくなっちゃうじゃないですか……。
安心してください。間違いなんかじゃないです。だからこの続きは……」
「ああ……分かってる。つまりは……」
「この胸に取っておくよ」
「この胸に取っておきましょう」
ふたりは笑い合う。
名残惜しい。もっと触れていたい。
噛みしめたい。撫でたい。触りたい。
そんな気持ちを振り切ってふたりは互いに向き合い、互いに右の手を額の前に当て、敬礼を交わした。互いの再会を、互いの未来を、互いに託すために。眩しい上る朝の光に包まれながら。
「……行って来ます」